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五節舞【捌】









 弘徽殿の簀子に出た那子は、ふと空を見上げた。青い空が見える。大嘗祭の日も晴れるだろう。


「揺らいでる」

「? どうかなさいましたか。斎宮の君様」


 ともに簀子に出ていた少納言が首をかしげていた。那子は微笑んで首を左右に振る。


「ううん。なんでもないわ」


 二人は宿下がりをすることになった大江衛門を見送ったところだった。彼女の恋人が騒動を起こしたためである。彼女自身は悪くないのだが、けじめのようなものだ。大嘗祭が近くなければ、ここまで問題にはならなかった気もするが。


 この状況で女房が減ったため、弘徽殿はにわかに忙しくなっていた。別に、一人減ったところで女房が足りなくなるわけではないのだが、配置の見直しなどはある。おかげで、現在、那子が連れてきた綾目が駆り出されている。


 簀子を移動する那子には、はっきりと内裏の中がざわついているのが感じられた。人の動きを感じていると言うよりは、空気が揺れているのだ。空が揺らいで見えるのは、空気が揺らいでいるために、内裏を覆っている結界に影響が出ているのだと思う。


 そこまで行くと、那子にはどうしようもない。陰陽寮が何とかしてくれると思っておく。那子が気づいているくらいないので、時嵩に視えていると思うのだが。


 すっと那子の目の端を何かが通り過ぎていった。白っぽい明確な形をとどめないそれは、妖の一種だ。内裏の中には案外、こうした害意のない妖がちらほらいるものだが、それにしても多い。こうも多いと、勘のいいものは気づくもので、那子と同じものを目で追って首をかしげているものも多い。弘徽殿の女御である倭子もそうだ。


「以前から多少は目に入ったけれど、多くない?」


 干菓子をつまみながら倭子は顔をしかめた。彼女が使っている母屋には、那子がこれでもかと言う強力な結界を張ったので、妖は出入りできない。


「内裏の結界が揺らいでいるのですよ。あれだけの呪詛騒ぎが起これば、揺らぎも生じるというものです」

「内裏の守りが弱くなっている、ということ?」


 真剣な表情で倭子が尋ねた。那子は「そうですね」と言葉を選ぶのに少し考える。


「……弱くなっている、と言うのは正しくないと思います。揺らいでいるんです。隙が生じていて、妖が入り込みやすくなっているのですね」

「違いが判らないわ……」


 そう言われても、那子にも説明が難しいのだ。ともかく、結界の強度が弱まっているわけではない。だから、害意のある妖の類は入ってこられないだろう。


 だが、揺らいだことで生じた隙間から無害な妖が入り込んでくる。人間に害意を与えるわけではないので、結界にはじかれにくいのだ。入ろうとした数の半数近くは侵入できてしまっているのではないかと、那子は思う。


「今入ってきている妖は、まあ、視たら驚きますけれど、人に害を与える類のものではありません」


 そこに存在しているだけだ。人に害をなすほど強い妖なら、離れていても場所をある程度把握できる。そう言う存在は今はいない。


「ならいいのだけど……わたくしたちはそれで納得するけれど、麗景殿はそうはいかないようね」


 ため息をつきながら金切声の上がった先である、麗景殿を指摘する。足元に何かが通ったとか、体を何かがなでたとか、壁に何か映って見えるとか、それ、勘違いでは、というものが多い。しかし、今年は違う。本当に起こっているのだから。


 那子からすると、いちいち騒いで面倒、という思いが先だってしまう。本当に怖いのかもしれないし、怖がる女性を演出して殿方の気を引きたいのかもしれない。とはいえ、この状況を放っておくことはできないだろう。


「とはいえ、五十鈴が結界を張りに行くわけにもいかないしねぇ」

「そうなんですよね……せめて状況を見に行きたいんですけど」


 麗景殿でも、そしてあまり騒ぎにはなっていないが宣耀殿も同じ状況だと思われる。那子としてはどちらの状況も見に行きたいが、特に麗景殿が難しい。


「宣耀殿は、先ほど遠目にちらっと見てきましたけど」

「あら、そうなの?」


 さすがに近づけなかったが、遠目に殿舎の様子を見てきていた。宣耀殿の女御は、自分の立場が不安定で弱いことを理解しているので、明らかに身分が上である那子のやることにいちいち文句を言ったりしない。それが遠目に見ているだけならなおさらだ。


 宣耀殿でも女房の一部が妖に気づいているようだ。しかし、誰かそう言う知識がある者がいるのか、妖除けの呪符を柱に張って対処しているようだった。それを守っていれば、こちらは問題ないだろう。


「確かに、あちらのお方はなんというか、賢明よね」


 倭子も納得したように軽くうなずいた。騒いでいるのは主に麗景殿と言うことになる。


「騒ぎたくなる気持ちもわかるけれど、ああいった騒がしいところは、主上は好まれないのよ」


 ため息をついて倭子は首を左右に振る。今、帝の寵愛を尤も得ているのは倭子だ。麗景殿としてはこの寵愛を自分に向けたいのだろうが、方法が間違っている。か弱い、守ってあげたくなる女性を演出したいのであれば、どう考えても方法を間違えている。


「あれだけ騒がれては、左大臣様の手前、放っておくことはできないのではありませんか?」

「そうね。だから、お慰めするために麗景殿を呼ぶでしょうけれど、公平を期すためにわたくしや宣耀殿にも声をかけるわ。主上はそういう方よ」


 倭子を愛しているのは確かだろうが、政治的配慮も欠かさない。倭子もそのあたりを理解できた女性だから、寵愛を受けるのだろうと思う。それにしても。


「もしかしたらわたくし、のろけを聞かされていますか?」

「どのあたりが?」


 はっとした那子が首をかしげると、向かい側で倭子もいぶかし気に首を傾げた。御簾の向こうから、ふいに笑い声が聞こえた。


「存外、似た者姉妹だな」

「主上」


 聞こえてきた声に倭子が微笑み、中に招き入れようとする。那子も位置を改めようと立ち上がるが、やってきた帝が待ったをかけた。


「中書王が一緒だ。几帳を立ててくれ」


 時嵩が一緒に来ているらしい。通常は御簾越しになるのだが、おそらく内密の話がしたいのだろう。那子は外していた女房達に声をかけ、几帳を用意してもらい、帝が御簾の内に入る代わりに、自分は一度簀子に出た。


「宮様」


 那子が呼びかけると、時嵩は複雑そうな表情を彼女に向けた。


「五十鈴……随分、清浄な結界を張っているな」

「こちらには姫宮様もいらっしゃいますから」


 倭子の娘である姫宮はまだ三歳だ。この国では、生まれた時点で一歳で、年を超えるたびに一歳年を取るから、実質二歳だ。小さな子がいるので、那子も気合を入れた。なお、この大嘗祭が終わるまでの間、姫宮は弘徽殿で世話をされている。普段は隣の殿舎である登華殿とうかでんも利用しているのだが、今は一か所に集められていた。


「だが、光が強ければ闇が濃くなるものだ。その分、怪異を引き寄せるかもしれない」


 心配されているのはわかるが、那子は時嵩の物言いにむっとした。


「そのあたりはちゃんと心得ております」


 そもそも那子は、時嵩ほど怪異を調伏する力が強いわけではない。だから、最初から避けるつもりで対策をしている。


「闇を飲むのはお前だろう。限界を見誤るな」

「わかっております」


 心配しているが故の忠告だと思うし、時嵩の言うことは正しい。何かあった時、それを飲むのは那子だ。だが、那子だって自分の限界を心得ているつもりだし、そうそう遅れをとるつもりはない。










ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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