宿下がり【壱】
結局、那子は豊明節会の後に後宮を下がってから、ずっと五条の父の邸にいた。那子の二条の邸はまだ改修中であるし、弘徽殿の女御である姉・倭子が妊娠しており、宿下がりをしてくることを考えると、五条の邸で結界を強化しておいた方がいいからだ。夫となった時嵩の東四条邸に行くことも考えないではなかったが、現状、宇治重玄は活動休止中であるし、帝の子である女御の腹の子を守る方が優先だからだ。
五条邸で晦日を迎え、年を明かした。時嵩が定期的に五条邸に通ってくる状態なので、ある意味通常の婚姻関係となっている。那子が自分の邸である二条邸に戻ればこうはいかない。
ところで、五条の邸にはもう一人妊婦がいる。那子の妹の茅子だ。彼女は妊娠五か月から六か月と言うところで、腹が膨らんできているのがわかるころだ。おそらく、倭子の子と同じくらいに生まれるだろうが、茅子の方が少し早いだろうか。
「先日、私の夫が宮様とお会いしたと言っていました」
そりゃあそう言うこともあるだろう。茅子の話し相手になるべく彼女の局を訪れた那子は話を聞いてそう思った。茅子の夫、五位蔵人改め蔵人佐と那子の夫の時嵩は同じく、大内裏に出仕しているのだから。
「そうではなくて、この邸でです」
「あら」
それは蔵人佐も緊張しただろう。職場でもないところで、まさか中書王に合うとは思うまい。しかし、それぞれ姉妹の夫であるのだから、珍しいことでもない。おそらく時嵩の方はいつも通りにあいさつでもしたのだろうか。そう思うと、少しおかしい。
「それは気の毒ね、蔵人佐が」
「滅多にないでしょうけど。普通は出くわさないように気を付けるものだし……」
「……そうね」
それ、時嵩は気にしなさそうだなぁと思った。注意を促しておこうか。行ったところで気にしないような気もするが。
「もうすぐお姉様が宿下がりしてらっしゃるし、足が遠のくかもしれません」
茅子にとって姉は二人いるからわかりにくいが、この場合のお姉様は倭子のことだ。弘徽殿の女御が宿下がりしてくるため、蔵人佐の足が遠のく可能性はある。茅子は彼の本妻で彼の子を妊娠しているが、帝の妃のいる邸に気軽に来れるほどの度胸はないだろう。身分ではなく、度胸の問題だ。時嵩は本人が親王でなくともやってくるだろう。それこそ度胸の問題だ。
「お姉様はいいですわね。旦那様が宮様ですもの。きっと大姉様がご滞在でもいらっしゃいますわね」
この場合のお姉様は那子で、大姉様が倭子だ。那子は茅子の話し相手になりに来たのだが、どうやら茅子は夫の訪れがなくなることが不安らしい。妊娠で情緒不安定の可能性もあるが。
「そうね……赤子は茅子の方が先に生まれるのだったかしら」
「ええ、その予定ですわ」
触らせてもらえばはっきりと膨らんでいるのがわかる。胎動を感じることもあるらしいが、今はわからなかった。
「生まれたらにぎやかになるわね」
倭子は姫宮も連れて下がってくる。那子の役目は、姫宮の遊び相手だろうか。
「お姉様、関係ないみたいな顔してますけど、お姉様だってその間に身ごもるかもしれないではありませんか」
仲いいですよね、と目をすがめられる。仲はいいので否定はできない。二人とも健康な若い男女であるので、そういうこともあるかもしれない。
「まあ、ないとは言わないけど、どうかしらねぇ」
とにかく、今の那子の仕事は、倭子を無事に出産させることだ。茅子もそうであるが。特に茅子は初産だ。この時代、出産の死亡率は高い。那子は祈ることしかできないが、神に近いと時嵩に言わしめた那子の祈りなら、神に届くだろうか。
「楽しみね」
「……お姉様と話していると、本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議」
那子は茅子に向かってにこりと微笑んだ。
それからひと月ほどして、倭子は宿下がりしてきた。この時点で倭子の妊娠周期は五か月から六か月程度、つまり、茅子よりひと月遅れくらいだろうか。女御である倭子は女房も多数連れて下がってきたため、五条の邸は一気ににぎやかになった。
「やっぱりわたくし、二条の邸か宮様のところに行こうかしら」
「待って。やめてください。私を一人にしないでください」
一気に人数が増え、しかも女性が増えたのでにぎやかになった五条邸で那子はため息をついてそう言ったが、茅子が引き留めるように那子の腕をつかんだ。茅子はほかに行く場所がないのでここにいるしかない。どれだけにぎやか師くても逃げ場がない。
「茅子はお姉様に妊婦の心得でも聞いていればいいでしょ」
「嫌よ。お母様にもさんざん言われてるんですよ」
「あ、そう……」
正直、母ならやりそうだと思う。心配性なのだ。茅子も初産で心配なのに、余計に不安をあおるようなことを言われて不安が加速するらしい。
「それより、お姉様と宮様のことを聞きたいですね」
「楽しそうね。私も混ぜて」
話を聞きつけたわけではないだろうが、倭子が顔を見せた。宰相乳母が自分で御簾を上げた倭子をしかりつける。
「女御様!」
「いいじゃない。実家でくらい、自由にしたいわ」
と、倭子は後宮を出たことでにわかに得られた自由を満喫している様子だ。姫宮も予定通り連れていたが、別の女房が見ているらしい。
倭子は那子と茅子のいる局に入ると二人に向かい合うように座った。唯一身軽な那子が立ち上がり上座を用意しようとする。宰相乳母が慌てて那子を止めた。
「斎宮の君様も、おやめください」
「ええ……」
「今の顔、大姉様とそっくり」
茅子がくすくす笑って言った。ツボにはまったらしい。機嫌がいい分にはかまわないので笑わせておく。倭子も、自分だけが母親が違うことをひそかに気にしているので機嫌よさそうに「似てる?」と笑っている。宰相乳母もほっとしたように倭子の座所を整えている。
「それでそれで? 五十鈴と宮様、何かあったの?」
わくわくした様子で倭子が尋ねてきた。もうまとまった話なので、聞いても面白くないと思うのだが。
「何もありませんけど……」
頬に手を当ててこてんと首をかしげる。
「ええっ、いつもいちゃついてるじゃないですか」
茅子が言うが気候が春めいてきたので、簀子縁で梅の花を見ているところを見られていたのだろうか。確かに、那子も茅子と蔵人佐が簀子縁で語らっているところを見かけたことがある。
「宮様がわたくしに甘いのは元からです」
「開き直りがすごいわね……」
文字通り開き直った那子の言葉に、倭子は少しあきれた調子で言った。那子と時嵩はかなり年が離れているので、どうしてもそうなってしまう。
「お姉様、妊娠している姉妹に娯楽を提供してくださいよ」
「わたくしの夫婦生活を娯楽扱いしないでよ……」
那子だって相談したいことはあるが、娯楽にされるのは困る。
「暇なら賽子遊びでもする?」
代替案を出すと、倭子がくすくすと笑った。
「なんだか楽しいわね。三人そろったことって、あまりないけれど」
仲の良い姉妹であるが、那子が八年間斎宮として伊勢に赴いていたため、実は三人がそろってこの邸に暮らしていた期間は長くない。那子が戻ってきたころには、倭子はすでに入内していた。
そう言えばそうですね、と茅子も笑っている。妊婦の二人が楽しそうだから、まあいいのだろうか。那子は首を傾げつつ、干した桃に手を伸ばした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




