こんなにも愛している【肆】
「五十鈴、どうする」
ともに乗り込んだために少々狭いし暑いが、密談にはちょうどいい。尋ねられた那子は閉じた檜扇で顎を軽くたたく。
「時雨様を取り巻いているのは呪詛ではありませんが、わたくしの力で元の人物に返すことはできると思います」
呪詛返しは那子の得意技である。無差別であるし、少々過激な方法であるのでそんなに取らない方法であるが、要するに、那子は身を守るための術が得意なわけだ。
「呪い返しか……返してしまえば、相手がわかるな?」
「そうですねぇ。わたくしたちは、その力があるわけですし」
少なくとも、那子に見えなくても時嵩には見えるので、わかるだろうと思う。
「でもそれって、相手が怪異に会うことになりませんか?」
首をかしげて考えを述べると、時嵩も「そうだな……」と悩まし気な表情になった。二人で首をかしげていると、がたん、と牛車が石か何かに乗り上げたようだった。ゆっくり走っているとはいえ、それなりに揺れた。
「っ!」
後ろに倒れかけた那子だが、実際に倒れこむ前に時嵩に抱えられた。ふわりと通常よりも爽やかな黒方の香りが届いた。
「っと、大丈夫か?」
「はい。……ありがとうございます」
牛車を引く従者が「申し訳ありません」と声をかけてくるのに、那子の態勢を立て直させた時嵩が「大丈夫だ」と答えている。それをなんとなしに眺めながら、那子は胸に手を当てた。なんだかどきどきする。
子供のころ、まだ那子が斎宮として伊勢に下向する前、那子は伯母の元でよく時嵩に遊んでもらった。当然、その時に抱き上げられたこともある。あの時は、大人と子供だから当然だと思っていた。だが、男と女でこんなにも体格差があるものなのか、と那子は唐突に理解した。力も強かった。
「どうした?」
考え込んでしまった那子に、時嵩が首をかしげる。那子も首を傾げた。
「どうしたんでしょう……?」
時嵩は納得できなさそうに眉をひそめたが、那子にも答えようがないから首をかしげるだけになる。時嵩は答えが出るまで悩ませておくことにしたらしく、それ以上言ってこなかった。
牛車が入ったのは二条の邸だった。今回は時嵩が那子の邸を訪ねてきて、そこから共に出発したのだ。
「宮様、せっかくですし、ご宿泊されていきますか?」
相談したいこともあったので、何気なく言った。時嵩は目をしばたたかせると緩く笑んだ。
「では、お言葉に甘えよう」
案外あっさりとうなずいた時嵩に驚きつつもうれしく思う。牛車を降りて簀子縁に立った那子に顔を近づけ、時嵩はささやいた。
「私はとっくにお前が子供に見えていない」
「はい?」
この状況でその言葉が出てきたことが解せず、首をかしげる。時嵩は「わかってないな」と笑うと頭をなでてきた。
夏で昼間は暑くとも、夜になれば多少なりとも涼しい。小川の流れる庭に面した簀子縁に出て、那子は膝を抱えた。今日は明るい三日月だ。思わず月を読む和歌が口をついて出た。それに返歌があって、那子は驚いた。そうだ。今夜は時嵩が泊まっているのだ。
「確かに良い月だが、月と言えば秋ではないか? 季節外れだな」
「わかっておりますよ。けれど、わたくしの和歌に応じて別の月が来てくださいましたもの」
からかうように言うと、時嵩はわずかに顔をしかめて那子の隣に座り込んだ。彼も寝巻の単衣姿だ。
時嵩の幼名は臘月と言った。今ではそう呼ぶものは少ないが、那子の周りでは伯母や父がそう呼んでいた。同じ音で、朗月という言葉がある。明るく澄み渡った月を意味する言葉だ。那子はこれを持って時嵩を月に例えたわけだ。
「やめてくれ。私の『臘月』は師走の意味だ」
時嵩は年末、十二月生まれなのである。そう言う那子は春生まれだった。
「まんまですねぇ」
「そうだが」
憮然とした様子の時嵩がおかしくて、那子はくすくす笑った。なんというか、那子が幼いころの時嵩は年上然とした青年だったが、今はこうして少し気の抜けた様子を見せてくれるのがおかしい。見慣れないが、嫌ではない。
「薫の話の続きだが」
「あ、はい」
先ほどまでとは打って変わって、どこまでも生真面目な声で時嵩が切り出した。思わず那子もかしこまってしまう。
「俺も内裏で調べてみようと思う」
「はい……まあ人の心の内などわかりませんから、難航するでしょうねぇ」
うんざり気味に那子は言った。本当なら、牛車の中で那子自身が言ったように、返してしまうのが一番早い。跳ね返すのだから、当然術者、この場合は浩子に思いを寄せているものに返って行く。
「それか、時雨様の房を探させていただくか……」
もしかしたら、呪符や形代の一つでも出てくるかもしれない。それか、恋歌なども。人妻であっても、思いをこじらせた男などから届くことはあるらしい。
「それは無理だろう」
「無理ですよねぇ」
那子もそう思う。那子が浩子の立場であれば、絶対に家探ししてほしくない。場合によっては応じなければならないこともあるが、自分からいいよ、と言うことはないだろうなと思った。
「結局、ここで手詰まりだ」
ため息をついた時嵩は、おもむろに横になって那子の膝に頭を乗せた。那子は突然のことにたじろいだが、すぐにくすくす笑った。
「どうなさったんですか」
「薫によると、私たちはむつまじいらしいからな」
嫌か、と聞かれて首を左右に振る。わかっているくせに。以前、那子が時嵩に同じことを尋ねたとき、彼もそう思ったのだろうか。そう思いながら、那子は時嵩の顔に触れる。瞳の色が違う以外は、当たり前だが周りと同じただの人だ。いや、ただの、と言うには整った顔をしているけれど。
「おそらく、薫も左大臣も、相手に呪い……と言っていいのかわからないが、とにかくそれが返ることに頓着しない」
唐突にそんな話を始めた時嵩にはっとした。那子と視線が合うと、時嵩は彼女の頬をするりと撫でた。
「数日中に、早ければ明日にでも僧侶か陰陽師が呼ばれて、加持祈祷の類が行われる。五十鈴、お前、薫の北の方の側に侍ることはできるな?」
「そうですね。お願いすれば、可能でしょう」
左大臣は否やを告げるかもしれないが、浩子は頭中将の妻だ。決定権は頭中将にある。息子が望めば、左大臣も動くだろう。母がすでにないとはいえ、内親王をむげには扱えない。
「では、そのように。私からも頼んでおく。できれば見極めてくれ」
「承知いたしました」
本当なら時嵩の方が見える眼を持っているが、彼が男である以上、浩子には近づけないので仕方がない。那子が了承を告げると、時嵩は手を伸ばして那子の頬に触れる。
「だが、あまり危ない真似はしてくれるな」
「善処します」
そう答えたが、疑われているな、と那子は苦笑する。無理もない。那子には敵の前に飛び出した前科があるのだ。頬に触れている時嵩の手に自分の手を重ね、頬を摺り寄せる。
「大丈夫ですよ。わたくしに何かあると、宮様が悲しみますものね」
「ああ、その通りだ」
半分冗談だったのだが、思いのほか真剣な声が返ってきて那子は面食らった。瞬きして時嵩を見下ろす。
「宮様……冗談がわかりづらいと言われませんか」
「……言われる」
那子より九歳も年上の大人の男性だと言うのに、すねたような口調がかわいらしく思えて那子は思わず笑った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
冬だけど夏の話してるんですよね…。




