五節舞【拾】
時嵩の説得もできたので、那子は本格的に神楽舞の準備をし始めた。帝から尚侍の君に話がいったらしく、必要なものがあれば言ってもらえれば便宜を図る、と言われた。尚侍の君が間に入ってくれるので、話が進みやすい。
そんな折である。綾目が目を離したすきに、那子は藤壺に連れ込まれた。
「何をなさいます! わたくしは弘徽殿の女御様の妹ですよ! お前ごときが触れていいはずがないでしょう!」
普段の那子を知っていれば違和感を覚えるであろう高圧的な態度で声を荒げた。那子の両手をつかんでいる男は、那子より少し年上だろう。二十歳ばかりに見える。直衣の色から、それほど高位の殿上人ではないと判断し、那子は権力をかさに着るような発言をした。そう言う相手にはこういう対応がよく効くと知っていた。
那子の身分と、その背後にあるものを考えて、たいていの場合はここで引いてくれる。だが、今回は違った。
「わかっていますよ、斎宮の君様。あんなに熱烈な恋文をいただいて」
は? と慌てていた気持ちが一瞬で呆けた。なんだそれは。那子は生まれてこの方、恋文など書いたことがない。抵抗の止まった那子を男は押し倒した。那子はぞっとする。男性には膂力で勝てない。ここから逃げる術がない。
「勘違いです! 離して!」
「そういうふりですか?」
ぞっと、にわかに恐怖を覚える。那子は大抵の者にたいして身分にものを言わせることができる。だが、性別を超えることができないので、男性に力で勝てることはないのだ。どれだけ暴れようと振り払えない。体勢も悪い。
落ち着け。この会話の通じなさは話を聞かないとか、思い込みが激しいと言うことではない気がする。操られているのかもしれない、と思った。
思ったところで手の打ちようがない。術を使おうにも、こうも冷静さを欠いていれば発動しない。
「ぎゃっ!」
恐怖で目をつむった瞬間、のしかかっている男が悲鳴を上げた。どさりと那子の隣に倒れこみ、痙攣している。母に持たされた呪符が発動したのだと一拍置いて気が付いた。妹の茅子にも心配されたが、那子が一人で後宮に参内することに、母はいたく心配し那子にお守りの呪符を持たせたのだ。いわゆる貞操を守る系の呪符であることはわかっていたが、こういうものだったのか。
震える足で立ち上がり、簀子に出た。そのまま弘徽殿の方へ向かう。夕暮れ時で人が少ない。そこを慌ただしい動きをしていたので見とがめられたのだろう。声がかかった。
「斎宮の君様?」
聞いたことのある声ではっとした。そちらに気を取られたせいで足がもつれ、渡殿で転んだ。声は頭中将のものだった。
「大丈夫ですか!? おい、中書王様を呼んできてくれないか。まだ帰っておられないだろう」
「中書王様ですか? わかりました」
頭中将は一緒にいた部下らしき男性にそう命じると、彼を行かせた。本当に時嵩を呼びに行く必要もあったが、その部下を那子から遠ざけてくれたのもわかった。
「斎宮の君様、お怪我は?」
「……だいじょうぶ」
渡殿で打った膝が痛いが、それくらいだ。少し冷静になると、藤壺から離れた方がいいと気づいたが、頭中将がいるのならしばらくは大丈夫だろう、と那子は立ち上がらず、その場に座り込んだ。
「斎宮の君様? 頭中将様も」
やってきて驚いたように声を上げたのは、少将内侍だった。騒ぎに気づいて様子を見に来たようだ。まあ、夕刻にこんなところでたたずんでいれば怪しむ。
「どうかなさったのですか?」
座り込んでいる那子に少将内侍は驚き、側にしゃがみこむ。落ち着かせるように背中に触れられたが、那子はびくっと肩を震わせた。少将内侍も驚いたように手を引く。
「少将内侍、今、斎宮の君様の夫を呼びましたから、大丈夫ですよ」
「まあ……」
頭中将の言葉に少将内侍が目をぱちくりさせた。そこに、「五十鈴!」という時嵩の声が聞こえた。
「大丈夫か」
随分来るのが早かったが、ここは帝の座所、後涼殿が近い。帝と会っていたのかもしれない。
時嵩を見て、少将内侍は場所を譲った。那子は同じ目線までしゃがみこんだ時嵩の顔を見て自分が自覚していたよりも動揺していたことに気づいた。彼の胸元に額を押し付けて息を吐く。
「薫、ありがとう。少将内侍、すまないが五十鈴のことを綾目に伝えてきてくれないか」
「綾目様ですね。承知いたしました」
すっと少将内侍は立ち上がると、綾目を探しに弘徽殿の方へ向かった。
「五十鈴、立てるか」
「はい」
小さくうなずくと、時嵩に支えられて那子は立ち上がった。それを見て頭中将も安心したように微笑んだ。
「では、私もここで」
「ありがとうございます」
礼を言う那子に気やすく手を振り、頭中将も後涼殿の方へ向かった。妹のいる麗景殿へ向かうのかもしれない。この場所から麗景殿に向かうとなると、門の付近を大きく回り込むか、後涼殿や紫宸殿の付近を通るしかない。
「姫様」
少将内侍は言伝の役目を果たしてくれたらしく、弘徽殿の那子が使っている局の前で綾目が待っていた。
「待っているから、話せるようになったら呼んでくれ」
そういって時嵩は外をむいて簀子に座り込んだ。那子は少し驚いて目をしばたたかせたが、綾目は驚いた様子もなく「すぐにお呼びしますね」と言って那子を御簾の中に押し込んだ。
「何があったのですか? できるだけおひとりで行動しないようにと申し上げましたよね」
小さいころから一緒にいる乳兄弟は容赦がない。那子は正直に藤壺で男に引き込まれたことを話した。那子の衣装を整え、髪をくしけずっていた綾目が「いろいろ言いたいことはありますが」と前置きしてから言った。
「まずは中書王様に叱っていただきましょう」
「うぐ……っ」
那子は顔をしかめたが、綾目は「おわりましたよ」と言って立ち上がり、宣言通り時嵩を中に入れた。綾目自身は御簾の外に出る。おそらく近くには控えているだろうが、一緒にいてほしかった……いや、叱られ度合いが二倍になるだけか?
「那子」
那子の真正面に座った時嵩は、那子の両手を取って彼女の真名を呼んだ。
「何があったか聞いてもいいか?」
「えっと……」
那子は綾目にしたように説明をした。何度か時嵩は口をはさみたそうにしていたが、結局口を挟まずに最後まで聞いた。
「……まず、お前は人気のないところに一人で行くんじゃない」
「はい……」
時嵩の方が限定的ではあるが、綾目と同じことを言われた。那子自身も反省しているところではある。
「あ、でも、気になることもありまして」
叱られ続けでは困ると那子は主張をした。時嵩は眉をひそめたが、一応聞くことにしたようだ。
「気になること?」
「わたくしを引っ張り込んだ男、目の焦点が合っていませんでした。支離滅裂なことを言っていましたし、何らかの呪いで操られていたのではないかと思います」
那子の訴えを聞いて、時嵩がわずかに目を見張ったのがわかった。
「そうか……初めから誰かにつけておけば、内裏の門の結界にはじかれることはないだろうな」
「そうですよね……」
内裏の結界は妖などの害意あるものの侵入は防ぐが、人間は基本的に防がれない。人除けの呪いはかけられているが、もともと出仕している官吏なら出入りできるのは当たり前だ。
だが、無事に人につけた術が内裏の中に入ったとしても、そのままでは発動しない。結界を通過する時点では不活性化していなければ、それはそれで結界に反応があり、陰陽寮が飛んでくる。何らかの条件を満たし、発動させなければならない。
「やはり、内部に関係者がいるんだろうな……」
那子はこくりとうなずいた。そう考えるのが自然だ。おそらく、大内裏の役人の中にも紛れているし、後宮内にもいるだろう。身分と後ろ盾さえあれば、割と入り込みやすい。右大臣のお抱えの術師も怪しいので、そういう立場で出入りしている可能性もある。
「それと、お前は恋文をもらった覚えがないし、返事をした覚えもないと言っていたが」
「あ、はい」
急に話が飛んだ。那子の言う支離滅裂なことを言っていた、というあたりの話だ。かいつまんで説明したのだが、時嵩は引っかかったらしい。
「これはたまにあることらしいんだが……女房の誰それに、と別の女房や女嬬が預かった文に、勝手に返事を出す、ということが往々にして起こりうる。宛先が気に入らない相手だったり、文の主が自分が懸想している相手だったりした場合だな。術者の手の内なのか、単純にお前が気に食わない相手のせいなのか、不明だ」
前後関係を考えると宇治重玄の手のものの可能性が高い、と時嵩は締めくくったが、那子は少々驚いていた。時嵩にそういった知識があるとは思わなかった。
「もしかして、ご経験が?」
先ほど時嵩は那子の立場に立って説明してくれたが、男女が逆の場合もあるのではないだろうか。そう思って尋ねると、「どうだろうな」と遠い目をされた。これはあるな。時嵩なら、恨まれていると言うよりも時嵩に懸想している女性の犯行だろう。なんだかおもしろくなくて那子は時嵩の衣服の袖を引いた。
「どうした?」
存外優しい声で尋ねられ、那子は急に恥ずかしくなった。なんでもありません、と返す。それでも、すねたような声音になったのは否定できない。
「……催眠術をかけられていたとしても、本人の嗜好を操るのは難しい。お前を襲った男は、お前に対して少なからずそういう欲望を抱いていたのだと思う」
「……はい」
それは時嵩よりも暗示が得意な那子の意見としても同じだ。他人の趣味嗜好を操るのは難しい。嫌いなものを好きにすることは難しいし、したくないことをさせようとすると抵抗される。そんな様子は見られなかったから、あの男は、那子に対して少なくとも本当に好意を抱いていたはずだ。
思い出して握ったままだった時嵩の袖を握りしめる。慰めるように時嵩が那子の手をなでたが、同時に言った。
「そして、私もお前に対して同じような欲望を抱いている」
「……はい?」
変化球が来ていろいろ吹っ飛んだ。なんか今、時嵩らしからぬ科白を聞いた気がする。時嵩が那子の方に身を乗り出した。
「那子が好きだと言う話だ」
好きか嫌いかで言うと、好きだと言われるのはわかっていたが、まっすぐに言われた。顎がつかまれる。ぐっと顔が寄せられた。
「こういうことをしたいと思っている」
え、と口を開こうとして、口づけられた。唇と唇の、だ。味わうように食まれたが、それはすぐに離れていった。那子がきょとんとしているのをみて、時嵩は肩をすくめた。
「嫌がらないなら先に進めるが」
引くことはしないらしい。これまで那子が気づかない、もしくは気づかないふりをしてきたせいだが、押しまくることにしたらしい。そっと横たえられて時嵩は本気なのだ、とこの時になってようやく悟った。
「わ、わたくしは」
「うん?」
腰ひもをほどこうとしていた時嵩が一応という体で手を止める。
「……宮様に触れてほしいです」
連れ込まれたことで思い知ったところだ。那子は時嵩でなければ嫌なのだ。
時嵩が息を呑んだ。長い溜息が吐かれる。
「では、遠慮はしないからな」
脅すように言われたが、那子は構わない、と答えた。そう言ったって、時嵩がこちらに気を使ってくれるのを知っている。
息苦しくなるほど唇を吸われ、なめられる。手は無遠慮に那子の肌をなぞった。
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