後宮の怪異【参】
内侍所の長官が、内侍と呼ばれる。長官は「かん」と呼ばれることもあるので、五十鈴は彼女を『尚侍の君』と呼んでいた。ほかにも藤の尚侍などと言われたりしたが、内裏に藤原氏があふれかえっているため、たいていみな『藤のなんとかさん』である。そのため、尚侍の君で判別できるのなら、それで構わない気がする。
「ごきげんよう、中書王様」
「こんにちは、尚侍の君。少し伺いたいことがあるのだか、よろしいだろうか」
温明殿の近くの簀子で内侍の君を呼び止めた時嵩であるが、顔をしかめられた。
「場所を移させてくださいませ。ここでは人目を引きます」
「……これは失礼した」
こういうところが気が利かないのだろうな、と自分でもわかっている。
先ほども述べた通り、尚侍の君は藤原家の出身だ。藤原家にもいくつか種類があるが、今を時めく藤原北家の出である。だが、ただ出自がそうである、と言うだけで、彼女自身は母親が病で亡くなるまで、父親に顧みられることなく育ったようである。父親の勧める相手と結婚したが、離婚し、家に戻りたくないと宮仕えを選んだ女性だ。確か、娘が一人いたと思う。
時嵩の耳に入ってくるくらいには有名な話だし、それだけ彼女が珍しい経歴の持ち主だということでもある。そして、時嵩は尚侍の君が少し苦手だ。公平な人物であることは、彼もわかっているのだが。
尚侍の君の要請に従い、現在使われていない梨壺のあたりに移った。梨壺は女房の局や、宿直の際に使われているが、昼間である現在はあまり人がいないはずだ。
「それで、何の御用でございましょう?」
きりっとした表情と口調で尋ねられる。挨拶などいいから用件を言え、と言うことだ。単刀直入に聞くことにした。
「あなたは内裏で起こっている怪奇現象を経験したことがあるか?」
職務をまじめにこなす尚侍の君なら、自分が見たこと、経験したことはなくても、内裏で起こっていることを把握しているはずだった。だからこそ、五十鈴も彼女に話を聞きたかったのだろうし。
「わたくし自身に経験はございませんが、他の女房や雑色女が話しておりますね」
「それは内侍所で見た、とかいう話か?」
温明殿には内侍所がある。三種の神器が置かれている賢所もあるが、内侍たちが伺候しているのもこの場所だ。尚侍の君を訪ねたときにちらりと見てみたが、昼間の今、時嵩の目には何も見えない。
「女房達の中には、そういう者もおりますね。……何か見えますか」
そう尋ねられて、当たり前だが、尚侍の君も時嵩のことを知っているのだな、と思った。時嵩も『見鬼』だ。彼の場合は、千里眼に近いとも言われる。少なくとも、彼を育てた五十鈴の伯母、賀茂の斎院は千里眼だった。この斎院も、時嵩も、同じ碧眼の持ち主だった。
黒髪黒目が大半を占めるこの国で、澄んだ碧の瞳を持つ時嵩や賀茂の斎院は奇異だった。そのように見られた。だが、碧眼のものは霊力が強い。そう言われる。賀茂の斎院も時嵩も、霊力が強く、また、人ならざるものを見る力があった。皇族にはまま生まれることのある異能なのだそうだ。
似たような異能の持ち主が前斎宮の五十鈴である。彼女は彼女で碧眼ではなく、青灰色の瞳の持ち主だ。明らかに瞳の色が違うことがわかる時嵩と違い、灰色に近い瞳を持つ五十鈴は、一見して瞳の色の違いなど判らない。だが、彼女も確かに強い霊力を持つ『見鬼』だ。
いつからの言われかはわからないが、碧眼や青灰色の瞳の持ち主は人ならざるものが見え、霊力が強いと言われる。主に皇族に生まれており、少なくとも、時嵩と五十鈴、そして賀茂の斎院にとっては事実だった。
「……今は皆と同じものが見えていると思う」
「そうですか」
おそらく。尚侍の君はうなずいたが、納得はしていないように見えた。
「みな怖がって仕事を休むものも出てきています。解決していただけるのなら、助かります」
どうやら、女房達の中で噂になり、怖がって宿下がりをしてしまうものも出てきているようだ。今のところ、暇をもらうほどにはなっていないが、時間の問題だということだった。
「何より、麗景殿の女御様が騒ぎ立て増すので、騒ぎが大きくなるのです」
ちょっと愚痴のようになっている。尚侍の君もそれに気づいたようで、口を一度閉ざした。
「わたくしが女房やに女嬬たちに聞き取りをしたところ、動物のような影を見た、うめき声が聞こえた、などの訴えが多いですね」
大内裏にも出回っている噂と相違ない。多分、同じものだろう。
「それから、下に何かいる、という者もおりますね。大体が女嬬や年若い女房が気づくものです」
尚侍の君はその中に入っていない、という自虐だろうか。さすがにそこを突っ込んでいく気はないので、時嵩は「なるほど」と相槌を打つにとどめる。
「やはり、あなたも聴取を行ったのだな」
「これだけ騒ぎになっているのです。後宮のことなのですから、当然です。奏上するつもりでしたので、まとめたものを中書王様にお渡しいたしましょう」
「頼む」
後宮内で起こっていることなのだから、自分が把握していなければ、と尚侍の君は言う。まじめだ。
「中書王様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「中書王様は、内侍司の女房らをお疑いなのですか」
尚侍の君がまっすぐに尋ねてきた。はっきりと答えられるわけがないとわかっているだろうに。試されているような気がした。
「後宮で起こった怪異だ。あなたが状況を把握しているだろうと考え、私は話を聞いた。犯人が存在するなら、後宮に出入りしても不自然ではない人物だろう、とは思っている」
「さようでしたか。てっきり、斎宮の君様に何か言われたのかと」
斎宮の君、つまり五十鈴のことだ。先代の斎宮なので、『前斎宮の君』と呼ぶものもいれば、尚侍の君のように『斎宮の君』とだけ呼ぶものもいる。現状、斎宮経験者は都に五十鈴しかいないので、混乱することはない。
「話をしたのは否定しないが、それがなくとも私はあなたに話を聞きに来ただろう」
「……そうでございますね」
中書王様ならそうなさるでしょう、と尚侍の君は納得したようだ。だが、続いた言葉が少々不穏だった。
「では、焚きつけたのは斎宮の君様でしょうか。ご自分の作戦のために、宮様にわたくしの相手をさせたのでしょうか?」
「……ない、とは言い切れない」
口ごもる時嵩に、尚侍の君はふっと笑って「すでに尻に敷かれているのですね」と言った。おかしい。そうではないはずだ。たぶん。
「解決してくださるのなら、わたくしは宮様でも、斎宮の君様でも構わないのですよ」
だが、弘徽殿の女御に味方している、と内裏女房の立場で言われるのはまずい。だから五十鈴への明確な回答を避けたようだ。
「早期に解決できるように尽くそう」
「お願いいたします」
女房や女嬬の証言をまとめてもらえるだけでありがたい。尚侍の君は気難しいがきっちり仕事はできる女性なのだ。
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