宿下がり【弐】
茅子に予見された通り蔵人佐は足が遠のいているようだが、時嵩は気にせずやってきた。
「にぎやかだな」
「純粋に人数が増えましたからね」
しかも、女性の。一人一人の声量は大したことがなくても、合わせればそれなりの大きさになる。
御簾を少し上げてざわざわしている母屋を眺めていた時嵩は御簾を降ろすと、那子の隣に腰を下ろした。
「あの様子だと、弘徽殿の女御様はお元気そうだな」
「そうですわね。楽しそうですよ」
那子はくすくすと笑って言った。どうやら、時嵩は帝に倭子の様子を伺ってくるように命じられているようだ。彼も大変である。
「お前も楽しそうだな」
顔を覗き込みながら時嵩は言った。那子は小首をかしげ、「気疲れすることもありますけれど」と微笑む。
「主上はお姉様がいなくてさみしいのでしょうか」
「姫宮様も下がってしまったからな。今は麗景殿の女御の天下だ」
「まあ」
目障りな弘徽殿の女御が後宮からいなくなり、麗景殿の女御は喜んでいるだろう。倭子が宿下がりしている理由を考えれば喜んでばかりはいられないだろうが、とにかく、目障りな敵が不在なわけだ。今頑張らなくていつやるのか、と那子も思う。
もう一人いる妃の宣耀殿の女御は自分の立場が低いことを理解している控えめな女性だ。自分を後援している右大臣が自分の娘を入内させようとしているので、わざと目立たないようにしている、というのもあるだろう。
「尚侍の君がいらっしゃる限りは大丈夫な気もしますけれど」
もちろん、尚侍の君は後宮の平和と均衡を保とうと苦心しているだろうが、やはり重しとなる弘徽殿の女御がいないのは大変だろう。頭中将もいるので麗景殿の女御も突飛なことはできないと思うのだが。
「後宮内はな。主上は弘徽殿の女御様に会えず、消沈している。お前はいつでも妻に会えていいな、と言われた」
「まあ」
倭子が後宮を出てからそんなに経っていないのに、なかなかの重症である。しかし、姉はそれほど愛されていたのだな、と思うと少し安心する。
「それで、お姉様の様子を確認してきてほしいと? 宮様がお姉様に会えるわけでもないのに」
くすくすと笑うと、時嵩が「そうだな」とうなずいた。それから彼は那子のほほをつつく。
「さすがに笑いすぎだぞ」
「ごめんなさい」
何とか笑いを収め、時嵩と晩酌を楽しむことにする。
「つまり、今のところ呪詛などはないと言うことだな」
「今のところは確認できませんわね。尤も、多少の呪詛があったところでこの邸は小動もしませんよ」
「さもありなん、だな」
強固な結界に守られている邸だ。それでも、呪詛が入り込まないわけではない。人が持ち込めば侵入は防げない。おおよそのものは那子が気づけるとは思うのだが。
なめるように口に酒を含む。飲み慣れないので少しずつしか飲めないが、那子は割と酒精に強い方らしい。確かに那子は酒で酩酊したことがない。
だが、のどを通る時の刺激が苦手だ。きゅっと目をつむり、盃を置くとかりんとうに手を伸ばした。時嵩は相変わらず、那子には菓子を与えておけばいいと思っているところがあるので、これは彼の土産だ。
「やはり食べる方が好きか」
「そうですねぇ」
足を崩して時嵩にもたれかかった。盃を置いた時嵩が後ろに体を倒して寝転がったため、那子は時嵩の体の上に乗ることになった。
「宮様?」
身じろいで時嵩の体の上でうつぶせになる。珍しく見下ろす形になった時嵩を見る。
「酔っています?」
「どうだろうな」
大きな手で頬を包まれ、なでられる。酒は呪術とも切り離せないが、神事とも切り離せない。口を吸うと酒精の味がした。
「んんっ」
離れようとした那子の頭と体を押さえつけ、時嵩が口づけを深いものにする。肩をたたくが離してくれない。やはり、酔っているのでは。
「ふあっ、もうっ!」
腕が緩んだので身を起こすと、那子は涙目で時嵩の胸をたたいた。八つ当たりである。時嵩も肩をすくめて「すまん」と言いつつ身を起こした。
「お前はいつまで経っても慣れないな」
「宮様のように経験豊富ではございませんもの」
むくれて言うと、時嵩は「私も別に経験豊富ではないが」といつもの真面目な口調で言う。その手は那子の頬をつまんでいる。男女の情を交わすようになってから、時嵩は那子によく触れる。那子も嫌ではないのでされるがままだ。
那子は時嵩の広い胸に頬を押し付けて目を閉じる。生きている音がする。
と、急に絹を裂くような悲鳴が聞こえた。近い。那子も時嵩もはっと姿勢を正した。
「女御様か?」
「いえ……今のは妹ですね」
「三の君か」
倭子は簡易の座所を北の対の奥に置いている。母屋の奥ということだ。ここは東の対で、悲鳴は同じ対屋から聞こえたから、妹の茅子のものだ。
「様子を見てきます」
「ああ……待て。羽織っていけ」
立ち上がった那子に、時嵩はかいがいしく袿を着せかけてくれる。
「私はついて行けないが、無茶をするな」
時嵩が那子にささやく。時嵩の身分を考えれば邸内をうろついても何も言われないが、近くまで行ってもまさか茅子の局に入るわけにはいかない。
簀子縁を伝って茅子の局まで向かうと、大量の明かりが持ち込まれていて明るかった。
「悲鳴が聞こえたけど、どうしたの?」
「中の君様」
那子の顔を見た茅子の女房がほっとしたように那子を中に入れてくれた。すでに就寝していたらしい茅子は褥に身を起こしていた。上半身を起こし、震える自分の体を抱きしめていた。
「箏音」
幼名を呼ぶと茅子ははっと顔をあげて那子を見た。茅子の側について背中をさすっていた女房も明らかにほっとした顔になる。期待されているのはわかるが、期待されるほどのことができるとは限らない……。
「大丈夫? 怖い夢でも見た?」
「夢……」
那子も茅子の側に膝をつき、肩をなでてやる。表情には出さなかったが、那子はわずかに眉をひそめた。侵入された形跡がある。
「あれ……夢……? 男の顔をした毛むくじゃらの獣が、私を見ていやらしい感じに笑ってて……」
ここで茅子は悲鳴を上げて目を覚ましたらしい。思った通り、夢に侵入されている。目が合っているので認識はされてしまっただろうが、まだ大丈夫だ。
「大丈夫よ。何か起こる前に目を覚ましている。対策は必要だけど、お前も赤子も無事よ」
言い聞かせるように言うと、茅子ははっと那子を見上げ、ついで安心したように息を吐いた。
「自分で目を覚ましたわけではなくて……無理やり起こされた、といいますか……」
起きろ、と言われているような気がして目を覚ましたのだ、と茅子は言った。那子は「そうなのね」とうなずいて茅子についている女房に声をかけた。
「護身用の呪具を持っていたわね。すべて出しなさい」
「えっ。ですがそれは、身を守るためで……」
「だからよ。壊れていたら、取り換える必要があるわ」
「すぐに持ってきます」
慌てて立ち上がったのは那子が声をかけた女房ではなく、御簾の近くで控えていた女房だった。ややあって、那子の前に三つの呪具とお守りが置かれた。
「これとこれは壊れているわね」
おそらく父が用意したと思われる鏡の呪具は形を保っていたが、那子が用意した勾玉のお守りと、蔵人佐からもらったと言う匂い袋のお守りはすでに用をなしていない。勾玉は濁っていた。
「その鏡は常にそばに置くようにするといいわ。強力な呪具ね。最後の一線を守ってくれるはずよ」
「はい」
宇治重玄のような術者が相手だと容易に踏み越えてくるが、通常であれば守ってくれるはずだ。しかし、簡易的とはいえお守りが二つ壊れている。茅子の身代わりになったのだろうが、この二つで夢深くへの侵入を防げたのは事実だ。別のお守りがいる。
「また別のものを用意するから、今日のところはこれを身に着けて寝るといいわ」
那子は自分の首から管玉と勾玉のお守りを外す。それほど強力ではないが、身代わりくらいにはなるはずだ。茅子が礼を言って受け取る。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして。誰か、屏風を一双借りてきて。絵柄は何でもいいけれど、絵を外に向けて、その間で寝るといいわ」
「ええ……それはちょっと」
茅子が嫌そうに言うが、「安全のためよ」と那子は肩をすくめる。
「今日だけの緊急対応よ。明日、お父様と話し合っていい方法を考えるから」
「……わかりました」
文句を言える立場ではないと思ったのか、茅子は渋々うなずく。不安そうな茅子を痛ましそうに見ていた女房が「あの」と那子に声をかける。
「他に方法はないんですか。三の姫様がおかわいそうです」
おかわいそうなのはお前の頭の中だ、と思いつつ、那子は首を傾げて尋ねた。
「お前、名は?」
「常盤と呼ばれております」
たいそうな呼び名だ。では常盤、と那子は口を開く。
「わたくしはわたくしの妹がこれ以上怪異の影響を受けない、今できる最善の方法を提供しているのよ。確かに裏を向けた屏風に挟まれて寝るのは居心地が悪いでしょうけれど、だからってそれを怠り、再度襲われたら本末転倒でしょう。あなたができるのはわたくしにほかの方法を示せと言うことではなく、箏音が不安にならないようにともに屏風の裏にいることね」
そうこうしている間に小さめの屏風が到着していた。ついでには母の朔子も到着していた。茅子が「常盤」と自分の女房を呼ぶ。
「も、申し訳ございません」
「今回は不問にしておくわ。お母様、今代わりますね」
那子は茅子の側を立ち上がり、母に場所を譲った。朔子は茅子の側に膝をつきながら「大丈夫だった?」と顔をのぞき込む。茅子がわずかに微笑んだ。
「すぐにお姉様が来てくださいましたから」
「そう……五十鈴も、あまり根を詰めすぎないのよ。あまり怖がらせないように」
「はぁい」
常盤に若干怖がられた自覚があるので、那子は朔子の言葉にうなずいた。
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