五節舞【肆】
翌日、朝から弘徽殿は騒がしかった。大嘗祭が行われるにあたり、供物とともに貢物が届き始めたのだ。舶来の珍しい工芸品から始まり、香や屏風、薬草に至るまで様々なものが届いているそうだ。那子は母屋にそれらのものが運び込まれるのを見て、「すごいわねぇ」とつぶやいた。
「本当ですよね。顔がはっきり見える鏡なんて、初めて見ました」
那子の隣に立ってうなずいたのは、大江衛門だ。もちろん、この弘徽殿の女房である。二十歳手前ほどに見えて、おそらく、那子と一番年が近い。那子は自分の世話役として綾目を連れてきているが、彼女は情報収集に出回っているので、なんとなくこの大江衛門と一緒にいた。
大江衛門と贈られてきたものについて話していると、ふと那子の意識に何かが引っかかった。それは姉の方へ近づいていく。
「斎宮の君様? どうなさいました?」
「ええ……」
不思議そうにのぞき込んでくる大江衛門に生返事をしながら那子は視線をめぐらせ、西廂に回り込んで母屋の中に声をかけた。
「お姉様」
倭子が妹の声に気づいたのだろう。宰相乳母が顔を出し、「女御様がお入りになるように申しております」と那子に声をかけた。那子に便乗し、大江衛門もともに母屋に入った。
中は贈り物であふれかえっていた。これでも、確認したものから順次運び出しているそうだ。
「五十鈴、気に入ったものがあれば持って行っていいわよ」
倭子がそばまで来た妹にさらりと言った。親王を父に持つ王女御の元へ運び込まれる絹は、ある程度の身分がないと着ることができないものもある。妹であり伊勢の斎宮であった那子が、最も倭子と着ることのできる絹が重なるだろう、と言うことだ。
「こちらの綾織など、斎宮の君様に似合いそうですよ」
大江衛門がのりよく言った。確かに、倭子より那子に似合いそうだが、それではない。それが口をついて出て「違うわね」と那子はのたまった。
「違うって、何が違うのかしら」
何かを察したらしい倭子が顔をこわばらせて尋ねた。那子は答えず、広げられた布を眺める。何度見ても、最高級品が並べられており、圧巻だ。
「みんな、動かないでね」
妹に返事を期待せず、倭子は周囲に向かってそう命じた。動き回っていた女房達が立ち止まり、何事だろうとこちらを見守っている。
「……お姉様、あちらの綾織物をいただいてもよろしいですか?」
「あの藍染のものかしら。いいわよ」
藍色に見えるその布地は、複雑な模様が織り込まれている。気に入ったものがあれば持って行っていい、と言った手前、倭子は那子が持ち出す許可を与えた。
「私が」
那子が自ら動こうとすると、側にいた女房が代わりに取ってくれようとした。箱の中に納められたままになっているので、その箱のまま取ろうとしたのである。
「待って、少納言。わたくしがやります」
那子が手を挙げてとどめると、少納言は明らかに戸惑った表情になった。倭子を見るとうなずかれたので仕方なしに手を引く。那子は自分で箱を持ち上げた。
「持って行くの?」
「ええ。いただいてもよいと、おっしゃったではありませんか」
多分、そう言うことではないとわかっていたが、那子は倭子の言葉にそう答えた。倭子は首を左右に振る。
「そう言うことではないわ。わかっているでしょう? ここでやりなさい」
強い口調で言われ、那子は渋々箱を下した。倭子からできるだけ離れ、御簾を降ろしてもらう。自分の周囲に勾玉を置いて簡易的な結界を張った。
「よろしいですね?」
「よろしいわよ」
那子の念押しに、倭子は動じずにうなずいた。むしろ、女房達が動揺している。肝の据わっている宰相乳母や好奇心が勝っている大江衛門や少納言のような者たちだけが残っていた。
誰も止めないことに那子は腹をくくり、箱から綾織物を取り出した。手触りの良い、見事な文様の布地だ。取り出したそれをいったん脇に置くと、箱の底を覆う和紙を取り除いた。肝の据わった女房達からも、さすがに悲鳴が漏れた。
「……それは?」
和紙の下から出てきたものを見て、倭子が尋ねた。那子はできるだけ冷静に「人形です」と答える。
「呪詛の一種ですよ」
割と主流な方法だ。木を削った人形に呪いたい相手の名を書き、形代とする。相手に見立てた人形に向かって呪詛を唱えたり、釘を打ち付けたりなど様々な方法が取られるが、これは人形の真ん中に小刀で穿たれた跡があった。呪詛としては中途半端であるが、呪詛であることに間違いはなさそうだ。
「書いてあるのは、わたくしの名前ね?」
「さようです」
尋ねられ、那子は素直にうなずいた。倭子は政治的に中立であるが、それゆえに排除したいと思うものはいるだろう。政治的に中立であるから、帝の寵愛を受けている、と言う事実もある。
「あなたが気づいたのだから、呪詛として成り立っているのね」
「呪詛ではありますが、完成はしておりませんね。手順が守られていないからでしょう」
全く素養がない場合以外は、手順を守って呪詛を行えばそれなりの効果を発揮すると言われる。これは那子が察知できたことから、素養のある素人が必要なものをすべて揃えられなくて手順を守らずに呪詛を行ったのだろう、と言うことが読み取れる。
「どういたします? 返しますか?」
「返す?」
最近、時嵩とそんな会話ばかりしていたのでその時と同じような調子で尋ねたが、姉にはさすがに伝わらなかったようだ。
「術者に、この呪詛を跳ね返すと言うことです。呪詛返しですね」
ああ、と納得してうなずいただけの倭子に対し、怒っている宰相乳母はすぐにやりましょう、と好戦的だ。だが、弘徽殿の主は倭子で、狙われたのも彼女であるので、那子は姉の言葉を待った。
「……返さずに、呪詛を解くことはできる?」
「可能です」
布自体は本物だ。最高級の綾織物であるので、解呪できれば使ってもいいと思う。
「そうした場合、その呪詛をかけたものを調べることはできる?」
「不可能ではありませんが……術式を追うよりも、ここに至るまでの経過を調べた方が早いと思いますよ」
術と言うのは、術者の個性が出るものだ。同じ賀茂の斎院に師事していても、那子と時嵩では術の個性が全く違う。これは能力の違いもあるが。
だから、探そうと思えばこの呪詛をかけた人間を探すことはできる。那子は割と感知能力が高い方だし、不可能ではない。だが、女性であることも手伝って行動範囲が狭すぎる。だからと言って、時嵩に頼んでも、彼は逆に感知能力が低いのだ。なので、不可能ではない、と言う回答になる。
「あなた、意外と現実主義者よね……いいわ。やって頂戴」
倭子の許可をもらい、那子は小さな鈴を取り出し、りぃん、と一度鳴らした。急に呪詛が抵抗を始めるが、無理やり押さえつける。万が一にも、姉に何かあってはならない。
もう一度鈴を鳴らし、鈴を持っていない方の手で片手印を組む。声に力を込めて祝詞を唱えた。万が一にも失敗できない。
すっと術がほどけていく。手順にのっとったものは、同じく、手順にのっとれば解除できるものだ。
「終わりました」
「随分あっさりしているのね……何か、圧みたいなものは感じたけれど」
那子のように術を使ったりはできないが、倭子にも感じることはできるようだ。おそらく、那子が呪詛を押さえつけていた霊力を感じたのだろう。
「今回は、わたくしと呪詛を行った術師に実力差がございましたから」
抵抗することもできずに、あっさりと解除された、と言うわけである。霊力の差もさることながら、呪術について造詣があるか、というのも大きいだろう。
「そうね……宰相、この綾織物、どなたからの贈り物だったかしら」
呪詛について解決したので、倭子は呪詛を行ったものを探す方に移行するようだ。那子は少納言に手伝ってもらいながら解呪した綾織物を片付けた。
「斎宮の君様、こちらはどうなさるのですか?」
こそっと尋ねられ、那子はなんでもなさげに「せっかくいただきましたから、袿を仕立てます」と言った。少納言はちょっと引いた表情になる。
「……呪詛されていたものですよ?」
「もう解呪されていますし、あの程度の呪詛でわたくしに何か影響があるはずがないではありませんか」
「……すごい自信ですね……」
少し鼻白むように少納言は言った。確かに、那子の言葉はたいそうな自信家のような科白だが、純然たる事実ではあるのだ。それに、これほどの綾織物を献上できる人物は限られている。使わなければ逆に怪しまれるのが政の世界だ。弘徽殿の女御自身でなくとも、その妹が使っていれば一応顔を立てることはできる。
宰相乳母が確認したところによると、この綾織物は源大納言から送られたものだった。朝廷の事情に疎い那子にはわからなかったが、倭子によると左大臣派の貴族ではあるが礼儀を重んじる尊敬できる人物で、呪詛を行うような人ではないらしい。
「なるほど。中身がすり替えられているわけではないんですよね」
「はい。目録とも一致しております」
「けれど、その目録は内裏に入ってから作られたものだわ」
倭子が静かな声で指摘し、那子は口元に手を当てて考え込んだ。宰相女房は目録と現物は一致している、と言った。と言うことは、目録が作られた時点でこの綾織物が弘徽殿あての贈り物となっていたはずだ。贈り物は、よほど親しいものが持ってくる場合はそのまま殿舎に持ち込まれる。そうでない場合は、対応は様々ではあるが、通常、その殿舎の女御に仕える女房が受け取る。これが中宮であると話はまた変わってくるが、女御への贈り物を管理するのはその女御の女房だ。
「……わたくしとしても、中身を一度取り出して呪詛を行うよりも、箱ごと、贈り物を呪物に入れ替えてしまう方が現実的だと思います」
その場で呪詛を行うよりも、入れ替える方が手間がないし、見つかりにくい。入れ替えた時期にもよるが、那子が参内することがわかっているのだ。察知される可能性があるので、できるだけ素早く済ませたかっただろう。
「管理するのは弘徽殿の女房どもですが、いったんお預かりして、一つの塗籠に集めておくものです。その間なら、他の者も触れましょう」
宰相女房が言った。確かにその通りだ。一か所に集めて管理していたのなら、こっそり別のところに仕える女房が忍び込むことも難しくない。下女などになると、入り込むのも難しかろうが……。
どこか別の女御のところの女房がすり替えた可能性もある。だが、難しいような気はする。大嘗祭に向けて人の出入りは増えているとはいえ、潜在的に敵対している女御の殿舎の近くへ行くのは難しい。人目についてしまう。
「だとしたら、うちの女房の誰かね」
倭子がため息をついて言った。自分に仕える女房が自分を狙ったなど、考えたくはないのだろう。
「……いいえ」
那子がゆっくりと口を開くと、倭子と宰相乳母がこちらに視線をやるのを感じた。
「そうとは、限らないのではございませんか」
二人の視線を受けて、那子は唇の端を吊り上げた。
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