歌合せ【弐】
濡れ縁に出て、もう日が暮れているのを見てだいぶ日没が早くなっているな、と思った。まあ、時嵩が今日は帰りが遅かったせいもある。庭の池が見える位置で座り込む。
夜は魔が支配する時間だ。時嵩や那子には不利な時間になる。今まで、彼らを越えるような術者に会ったことがなかったので、あまり思わなかったが、恐ろしい時間である。宇治重玄には、時嵩も那子も、単独では勝てないだろう。もしかしたら、陰陽頭あたりがいい線をつくかもしれない。
考え事をしていると、ふわりと肩に袿がかけられた。那子だ。
「寒くはありませんか?」
上からのぞき込むように尋ねられた。時嵩は「いや」と首を左右に振る。のぞき込む那子の手を引いて、隣に座らせた。自分に着せられた袿を彼女の肩にかけてやる。
「少し付き合え」
自分に袿が返ってきたことに文句を言おうと口を開いた那子に、時嵩は彼女が言葉を発する前にそう言った。文句を言う機会を逸した那子は不貞腐れたような顔をしながらもうなずく。
女房を呼んで、酒を用意させる。那子につぎ返そうとして、一応尋ねた。
「お前、飲めるか?」
「多少は」
とりあえず、お猪口に半分くらい注いでやった。自己申告よりは大丈夫そうだ。
「宇治重玄だが……」
ちびちびと酒を飲んでいた那子ははっとして隣の時嵩を見上げた。
「陰陽寮にも調べさせているが、行方はつかめていない。ただ、ひと月前の薫のところの一件は、彼がかかわっていると見てほぼ間違いないな」
「そう、ですか」
当事者が死んだり行方をくらませたりしているので容易ではなかったが、周囲の状況からそう結論付けられている。尤も、これは公表できることではないので、時嵩と帝、陰陽頭、そして弾正尹宮で共有されているだけだ。左大臣、右大臣には伏せられている。公表されればややこしいことになるからだ。
「……わたくしは、左近大夫にも萩にも呪い返しの類をしておりません」
「わかっている」
必要とあれば肝の据わった女だが、まだ十六の娘だ。那子がそこまでの覚悟ができていなくても当然だと思える。ちなみに、萩と言うのは右大臣の姫君に仕えていた、亡くなった女房の名だ。
「ということは、宇治重玄が二人を口封じした、と言うことでしょうか……」
普段明るい那子の、こうした落ち込んだ声を聞くと無性に心がざわつく。時嵩は酒器を置くと、那子の肩を抱き寄せた。震えるその手を握る。
正直、口封じに殺された可能性は高い。もしくは、用済みになったために殺されたか。おそらく、時間差で呪術が発動するものだったのだと思うが、現物は回収できていない。当然であるが。陰陽寮も押収できなかったそうだ。
「宮様は、ちゃんと帰ってきてくださいね」
時嵩の肩に頬を擦り付けながら願う那子がいとおしい。小さな頬に手を当てて顔を上向かせる。近くで見ると、那子の瞳がこの国の者に多い黒や濃い茶色ではなく、青灰色なのが月明かりの下でもよくわかる。
この、小さなころを知っている女性を、『女性』として意識するようになったのはいつからだろう。もう大人だ、と主張する割には子供っぽい振る舞いをする那子だが、それが時嵩に甘えているのだと思うとそれはそれで可愛いと思う。
しかし……至近距離で見つめあっていても、那子は動かない時嵩をきょとんと見つめているだけだ。
……本当は口づけようとしたのだが、この状態の那子に手を出すのはなんだか悪い気がしてゆっくりと息を吐いた。そのまま額を那子の小さな肩に押し付ける。
「宮様?」
どうしたのですか、と言外に尋ねられたが、時嵩は答えない。不思議そうにする気配を出しながらも、那子は時嵩の頭をなでた。
「……何でもない。自分が悪い男のような気がしてきただけだ」
「ええっ? 宮様は、優しい方だと思いますけれど……?」
「ありがとう」
「どういたしまして?」
体を離して顔をのぞき込むと、那子はこてんと首を傾げた。幼げなしぐさが可愛い。大人びてきた容姿に反するこうした仕草に弱いのだ、と最近気づいた。
「……宮様は明日、右大臣様のお邸に行かれるんですよね」
「ああ。歌合せに呼ばれている」
和歌はたしなみであるのでそれなりの教養がある時嵩だが、宴に喜んで出席するほどではない。しかし、この前左大臣の屋敷を尋ねてしまったため、均衡を保つために右大臣側にも顔を出さなければならないのだ。
「可能なら途中離脱してくる」
「帰ってきてくださるのはうれしいですけれど」
そこまで期待していない、と言う声で言われた。しかし、待っていてくれるのかと思うと現金にもうれしくなる時嵩だ。
「……お前がいると思うと、邸に帰るのが楽しみになる」
「まあ」
那子が驚いたように目を見開き、くすくすと笑う。
「わたくしも、宮様と暮らすのは楽しいです」
このまま居座ってしまいそうです、と那子は楽しそうに笑う。酒精が入ったので、少し陽気になっているのかもしれない。強くはないかもしれないが、それなりに飲めるようではある。またこうして晩酌をするのもいいかもしれない、と思った。
実のところ、時嵩が右大臣の誘いを断らなかったのは亡くなった萩のことが何かわかるかもしれない、と思ったからだ。左近大夫のことは薫の部下と言うことである程度の情報が入ってきたが、右大臣の娘の女房だったという萩の話はほとんど聞けない。内裏で中立を保っている弘徽殿の女御から聞く話がすべてだ。このひと月ちょっとの間に、那子も弘徽殿の女御に会いに行っているが、めぼしい情報は入手できなかった。
だが、この時代、男が女性のことを探るのはなかなか難しい。いや、うわさ話くらいならいくらでもあるが、それが事実か確かめるのが難しい。特に、時嵩のように女性と積極的に交流を持とうとしなかった男は。ここで時嵩が興味を示せば、妻にでも狙っているのかととられかねない。右大臣は自分の娘を入内させることを狙っているので、時嵩と娶せようとはしないだろうが。
朗々と歌が読み上げられる。冬を歌ったもので、なかなかの出来だ。右大臣はそうした教養人を集めたのだろう。時嵩はにぎやかしだ。
時嵩もいくつか歌を詠んだものの、基本的に聞き役だ。身分が高いため、出すぎないようにしているのだ。決して面倒くさいわけではない。
周囲の話に適当に相槌を打っていた時嵩だが、今詠み上げられた歌にはっとした。正確には、詠みあげた講師の声にはっとしたのだ。
この声、霊力がこもっている。言葉には力がある。那子を見ていれば、それがよくわかるだろう。力のある言葉を力のある声が発することで、術として成り立たせている。
時嵩から講師は少し離れている。顔を見ても、それが時嵩が思った、宇治重玄かどうかわからない。認識を阻害されている可能性もある。時嵩にはそう言った暗示の類は効きにくいのだが、全く効かないわけではない。
読まれた和歌自体は、幼馴染と再会した心温まる内容の和歌だったのだが、時嵩はそれどころではない。明らかに呪術を目的とした力がこもっているが、時嵩にも周辺にも影響がみられない。なら、何を対象としているのだろう。
考え至った時嵩は、今すぐ那子の無事を確認したくなったが、そんなわけにもいかない。あれでも那子は判断力に富んだ元斎宮だ。結界術の腕は時嵩より上だ。彼女が東四条にやってきた時に、結界もさらに強化していた。
だが、結界は必ずしも呪詛を防がない。賀茂の斎院の件でわかっていることだ。物事に絶対などない。
右大臣の邸で好き勝手に動くわけにもいかず、時嵩はじりじりと時間が過ぎるのを待った。多分、平常時に聞けばよい歌ばかりだったと思う。
歌合せが終わってもしばらく宴会は続く。請われて和歌を詠んだりもしたが、正直良い出来ではなかった。そこを指摘された。
「宮様には我が家のもてなしが気に入らなかったと見える」
と言うようなことを遠回しに右大臣に言われた。左大臣との権力の均衡がかかわっているので、下手な返事はできない。
「そうではないが、待たせているものがいるので、そちらが気になってしまって」
嘘ではないが本当でもないことを述べた。気になっている同居人がいるが、彼女が待っているかはわからない。皆は勝手に女性を待たせていると思ってくれるので、勘違いに任せておく。
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