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こんなにも愛している【漆】









「宮様」


 自分を抱きしめる腕に触れて、那子は首をひねる。いたずらが成功したような笑みを浮かべる時嵩がいた。珍しい表情に那子は目を見開く。胸がギュっとした気がした。その時。


『お前ぇぇぇええ!』


 高い女性の声を無理やり低く抑えたような聴き取りづらい声が響いた。おかれた几帳を通り抜けるようにして、髪を振り乱した女性が近づいてきた。


『中将様に言い寄りながら、他の男まで! 中将様に、ぎゃっ!』


 最後に女性の悲鳴が上がった。髪を振り乱してこちらに近づいてきたのだが、那子に触れる前に見えない壁にはじかれるように跳ね飛ばされたのだ。そのまま那子は女性を術で締め上げる。


「よかったよかった。出てきた」

「お前が一人の時は来なかったんだな。誰彼かまわずというわけではないんだな。ちなみに、五十鈴は薫の妻でも恋人でもない」


 締め上げられた女性に向かって、時嵩は言い聞かせるように言った。明らかに幽体だとわかるその女性は、那子が土御門殿の浩子の側で見た女性の幽体だった。


『許さない、許さない!』


 ぶつぶつと言い続ける女性に、那子と時嵩は顔を見合わせた。


「どうしましょう。多分、生霊なのですが……」

「無理やり返すか?」

「前にも言った気がしますが、本体の体に影響が出ると思うのです」

「お前を襲いに来たのだから、そこまで気にする必要はないと思うんだが……」


 そう言いながら時嵩は那子を見つめ、小首をかしげた彼女を時嵩は正面から強く抱きしめた。女性が怒りの声を上げるのが聞こえる。背中を指でなぞられ、那子はびくっと震えた。思わず時嵩にしがみついた那子は、自分の顔が熱くなっているのを自覚していた。絶対に真っ赤になっている。


「私の恋人だ」

「……」


 世の中、恋多き御仁も存在するので、それだけが証左とはならないが、突然のことにあっけにとられたように女性は静かになった。そこに存在はしているので、帰って行ったわけではないようだが。


 那子は時嵩を押しのけると、軽く自分の頬を叩く。頬は赤いままかもしれないが、表情は多少ましになっただろうか。


「それで、あなたは誰? 頭中将様の恋人、と言うわけではないと思うけれど」

『……』


 那子はこの幽体の女性が頭中将の恋人ではないだろう、と思っていた。根拠はないが、何らかのかかわりはあるものの、頭中将はこの女性のことを知らない、というより、気に留めたことはないだろうと思われた。


 不美人なわけではないが、美人ではない、平凡な顔立ちの女性だ。着ている衣から、中級程度の貴族の女性だと思われた。頭中将とは明らかな身分差がある。身分差のある恋人は珍しくはないが、那子にはこの女性が頭中将と直接かかわりがあったようには思えないのだ。


 おそらく、どこかの貴人の付き人や女房なのではないだろうか。那子はそんなに顔が広くないし、確かなことは言えないが、誰かの側に控えていたのを見たことがあるのだと思う。


「別に言いふらしたりはしないわ。あなたは、頭中将様に恋焦がれているの?」


 直球で尋ねた那子に、さすがの時嵩も「おい」と声をかけた。だが、那子は止まらない。


「そうなら、恋文の一つでも贈ってみればよいのではない?」


 おそらく、身分が違いすぎるが、恋人くらいにはなれるのではないだろうか、と那子は思ったのだが、女性は答えない。恋人になれなくても、そもそも思っているだけでは何もならないと思うのだが。


「時雨様やわたくしを攻撃するよりは建設的だと思うのですけれど」


 実際に恋仲になれるかはともかく、やってみる価値はありそうな気がする。もしかしたら、うまく転がるかもしれない。


 という希望的観測を持たず思い人の妻や恋人と思われる人のところで怪異が出た。伝えない思いを貫き他者に迷惑をかけるよりは、多少不作法でもあたってみる方がいいような気がする。


 ただ、これは那子や時嵩の身分が高いから言えることかもしれない。二人は上位者の方が少ないくらいの生まれであるので、大概の場合は無礼にはならない。もしくは、その血筋ゆえに大目に見られることもある。そう言った感覚の違いなのかもしれない。


『斎宮様に私の気持ちなんてわかりません』


 耳に声が届くと言うよりは、脳に直接響いた感じだ。言い分に那子は首をかしげる。


「そうかもしれないけれど、自分から行動しないで関係のない人を脅すのは違うと思うわ」


 浩子は関係あるが、那子は本当に関係ないのだ。いや、左大臣は息子と那子を娶せようとしているようだが、本人にその気はないし、那子の父も許可を出さないだろう。よって、話が進むようなことはない。


「それで、あなたは誰?」


 どうやら彼女は右大臣の娘に仕える女房であるらしかった。それはややこしい。頭中将は知っての通り左大臣の嫡男であるので、派閥的に敵対していることになる。頭中将が恋文を送られたことを気にしなくても、右大臣側が気にするかもしれない。それほど裕福ではない中級貴族の娘である彼女は、今の職を失うのが怖いようだ。


 それはあきらめるしかないのでは、と那子は言いそうになるが、耐えた。うーん、と首をかしげる。


「状況は理解したけれど、やっぱり関係ない人を怖がらせるのはどうかと思うわ。それに、好きな人の大切な人を大切にできない人なんて、誰も好いてくれないと思うわ」


 暴論ではあるが、諭すように言うと、女性は消沈した様子だ。一応、自覚はあったようだ。


『言われたんです。ある人に』

「ある人」

『法師の格好をした男』


 おそらく、そう言おうとしたのだと思う。言い切る前に、その女性の幽体は消えた。驚いた那子は時嵩を顔を見合わせる。


「……宮様」

「ああ……何か核心に触れるようなことを言おうとしたのかもしれないな」


 おそらく、二人の脳裏には同じ人物が思い浮かんでいる。法師陰陽師、宇治重全。あの男が、女性に手を貸したのではないだろうか。


 恨みや心配などの心が行き過ぎると、幽体離脱することはままあることだ。そのまま戻ってこない人もいるのだが、彼女は無事に戻れただろうか。


「気になるなら、私が様子を見に行ってくるが」

「宮様が? 右大臣の邸に? やめておいた方がいいと思いますけれど……」


 中立を保っている時嵩がそんなことをすれば、妙な勘繰りを受ける。いや、左大臣側の邸は訪れているのだが、いっそ確認がてら行ってきた方が公平を保てるのだろうか。那子はぐいっと時嵩の着物の袖を引っ張った。


「行かないでください」


 自分でもむっとした表情をしている自覚のある那子は、続く時嵩の「なんだ? 嫉妬か?」というからかいの言葉に反応できなかった。一瞬間をおいてから、「そうだと言ったらどうするのですか」と尋ね返した。


「そうだな。お前が嫌がるのなら、やめておく」

「えっ」

「そこ、意外そうな顔をするな」


 今度は時嵩がむっとした表情になった。その整った顔をきょとんと見つめて、那子はみるみる笑顔になる。自分のことを優先してくれるのだと思うと、こんな時だがうれしくなってしまった。


「ふふっ。ありがとうございます」

「礼はいい。代りに抱きしめてもいいか」


 それが代わりになるのかわからないが、那子はえいっとばかりに自分から時嵩の胸に飛び込んだ。ぐりぐりと額を彼の肩に押し付けて甘える。力強い手が肩に回って抱きしめられた。彼のまとう爽やかな薫物の香りがする。


「……そういう振る舞いは子供のようだな」


 もう大人だ、といつも言う那子であるが、今回は笑って「宮様には甘えてもいいことにしていますから」と答えた。時嵩の手に力がこもる。


「そうか」


 力が強すぎて痛いくらいだ。時嵩の頬が那子の頭頂部に押し付けられ、肩に回された手が背中をそっと撫でた。くすぐったくて身をよじる。


「もう。くすぐったいではありませんか」


 訴えには応じず、時嵩は那子の耳元で「五十鈴」とささやいた。その優しい声がむず痒い。なんだか恥ずかしくなった那子はすり、と頬を肩に押し付けると目を閉じた。日中は暑いくらいだが、日が暮れるとそれなりに過ごしやすくなる。こうして抱きしめられると暑い気もするが、心地よい。


 頭を撫でられ、そのまま時嵩の手が頬をすべる。五十鈴、と請うように呼ばれたがその時にはすでに那子は半分夢の中だった。とくとくと規則的に脈打つ心の臓の音が眠気を誘う。


 那子が反応しないので様子に気づいた時嵩のため息が、眠りに落ちる瞬間に聞こえた気がした。










ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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