こんなにも愛している【参】
頭中将は土御門殿に住んでいる。これは左大臣の邸ではなく、北の方である先帝の一の女宮の邸だ。もっと正確に言うと、先帝が娘が頭中将と結婚する際に住むための邸として下賜したものである。らしい。そのころ那子は野々宮で潔斎中だったため、詳しいことは知らない。
「こんにちは、姫宮様。初めまして」
「……斎の姫宮様」
頭中将の妻こと治子内親王は那子の顔を認めてゆっくりと言った。体を褥に横たわらせ、どこかやつれた青白い顔をしている。そんな彼女を見て、那子は一目で気づく。
いる。
那子には治子にまとわりついている瘴気がはっきりと見えた。そんなに強くはないが、四六時中まとわりつかれては体がだるいだろう。
「頭中将様から話し相手になってやってほしいと言われて、ぶしつけながら訪問させていただきました」
事前に打ち合わせた言い訳を述べて、那子はにこりと笑う。体を起こそうとした治子をとどめ、こっそりと袖の中で印を切った。それだけで、少し空気が軽くなる。
「殿が無理を申したのですね。申し訳ございません」
「いえ。どうせ、暑くてぐったりしていましたから、動いていた方が気がまぎれます」
事実、時嵩が訪問してくるまで、那子はぐったりと伸びていた。暑い中何もせずに堪えるよりは、こうして何かしている方がマシだ。
「……優しい方ですね、斎の姫宮様は」
狭義の意味で、那子は姫宮ではない。しかし、斎宮が「いつきのひめみや」とも読むことから、治子が呼ぶように呼ばれることがないわけではない。違和感はあるが。
それから、京での流行のことなどをひとしきりしゃべった。と言っても、那子があれこれ尋ねるだけだったが、治子が疲れるころ合いに切り上げた。母屋の方で待機している頭中将と時嵩の元へ向かう。
「時雨様に瘴気が取り付いています。呪詛と言うほどではありませんが」
「やはりか」
「おや、もう呼び合うほど仲良くなったのですか」
時嵩と頭中将の反応が真逆で、どう返したものか那子は少し迷った。時雨と言うのは、治子の呼び名だ。主に親しい家族や友人が呼ぶ名で、那子が五十鈴と呼ばれるのと似たようなものだ。
最初は「一の姫宮」「斎の姫宮」と呼んでいたのだが、どちらも姫宮だし血縁上従妹にもあたるため、早々に「時雨」「五十鈴」と呼ぶように改めた。なお、正確に言うと那子は姫宮ではない。
「姫宮が呪詛されている、と言うことか?」
時嵩が頭中将を無視して尋ねた。那子もそれに習って時嵩に答えることにした。
「いいえ。そうではないと思います。もっとこう……誰かにすごく思われている、みたいな」
「急に語彙力が下がったな?」
時嵩の容赦ない指摘を聞きつつ、話を進める。
「思われている結果、それが呪詛のように時雨様を取り巻いているんです。つまり、誰かの時雨様を思う思いが飛んできているのですね」
「なるほど……思いすぎるがゆえに、私の北を苦しめていると」
頭中将がにこりと笑って言った。いや、その通りであるが、頭中将がめちゃくちゃ怒っているのがわかる。
「相手をいとしく思っているのだとしても、過ぎれば悪影響を与えるだろうな」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、と言うことですね」
時嵩も同意したので、頭中将は納得したようだった。なんだったか。論語だっただろうか、この言葉は。
「……宮様、斎宮の君様、お気遣いいただき、ありがとうございます。もう少し、お付き合い願えますか」
「まあ、私が先に指摘したのだからな」
頭中将が気づいていなかったのを、時嵩が気づいて教えたのだから、時嵩は最後まで付き合う必要があると思ったようだ。真面目である。頭中将も、自分が大元の原因だったのならこれほど怒らなかっただろうに。
「では早速。……宮様、斎宮の君様、誰が原因か、わかるものですか?」
「わからない」
「わかりませんねぇ」
時嵩も那子も、返答は同じだった。几帳の向こうで頭中将ががっくりきた様子が伝わってきた。
「お二人でもわかりませんか……」
「探査系は苦手だからな」
「失せもの探しくらいならできますけれど」
時嵩と那子はそれぞれ答える。時嵩は探査系の能力が主張通りほとんどないのだが、那子は使いようによっては使用不可能ではない。何を言っているのかわからないと思うが、本当にそんな感じなのだ。結界術を応用した感じである。
「失せもの探し……なくした記憶は探せるのか?」
「探せませんよ。宮様、何の記憶をなくしたんですか」
「私ではない」
「お二人とも、私を笑わせに来ています?」
真面目におかしな会話をする時嵩と那子に、頭中将のツッコみが入る。普段はもっとのりがよいのだが、今は妻の危機なので余裕がないのだ。
「殿、失礼いたします」
すっと年かさの女房が入ってきた。この邸の女房だ。そっと頭中将にささやくのを覗き見た。
「……今?」
「まさに今です」
女房の緊張した返事に、頭中将はわずかに顔をしかめる。
「……宮様、斎宮の君様、父がご挨拶したいようなのですが……」
「ちち」
「左大臣のことだな」
那子の疑問に答えるように時嵩が冷静に言った。いや、それはわかっている。来るのではないか、とも思っていたが、本当に顔を合わせることになろうとは。
「私は構わん。五十鈴は?」
「……わたくしも構いません」
那子に選択肢などないと言うのに、一応時嵩は彼女にも確認を取った。事前に来ることがわかっているだけましだと思っておこう。内裏に赴くことはあっても、朝廷には顔を出さない那子が左大臣と顔を合わせることはめったにない。頭中将の忠告も思い出して、にわかに緊張してきた。いや、大丈夫だとは思うが。
「宮様、大内裏以外でお会いするのは珍しいですな」
頭中将の父、左大臣がやってきてまず時嵩に声をかけた。気さくな態度だが時嵩は気にせず、「先日、星見の宴でもお会いしました」と答えた。時嵩には冗談も通用しない。
「父上、いかがなさいましたか」
話に割り込むように頭中将が尋ねた。左大臣は「なに」と笑う。それから少し声を低めた。
「お前の北が患っていると聞いてな。必要なら陰陽師でも僧侶でも手配しよう」
そう言う名目なのだ、とさすがの那子にもわかった。浩子は先代の帝の一の姫宮だが、父親がすでに崩御しているため後ろ盾がない。立場としては弱いのだ。その血筋だけが、左大臣の嫡男の正室たらしめている。
だから、左大臣としては浩子が弱って鬼籍に入ろうがかまわない。代りなどいくらでも用意できる。例えば那子とか。那子は内親王ではないが、一品親王の娘の女王で弘徽殿の女御の妹だ。政治的権力は左大臣の方が上のため、正式に申し込まれたら那子の父も断り切れないだろう。なんとしても、浩子を生かさなければ。
「斎宮の君様も、ご心配いただきありがとうございます」
しらじらしい、と思ってしまった那子は悪くないと思いたい。那子は左大臣に何も答えなかった。それに対し左大臣は気を悪くすることもなく、「奥ゆかしいですな」と苦笑しただけだった。男性に話しかけられ、沈黙する女性は意外と多いのだ。
「父上。お礼なら私の方から申し上げておきますよ。明日も朝からお忙しいでしょう。ここは私にお任せください」
頭中将はそう言ってさりげなく父親を追い出そうとする。ついでに陰陽師の手配は頼んでいた。僧侶でもいいのだろうが、延暦寺から呼ぶよりも陰陽師の手配の方が早く済む。ついでに、陰陽寮は中務省に属するので、時嵩の旗下だ。
「五十鈴、私たちもお暇しよう」
時嵩が声をかけてきた。はい、としおらしい声を出した那子は檜扇で顔を隠したまま立ち上がる。左大臣がわざと驚いたような声を出した。
「宮様と斎宮の君様はご夫婦でしたか?」
「ご想像にお任せします」
しれっと時嵩は流した。どうとでも想像してくれ、と言うことだ。変に肯定や否定するより、こういう方が効果的であることは実証済みだ。
この時も左大臣は、勝手に二人をそれなりの仲だ、と判断したようだ。那子もわざわざ誤解を解くような真似はせず、時嵩に従うことにした。暇を告げて牛車に乗り込む。ちなみにこれは、時嵩の物だ。
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