歌合せ【肆】
二条の那子の邸に到着した。見ると、確かに結界が破られている。それでも、保護術自体は失われていないようだ。那子は力の強い、優れた術師であるのだ。本来なら彼女の結界を破るなど、困難で不可能なはずなのだ。
「保護術は機能しているようだな。さすがだ」
別に機嫌を取ろうとしたわけではなく、本心なのだが、那子は機嫌を取ろうとしている、と判断したらしい。ふん、と鼻を鳴らした。
「結界を破られているから、中に侵入されているんですよ」
保護術が無事であることより、結界を破られたことが業腹のようだ。こうした時の女性には歯向かわない方がよい、と言うことをさすがに知っている時嵩は「そうだな」と相槌を打つにとどめた。
ともあれ、中に入らなければならない。少なくとも中にいる使用人たちの無事を確認しなければならないし、そうしなければ那子の気がおさまらない。時嵩は苦手なので、那子が中の様子を探った。ここまで近づけば、那子の能力なら内部を探れる。
「術師はいませんね。けれど、何か仕掛けがされているかも」
「だな。五十鈴、私の側を離れないように」
「はい」
これにはさすがの彼女もおとなしくうなずいた。うまく補い合えれば、二人とも安全になるだろう。たぶん。
まず、那子が二人に強力な保護術と呪詛返しをかけた。こうした能力はやはり、那子の方が上だ。時嵩についてきた家人が出入り用の小さな門を開けた。
時嵩が那子の手を引いて中に入ると、中はしんとしていた。人の気配もない。もしかして、全員逃げ出したのだろうか。しかし、それは現実的ではない。
「邸の奥の方かな」
「行ってみよう」
那子の許可を得て、土足で屋敷に上がった。無作法だが、いつでも外に駆け出せるようにした方がよいし、何より家主の許可がある。
「宮様、何か見えますか?」
「いや……」
那子の結界術と他者の呪術が真正面からぶつかった形跡は見られるが、それ以外には何も見えない。罠が仕掛けられている可能性も考えたのだが、式などを感じ取るのであれば、それは那子の方が得意だ。彼女も何も感じ取れないと言う。
那子の二条の邸は、それほど大きなものではない。寝殿造りの様相を取ってはいるが、対屋がひとつない。
北の対に入る。那子はぐるりとあたりを見渡すと、すっと手を挙げた。左から右へ手を振ると、時嵩にも何かの術がはがれたのが感じられた。小さな澄んだ音が聞こえ、石が割れるような音がした。
「設置するの、大変だったんだけどなぁ……」
どうやら、一回使い切りのようだ。それはそうだろう。時嵩が確認すると、術の要として置かれていたらしい勾玉の色が濁り、ひびが入っていた。先ほどの音はこれだろう。霊力を込められていたのを感じるが、今はほぼ空になっている。
「姫様!」
それまで本当に何の気配もなかったのだが、那子が術を解除したとたんに、置くからぞろぞろと使用人たちが出てきた。小さな邸とはいえ、元伊勢の斎宮であり女王でもある那子の邸には、そこそこの人数がいる。
「みんな、無事ね? すぐに来られなくてごめんなさい」
「そんな! お気になさらず」
「そうですよ! 姫様の術のおかげでケガもありません」
年かさの者たちは疲れた様子を見せているが、時嵩や那子と変わらないくらいの年の者たちは元気そうだ。時嵩は手の中の役目を終えた勾玉を見る。
「認識疎外の術か。見事な精度だ」
やはり、こうした術は那子の方がうまい。
那子と時嵩が邸に保護の術と結界をかけなおし、その間に女房達は座所を整えた。ここまでしっかり顔を見ているので今さらだが、女房達の話を聞くのに、時嵩は几帳越しに控えることになった。通常であれば御簾越しになるので、距離は近い方だろう。
「昨夜のことです。皆で夕餉を終えたころです。急に、お邸の中が暗くなったように感じました」
顛末を語ってくれたのは、浅葱と呼ばれている三十代後半ほどの女房だ。那子の邸の中では最年長の女房だと思われた。
「ガタガタとお邸が揺れ、姫様が取り付けた鈴がそこかしこで鳴り響きました」
この鈴は、那子の結界が破られるなど、異常事態が起こったことを知らせるための鈴らしい。最初は鳴子を取り付けようとしたらしいのだが、女房達に大反対されたらしい。それは時嵩も反対する。再会していくらか交流して思うようになったが、那子は時々合理的すぎておかしくなる。
「明らかにこちらを害する気がある、と判断したため、すべての家人を集めて姫様の言いつけ通り、北の対の塗籠に皆でこもりました」
最奥の避難先として那子が用意した、がっちがちに結界を組んだ場所だ。時嵩が確認したら、もうおおもとの土地からいじってあった。これは邸を手放すことになったときに解除しなければ、後々影響が出てくるのではないだろうか。
浅葱の話を聞くに、どうやら襲撃者は那子の結界と保護用の術をはがせるだけはがし、去っていったらしい。基礎の保護術が破られていなかったことから、那子の能力の高さがうかがえる。
話を聞き終えた那子はしばらく言葉を発しなかった。しばらく沈黙が続いたあと、思い出したように那子は時嵩に声をかけた。
「宮様。これは宇治重玄の仕業だと思われますか」
「可能性は高いと思う。そもそも、皇族に連なるお前の力に対抗できるほどの術師は、そうそういない」
それだけで候補が絞られるというものだ。那子も疑っていたわけではない。ただの確認だ。
しかも、宇治重玄は那子から時嵩を引き離している。時嵩が右大臣の歌合せに呼ばれたのは、そう言うことだ。女王である那子が自宅の襲撃に気づいて飛び出そうとするお転婆であっても、必ず周囲が止める。時嵩が一緒なら、時嵩は那子の言を聞き入れて二条邸へ向かっただろう。
歌合せで時嵩をあおり、邸を襲撃することで那子をあおっている。そう思えた。
「……五十鈴。感情的になるな」
「わかってますっ!」
すでに感情的になっている返事があって、時嵩は苦笑した。
おそらく、すべて後手に回っていることが問題なのだ。何とか先手を打てれば、また違う目が出るかもしれない。どちらにしろ、何らかの準備は必要だ。
「それはともかく、これからどうするんだ? 建物はほとんど無事ではあるが、守りが機能していない。一応、暮らすことはできるだろうが」
戸が外れたり壁がはがされたりと、いくつかの被害はあるが、二条邸の損害のほとんどは那子が仕掛けた超自然的な守りの部分である。建物は無事なので住むことは可能だ。しかし、結界が破られている。もう一度結界を構築するのに、しばらく時間がかかるだろう。何か痕跡が残っていないか、術が残されていないかを調べる必要がある。
「……そうですね。邸を直すにしても、全員一度出てもらう必要がありますし……父を頼ってみます。わたくし自身は、お姉様のところに行ってみようかと」
「もうすぐ新嘗祭だからな」
新嘗祭は宮中祭祀の一つだ。退いたとはいえ、元伊勢の斎宮であり、当代尤も力を持つ皇族の一人である那子は招待される可能性が高い。ある意味、内裏は尤も安全な場所ではある。
那子はそちらに移動し、女房達は連れて行くものと父親である弾正尹宮に預けるものとに分けるようだ。数人なら、時嵩が引き受けてもよい。
「五十鈴。相談がある」
「なんでしょう?」
几帳越しでも、彼女が首をかしげたのがわかった。時嵩は声を低めて言った。
「次は、こちらから仕掛けてみないか?」
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