こんなにも愛している【壱】
この時代も夏は暑い。京の都は盆地になっており、夏は暑く冬は寒いのだ。周囲を生垣が囲っているのをいいことに、那子は御簾を上げた母屋で脇息にもたれてぐったりしていた。
「暑い……」
「お気持ちはわかりますが、しっかりしてください」
空木に叱られて、とりあえず身を起こす。近くの書物を手繰り寄せてぱらぱらとめくった。
「うちにある分じゃ、やっぱりわからないわよねぇ。伊勢から持ってきたものも多いし、京の情勢ってよくわからないわ」
那子は彼女の伯母・志子を呪殺したとされる宇治重玄が絡んだと思われる事件を調べていた。そもそも、呪詛的な案件はあふれかえっている。本物から詐欺のような偽物まで、各種取り揃えている。那子がもう少し賢ければ分類できたかもしれないが、現実にはできていない。
「図書寮に収められているかしら。というか、宮様が調べていないわけがないわよね……」
国の書物を保管している図書寮は中務省の管轄だ。時嵩は中書王であるし、彼の性格上、調べていないわけがない。ついでに言うなら、時嵩の前任は那子の父・久柾であり、志子が呪殺された当時は現役だった。むしろ、父の方が詳しいかもしれない。この二人が、素直に那子に教えてくれるわけがない。結局、自力で調べるしかないのだ。
「姫様。宮様から文が届いております」
文を持ってきたのは預かっているなずなだ。女房見習いの女童として学んでいる、十歳と少しの少女だ。
「ありがとう、なずな」
なずなから文を受け取る。普通の文だったので、空木がため息をついた。
「全く。姫様が宮様から文と一緒に花をいただいたと聞いたので期待しておりましたのに、相変わらずそっけないですこと」
「そう? 律儀でしょ」
「そう言う問題ではございません」
結婚して夫もいる空木は那子と時嵩のやり取りがもどかしいようだ。だが、空木も結婚しても女房として勤めたい、と那子に交渉してきたので、結構変わっていると思う。
時嵩は律儀だ。あまりにも謝るので那子が「桃を差し入れてくれ」と言ったら、本当に桃が差し入れられた。大きく、熟した桃で冷やして食べたらおいしかった。罪悪感なのかはたまた別の理由か、時嵩は那子にかなり貢いでいると思う。モモはひと月ほど前の話で、先日は失ったお守りの勾玉の代わりを届けてくれた。
「でも、絶対に宮様は姫様を好きですよね?」
なずなが興味津々に尋ねた。子供でも、こういうところは女性だな、と思う。空木も「そう思うでしょう?」と同意見だ。子供にもそう見えているのか。
ひとまずすべて無視し、那子は文を開いた。いつもはそれなりに文章を書いて送ってくるのだが、今回は流麗な筆致で端的に書かれていた。
「どうかなさいましたか」
那子が思わず眉をひそめたのに気づき、空木が声をかけた。那子はもう一度文を読み返してから言う。
「どうかしたわ。明日、宮様がいらっしゃるわ」
みんな急ね、と那子は首をかしげる。特に予定のない那子は困らないが、出迎える女房達は困る。
「まあまあ、もしかして姫様を口説きにいらっしゃるのですか」
「来るの、朝だけど」
違う方向に盛り上がりそうだったので、那子は伝えておく。あまりにも周りが騒ぐし、那子も嫌ではないのでもうそう言うことでもいいかな、と思わないでもない。だが、時嵩に知られたときが恥ずかしいし、やはり黙っておく。
「何をしにいらっしゃるのですか?」
こちらも好奇心を隠せていないが、なずなが建設的なことを尋ねたが、その答えは文に書かれていないので答えようがない。
「相談したいことがあるらしいわ。わたくしに相談してどうするのかしら」
むしろ、那子が相談したいのだが。よし、ちょうどいいので那子の相談も持ち掛けてしまおう。空木たちが明日の装いに頭を悩ませている横で、張本人である那子はそう決意した。
翌日、本当に朝から時嵩はやってきた。下男がびっくりしていた。支度を終えたばかりだった那子もびっくりした。
「お早いですね、宮様」
御簾越しの対面である。形式とはいえ、年上で身分の高い時嵩と簀子に控えさせるのはどうかと思う。なので、早々に中に招き入れた。一応、几帳は立ててもらう。
「急に済まない」
「いえ。先ぶれがあっただけましです」
親とは言え、父は本当に急に乗り込んできて、那子を連れて行ったのだ。そんなに前の話ではない。
「それを覚えていたから一応文を出したのだが……五十鈴、相談がある」
「そうでしたわね。なんでしょう?」
時嵩が那子に相談など、ただ事ではない。というか、やっぱり力になれる自信がない。結界ならいくらでも張るけど。
「見てもらいたい人がいる。実を言うと、私では判断がつかない」
「宮様に判断がつかないなら、わたくしにもつかないと思いますけれど」
時嵩の碧眼は、那子の眼よりもいろんなものが見えているはずだ。その時嵩がわからないのなら、那子にだってわからないと思う。
「と言うか、意見が聞きたい。兄上に頼んでもよいが、政治的な均衡を考えると、兄上が接触するのはよくないだろう」
そう言われて、誰を見てもらいたいのかなんとなく察しがついた。政治的な面が絡んできて、時嵩に相談できる人物は限られる。帝か、それか頭中将だ。今回の場合は、十中八九頭中将だろう。帝相手なら正式にお触れが来る。那子の姉が、帝の女御なのだから。
「……まあ、よいですよ。その代わり、わたくしの相談も聞いてくださいませ」
「わかった。頼む」
あっさりと了承され、那子は早まったかしら、と思ったが、もう遅い。午後には時嵩の住む東四条殿へ向かう必要がある。というか、時嵩と言い父と言い、那子の周りの身分の高い殿方は、どうして内裏から遠い場所に住んでいるのか。まあ、自分は帝の地位を脅かすつもりはない、という主張なのだとわかっているが。さらに言うなら、東四条殿は那子の伯母・志子から時嵩が相続したものでもある。
「お前の好きな水菓子を用意して待っている」
「楽しみにしておきます」
こうなったら用意された水菓子も一通り食べてきてやる、という謎の決意をしながら、那子は無難な答えを返した。
時嵩が退出すると、わっと女房が寄ってきた。
「宮様のお邸にお邪魔するとなると、格式ある、見合ったご衣裳が必要ですね」
「普通はあちらが訪れるものですが、今回は仕方がありませんね」
「遊びに行くわけではないのよ」
盛り上がる女房達に肩をすくめ、那子は注意した。まあ、多少盛り上がってもとがめはしないが、早々に荷物の準備はしてほしいものだ。あちらは父の邸と違い、女性の住人がいないため、足りないものを借りることなどができない。正確に言えば、女房や下女はいるだろうが、身分の差から那子が彼女らの物を借りるのは難しいので、やはり身の丈に合ったものを用意していく必要がある。
「特に衣装ね……暑いわよねぇ」
うんざりした口調になってしまう。正装になると、衣を重ねるため暑い。もっと薄着でもいいと思う。身分が許さないけど。
「……空木」
「はいはい。なんでしょう?」
御簾を上げて空を眺めながら、那子は尋ねた。
「馬と牛車、どちらが暑くないと思う?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
実際の平安時代って、小氷河期なんでしたっけ?




