こんなにも愛している【伍】
御簾が降ろされていても、庭で煌々と光る松明が那子の周りを照らしていた。那子がいる局の中は蝋燭が一つだけ灯されている。その弱い光が、褥に横たわった瘦身の女性の様子を浮かび上がらせている。浩子だ。
青ざめた顔で息を荒げて横たわっている。意識はないだろう。浩子の女房がかいがいしく汗を拭き、世話をしている。
庭では、陰陽師による加持祈祷が行われていた。僧侶も呼ぼうとしたのだが、陰陽師の方が日取りが早かったのだ。後日、僧侶を呼んでもいいわけだし。
「斎の姫宮様、お方様は大丈夫でしょうか」
不安げに浩子の女房に尋ねられる。大丈夫かは確約できないが、それを言うことはさすがの那子にもできない。
「少なくとも、加持祈祷の効果が表れているのだと思うのですけれど」
思ったより深く絡みついているのだろうか。
「うっ」
浩子がうめいて、那子ははっと顔を覗き込んだ。苦し気な息の元、薄く目を開けた浩子が叫んだ。
「いやぁ!」
はっと浩子の視線の方を見やると、那子にはうっすらと男の姿が見えた。浩子にのしかかるように身を乗り出している。那子はとっさに二人の間と思われる位置に手を突っ込んだ。
「このお方はお前のようなものが触れていい方ではない。下がりや!」
声は力だ。那子の強い言葉に、そのうっすらとした男はひるんだのがわかった。そのまま気配が下がって見えなくなる。
「五十鈴様……」
那子の上げていた腕に、浩子が触れた。少し微笑んでいるし、息も整ってきている。女房が身を乗り出す。
「お方様!」
「大丈夫よ……」
はあ、と浩子が息を吐いて目を閉じたが、疲れているだけだろう。気配は霧散しているし、女王とはいえ皇族に恫喝されたのだ。しばらく怯えが先行するだろう。
「ひとまずは大丈夫です。取り付いていたのを追い払いましたから」
「よかったですわ……ありがとうございます」
涙ぐみながら女房に礼を言われ、さしもの那子も少し居心地が悪い。完全に解決したわけではないので、また同じようなことがある可能性がある。それに、もう一つ気になることがあった。
陰陽師が帰り、那子が時嵩と合流したのは真夜中のことだった。浩子に問題ないことを確認し、女房に後を任せてきた。頭中将も一緒なので、滅多なことはないはずだが、怪異に関して頭中将は鈍いので、女房達にはそこだけ注意してもらう。
「五十鈴」
「あ、宮様」
土御門殿で泊まることになっているため、那子は局を借りていた。西の対だ。その簀子に出ていた。
「何してるんだ、お前」
「いえ……宮様のところに行こうと思ったのですけど、どこにいらっしゃるかわからなくて」
うろうろしていたのだ。ああ、と時嵩はうなずく。
「私は反対の東の対にいる」
時嵩は土御門殿の女房に聞いて、那子の元へやってきたらしかった。
「いろいろ言いたいですけれど、お会いできてよかったです」
と言うことにしておく。報告したいことがいろいろあるのだ。
「そうか。ちなみに、この邸の者たちは私たちが夫婦だと思っているから、話を合わせておけ」
「了解しました」
頭中将のせいだろう。左大臣の策略に乗せられるよりは時嵩と夫婦である設定の方がまだ許容範囲内だ。
「あっさりうなずいたが、それでいいのか?」
「いいのです。実際にわたくしが結婚するとは思えませんし、するなら宮様は悪くない選択肢です」
「妥協か」
実のところ、本当に夫婦になっても困ることはないのだ。どちらも中立の立場であるため、自分たちもその他多勢にも利益がないだけで、妥当な選択肢ではある。
「お前が困らないならいい。それで、北の方はどうだった」
頭中将とともに近くで待機していたが、中まで見えたわけではない。外から見ていると、中で何か騒ぎがあったのだな、と言うことしかわからなかったのだろう。
「加持祈祷が始まってから、とても苦しみ始めて」
那子は簡単に中の状況を説明した。浩子が苦しみ始めたこと、気が付いたら男が浩子をのぞき込んでいたこと。それを那子が追い払い、そのまま浩子に取り付けないように呪いをしたこと。
「完全に解決したわけではありませんし、呪いも不完全ですから、何かしらの影響はあるかもしれませんが……」
「いや、それだけ恫喝したのならしばらく寄ってこないんじゃないか」
「むう」
恫喝と言ったのは那子自身だが、人に言われるとちょっとむっとする。それよりも、と時嵩は男の容姿について尋ねてきた。那子は頬に手を当てて思い出そうと試みる。
「ええっと……直衣姿だったのですよね。丸顔で、比較的顔立ちの整った殿方で……」
「年齢は? 直衣の色もわかるか?」
「……若かったと思います。直衣は緋色だった気が……」
自分で言っていてあまり覚えていないな、と思った。那子にははっきりとしたすがたが見えなかったのだ。全体的にぼんやりしていたので、顔立ちの整ったわかり男性であること、赤っぽい直衣を着ていたことくらいしかわからない。
「……念のため聞くが、私や薫ではなかったな?」
「お二人は顔がわかりますもの。さすがに気付きますよ」
全く知らない人の顔がぼんやり見えているのと、知っている人の顔がぼんやり見えるのでは見え方が違うと思う。うまく認識できなかったのだから、那子が知らない人だと思う。
「話を聞く限り、昇殿を許されている身分のような気がするな。そもそもそれくらいでなければ、頭中将である薫の妻を認識する機会がない」
「そうですね……」
時嵩の言う通りだ。そこそこの身分がある人のような気がする。那子の記憶を語るだけでは全く分からないことが分かった。残念なことに、那子には絵心もない。
「それと、もう一つ気になることがありまして」
「なんだ?」
浩子が苦しみ始めたとき、のぞき込んできた男のほかに、別の気配があった。
「こちらは女性だったと思うのです。殿方よりも気配が薄かったので、何とも言えませんが……」
「ご母堂が北の方を守っていた、とか?」
「守っていたなら、時雨様が殿方の幻影におびえていた時に守ったはずです。殿方ほどの干渉力はないので、ただ見ていた……としてもおかしくはありませんか?」
「確かに……」
まるで苦しんでいるのを眺めて喜んでいるようだった。これは那子が感じた印象にすぎないので、断言はできない。
「お前の主観が入りすぎて、全くわからん」
「だから言ったではないですか。宮様が一緒に見てくださればよかったのです」
すねたように唇を尖らせると、時嵩が那子の唇に人差し指を押しあてた。
「私がお前の記憶を見る、と言う方法もある。もっとも、私が苦手とする分野なのでうまくいく保証もないが」
「わたくしも得意ではありませんね……水鏡に記憶を写す方法もありますけれど」
一応、試してみたが、那子も時嵩も能力が半端で、ぼんやりとしか映らなかった。
「……宮様のおっしゃる方法で夢渡をしてみましょう」
「いいのか? 私と同衾することになるぞ」
脅すように言われたが、那子は「かまいません」ときっぱりと言う。
「ただの添い寝ですよね? 小さいころによくしてくれたではありませんか。それに、わたくしはもう眠いです。よきに計らってください」
そう言って広げた檜扇であくびを隠す。目も開かなくなってきた。体も揺れて、時嵩が慌てて肩を支えた。
「無理をするな。……本当にいいんだな?」
はい、とうなずく。ついでに褥まで運んでほしい。その思いが通じたのか、時嵩に抱き上げられるのがわかった。那子の目はもう閉じている。褥に降ろされると、少しかさついた指が額に触れるのがわかった。
「覗くぞ」
そう言われた気がしたが、すでに那子は夢の中だった。
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