こんなにも愛している【弐】
「そう言いながら、ちゃんと牛車で来たんだな。ちなみに、馬に乗ると日差しが痛いぞ」
東四条殿を訪ねると、時嵩は待ち構えていた。やはり几帳越しの対面である。那子にそんな指摘をした彼は、朝、馬で那子の二条の邸を訪ねてきたらしい。
「東四条殿へは久々に訪ねましたけれど、相変わらず澄んだ気配ですね」
元は伯母の持ち物だけあって、霊的に澄んだ気配の邸だ。尤も、伯母は紫野の斎院にいることの方が多かったため、こちらの邸にいることは稀ではあった。
「お前が見てもそう見えるのならよかった。私は斎院の女宮のようにうまくはないからな」
おそらく、時嵩の破邪の力は当代一であるが、こういった場を保つ能力は、それとはまた別であることが多い。こちらについては、那子の方が得意だ。
「それで、何があったのですか?」
単刀直入に尋ねると、時嵩は少し話し方を考えるように間をおいてから口を開いた。
「おとといのことだ。宮中で薫に会ったんだが、何かが取り付いているようだったので、まずその場で払った」
初めから突っ込みたいところがあったが、ひとまず「はい」と相槌を打った。
「で、昨日だ。私は宿直だったのだが、夜明けに薫に会ったら、また同じものが憑いていた」
「あら」
確かにそれは気になる。同じものが二日続けてついていたため、時嵩はその場で軽く頭中将に話をして、那子に助けを求めたのだそうだ。
「お話を聞く限りでは、わたくしよりも宮様の目の方を信用してよろしいと思いますけれど」
「そうなんだが、そうではない」
ではどういうことだ。
「薫に話を聞いたところ、その憑いているものの大元は、おそらく、薫の北の方から続いているのではないかと判断した」
「……まあ」
相手が女性であるため、那子が呼ばれたらしい。まさか、時嵩が一人ひとり確認していくわけにはいかない。たとえ、相手が姪であっても、だ。
頭中将こと藤原清吉は当代の左大臣の嫡男で、今の麗景殿の女御の兄でもある。その妻は先の帝の一の女宮だ。先の帝が時嵩の同母の兄にあたるため、時嵩にとって頭中将の妻は姪にあたる。彼女自身は源氏の出の登花殿を与えられていた女御の姫宮で、時嵩とはほとんどかかわりがない。家系図上、那子とも従姉にあたるが、那子もほとんど面識はない。しかも、那子は親王の子である女王だが、頭中将の北の方は帝の子である内親王だ。
とはいえ、血縁があっても男が結婚している女性を見るわけにはいかない。どうやら、同じような理由で陰陽師や僧侶に頼んでもうまくいかなかったらしい。どうやら対面することが必要だ、と気づいたところで、頭中将は春に内裏の怪異を解決した那子のことを思い出した。そして、那子とつながりのある時嵩に泣き付いたという事情らしい。
「すでに結構試しているのですね。というか、わたくし、皆様の最後の砦のつもりはないのですけれど」
どうやら、伯母が生きていたころはそんな役回りだったらしいが、那子にはそこまでの力はない。……はずだ。
「わかっていても、呪詛などに対抗できる女性は珍しいからな」
「ほら、巫女殿とか」
「お前は元最上位の巫女ではないのか」
伊勢の祭神に仕えたという意味で、那子は確かに巫女だ。
「むう」
思わず唇を尖らせると、几帳越しでも那子がすねたことが分かったらしい時嵩が笑い声をあげた。珍しい。
「いや、すまん。力を貸してくれないか? もちろん、礼もしよう」
「……そこは宮様ではなく、頭中将様からもらうべきですよね?」
「なるほど、正論だ」
時嵩は同意すると、続けていった。
「もうすぐ、薫が来る。ひとまず彼を見てやってくれ」
「えっ、顔を出すのですか」
「……出さなくていい」
素で尋ねた那子に、さすがにまずいと思ったらしい時嵩がそう答えた。ほどなく頭中将が到着したが、ここでもひと悶着。何かと言うと、那子の座る位置だ。
「家主は宮様ですよね? わたくしが奥に座るのはおかしいと思うのですが」
「だが、女性を簀子の側において、私と薫が奥にいるのもおかしいだろう」
「いえ、宮様のご身分を考えれば、おかしくはありません」
「斎宮の君様、せっかくですから宮様の気遣いに甘えればよいのですよ」
どちらもとりなすように朗らかに言ったのは、客人であるところの頭中将だ。それもそうか、と一応納得して那子は奥の円座に座る。このまま押し問答をしていても、話が進まないと思ったのもある。
この暑さの話や内裏の様子など、当たり障りない話をする時嵩と頭中将を几帳の端から覗く。妙な雰囲気がするのは確かだ。二人を視界に収めたとき、はっきりと頭中将に何かがまとわりついているのが見えた。
これだけはっきり見えるのだから、本人かよほど近しい人が原因ね。
そう結論付けると、頭を引っ込める。わざとこちらを見ないようにしていた二人は会話をやめて、那子の意見を聞くことにしたようだ。
「五十鈴、どうだ?」
「確かに、頭中将様に何かまとわりついて見えます。わたくしには、領巾のような薄い布に見えましたね」
はっきりと言うと、頭中将は少し考えてから、「……私が縛られているのでしょうか」と尋ねた。そうではない、と那子は首を左右に振ったが、二人からは見えないことに気づいて声に出した。
「そうではないと思います。原因は頭中将様か、その近しい方だと思います。気配だけで何の影響も見られないところを考えると、頭中将様が対象本人ではないでしょう」
例えば、何らかの呪詛を受けているとき。頭中将を囲んでいる領巾は、彼に対して何の作用もしていない。彼自身が狙いではないと思われた。だとすると、対象者は頭中将に影響する程度に親しい人。
「う~ん。宮様と同じことをおっしゃいますね」
頭中将は苦笑気味にそう言った。二人の意見が一致するのなら、その可能性が高いだろう。尤も、時嵩は領巾ではなく、縄のようなものだと言ったそうだ。おそらく、那子は縄にあまり縁がないので、そのように感じ取れないのだろう。
こうした『現実に目に見えないもの』と言えばいいのだろうか。概念的なものは、その人の認識に左右されることが多い。だから、那子の父や時嵩がとる『別の人にも見てもらう』という行動は、正しくはある。
「……頭中将様は何も感じておられないの?」
「そうですねぇ。少しだるい、と言った程度でしょうか」
「……」
これはかなり鈍感……大らかなのだろうか。見鬼の才や霊感がなくても、多少勘の鋭い人なら感じたりするものだが。それとも、権力者はこれくらい鈍感でないとやっていけないのだろうか。
「……五十鈴、どうする?」
時嵩が尋ねてきた。答えはわかっているだろうに、わざわざ聞くなんて、と那子はむっとする。
「わかりきったことを聞かないでくださいませ。……一の姫宮さまにお会いしたいです」
要望はわかり切ったことだが、許可を出すのは頭中将とその父、左大臣だ。一の女宮の父である久賀天皇は、一年ほど前に崩御している。だから那子は斎宮を解任されたのだ。頭中将は「こちらこそお願いしたいですね」とにこやかに言った。
「父も否やとは申しませんでしょう。ですが、私の父は斎宮の君様にご不快なことを言うかもしれません」
「わたくし?」
なんだろう? と首をかしげるが、あちらからは見えないのだった。ええ、と頭中将はうなずいたようだ。
「斎宮の君様は弾正尹宮様の二の姫で、弘徽殿の女御様の妹君ですからね。父としては取り込んでおきたいのでしょう」
「ああ……」
頭中将が言いたいことは理解した。今、後宮は微妙な均衡の上に成り立っている。左大臣の娘の麗景殿の女御と右大臣が後援する宣耀殿の女御。この二人が対立しており、間を取り持つ形で弘徽殿の女御たる那子の姉、倭子がいる。一品親王の娘であり、女王である倭子が女御の中で最も身分が高く、帝の添伏も務めた最初の妻だ。これを勢力に取り込めれば、左大臣の権勢は強まる。そのために、頭中将は父たる左大臣が那子を息子の誰かと娶せようとするだろう、と言っているのだ。彼が後宮で那子に文を送ってきたのもその一環なのかもしれない。その割にはやる気がなかったが。
「まあ、宮様にもご同行いただきますし、お二人の仲睦まじい様子を見れば、父もあきらめるかもしれませんが」
「なんだそれは」
「なんですか、それ」
全く同じ意味の言葉を時嵩も那子も述べて、几帳越しに顔を合わせてしまった。頭中将が声をあげて笑う。
「ほら! 睦まじいではありませんか!」
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