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真名【漆】








 那子を御簾の内側まで運ぶと、時嵩は彼女を円座の上に降ろした。すぐに盥を持った綾目とこの家の女房が入ってくる。早蕨だ。


「東四条宮様。殿がお待ちです」


 那子の父が呼んでいる、という体だが、つまりはここから出て行け、と言うことだ。一応、婦女子であるところの那子の身支度を見るな、と言うことだ。時嵩も気づいたようで、あっさりと立ち上がった。


「中まで押し入って済まない。兄上のところへ行っている」


 わかりづらいが、時嵩が言う『兄上』は那子の父のことだ。腹違いの兄弟であるので、間違いではない。年の離れた兄弟など、この時代にはありふれたことだ。


「突然飛び出していかれるので、驚いたのですよ」


 綾目ともう一人の女房が那子を着替えさせる。早蕨が時嵩を案内していったので、別の女房だ。はだしで飛び出したので、足の裏が傷ついていた。軟膏を塗られるが、くすぐったい。


「動かないでください!」


 綾目に怒られつつ、手当されて汚れを落とされ、着替えさせられる。そうしている間に、時嵩が戻ってきた。


「五十鈴、少しいいか」

「あ、はい」


 すでに顔も見られているし、何なら抱えられたが、一応几帳越しに対面となった。いや、顔は見えてないけど。


「田津殿が目覚めたのを確認してきた。もう大丈夫だろう」

「そうですか。よかった」


 那子の代わりに確認してくれたようだ。礼も述べておく。


「ありがとうございます。ええっと、わたくしのことも助けていただいて」


 時嵩が五条の邸に向かっていたのは、朝早くから父に呼び出されたせいだが、そのおかげで那子は助かったのだ。


 内裏での怪異の時に、危険なのに飛び出すな、と言われて怒られたことをにわかに思い出し、少々口ごもってしまったが。同じことを思い出したのか、時嵩がため息をついた。


「お前はもう少し、自分の身を顧みろ。お前が傷ついて悲しむ者もたくさんいるのだからな」

「あら。それでは宮様も悲しんでくださいます?」

「……そうだな」

「……」


 自分で聞いたのだが、思わぬ実感のこもった声が返されて那子はからかいの表情を浮かべたまま固まった。綾目に肩をたたかれてはっとしたところで、時嵩も咳ばらいをした。


「すまん。少し、真面目な話をする。五十鈴、人払いをしてもらえるか」


 未婚の男女を二人きりにするわけであるが、そのあたりは時嵩への信頼が勝ったようだ。綾目が「御簾の向こうに控えております」と簀子縁に出た。念のため、那子が結界を張り、声が漏れないようにする。


「お前が対峙した術師と何か話をしたか?」

「いえ、大したことは。本物の斎宮だとか、私では勝てない、と言うようなことは言われましたが」

「ああ、お前は本物の選ばれた斎宮だ、と言う触れ込みだったな」


 時嵩がそういえば、と言うように言った。伊勢の斎宮は卜占で選ばれるため、若干意味が分からなくなっているが、実のところ、ここに政治的配慮が挟まることは多いのだ。通常、内親王が斎宮に選出されるものだが、伊勢に赴くのを嫌がり、女王に役目を押し付けることがよくある。該当する内親王が少なければ、女王が選ばれることはあるので、伊勢の斎宮が女王であっても基本的には何も言われない。


 ただ、時嵩の言うように、那子は確かに、卜占で選ばれた斎宮だった。正確には、『本物の力を持つ選ばれた斎宮』だ。これまでほとんど意識したことはないのだが、術師に言われたことは事実ではある。


「それが何か? 宮様はあの術師について、何かご存じなのですか? わたくしのことも宮様のことも知っている風情でしたが」


 時嵩のことも、顔を見て『冬宮』と断言していた。時嵩の顔も知っていたのだ。


 質問に、なかなか返答がない。思わずあくびが漏れそうになったころ、時嵩の声が聞こえた。


「おそらく、あれは賀茂の斎院を呪殺した術師だ」

「えっ」


 出そうになったあくびが一瞬で引っ込んだ。賀茂の斎院、つまり、那子の伯母・志子のことだ。彼女は確かに呪殺されている。ただし、彼女自身が狙われたわけではない。彼女は呪詛を受けた当時の帝の身代わりだった。帝が受けた呪詛が、志子を殺したのである。


 時嵩と同じ碧眼の持ち主だった志子は、高い通力を持っていた。若き日に斎院に選ばれ、以来ずっと賀茂の斎院を担ってきた。彼女は、京の都を守っていたのである。そんな彼女は、帝の形代でもあった。帝に変事あれば、代わりにその異変をその身に受ける。身代わりの役割を担っていた。


「伯母様を殺した……? 宮様は彼の顔を見たことがあるのですか? なぜ、彼だとわかったのですか?」


 時嵩は、母と慕った志子が呪殺され、打ちのめされていた。それまで妹のようにかわいがっていた那子も気遣えないくらいの落ち込みようだった。なのに、彼は術師の顔を知っていたのだろうか。そもそも、使用されたのは呪詛である。目の前に姿を現す必要がない。


 時嵩はいつ、伯母を殺した術師を知ったのだろう。


「……お前が斎宮として伊勢に発った後のことだが、術師が割り出された。皇族に連なる内親王が呪殺され、ほどなく帝も崩御している。調べられない方がおかしいだろう」


 確かに。検非違使や近衛府、陰陽寮が総力を挙げて捜索したのだそうだ。少なくとも陰陽寮は中務省の部署の一つで、当時の中務卿は那子の父だった。


「それに、お前が言ったんだ。『かつて星を二つ落とした者が帰ってくる』と」

「……覚えがありません」

「だろうな」


 一種の神がかり的状態だったのだろう、と時嵩は言った。『降りている』状態だったのかもしれない。


 星を二つ落とした。つまり、皇族に連なるものを二人、引きずり下ろしたということだ。つまり、当時の帝と、内親王であった伯母のことだ。


「……宮様は、わたくしの戯言を信じるのですか」

「戯言ではないと知っているからな」


 そうだ。那子は過去に一度、本物の予言をしたことがある。らしい。やはり、それを告げたときのことを、彼女は覚えていない。すべて他人から聞いたことなので、本人に自覚はないのだ。


「間違いだとしても、そうだと想定して動くべきだろう。……五十鈴」


 時嵩の言う通りだ。不貞腐れながらも、那子は「はい」と答えた。


「お前は狙われているようなので、術師の名を告げておく。兄上にもすでに話を通してある」


 那子は独立した個人なので、父の許可は必要ないかもしれないが、そう言われると那子に反論しようがない。


「術師は宇治うじの重玄じゅうげん。法師陰陽師だ」

「宇治、重玄」


 知らない名だ。本当にあの術師が宇治重玄で、伯母を殺した男なのだろうか。


「ああ。気をつけろ。表に出ていない呪殺関係の事件も多く手掛けているはずだ」


 それはそうだろう。表に出ているのはほんの一部の事件にすぎないことはわかっている。那子は自分が震えるのがわかった。


「五十鈴。手を」


 几帳の隙間から手を差し出され、那子はそれを見つめた後、自分の手をそこに置いた。大きな手に手を握られる。


「お前が術師の前に飛び出したとき、生きた心地がしなった。だが」


 一瞬だけ間を置くと、時嵩は言う。


「お前は頑張ったと思う。ちゃんと田津殿も目覚めていた。見張られていたというのなら、確認しに行ったのもおかしな判断ではない。……怖かったな。もう大丈夫だ」


 時嵩は、決して器用な人ではないと思う。もう少しうまく立ち回れるのでは、という場面に遭遇することも多い。だが、今、彼は那子の本質を見抜いていると思った。邸の前で彼女と合流し、助けた時嵩は、飛び出したものの、那子が怖がっていたことに気づいていたのだ。


「……あそこに、術師がいるとわかっていたのに。考えなしでした」

「そうだな。お前の判断力と行動力は美点でもあるが、短所でもあるな」

「……ごめんなさい」

「こういう時は礼を言うものだろう」

「はい。……ありがとうございました」


 頬に涙がすべるのを感じた。声が震えて、涙声になっているので、時嵩も那子が泣いていることに気づいているだろう。強く手を握られた。


「五十鈴」

「……はい」

「几帳をまくってもいいか。慰めてやりたいんだが」

「それ、本人に聞きますか」


 少し強引にでも入ってくるところではないだろうか。いや、那子にもわかるわけではないが。今度、茅子に聞いてみようと思う。


 那子の心の声が聞こえたわけではないだろうが、時嵩が几帳を越えてきた。ほとんど泣き止んでいた那子を抱き寄せると、耳元でささやかれた。


「すまない」

「え」


 一瞬きょとんとした那子だが、すぐに気付いた。志子が呪殺されたとき、幼い那子の手を振り払ってしまったことを、彼はまだ気にしているのだ。那子は少しおかしくなってくすくす笑う。


「大したことありませんよ。でも、そうですね。では、今度、桃の差し入れを所望します」

「……食べ物ばかりだな」


 時嵩はそう言って那子の頭をなでると、体を離した。


「そういえば、氷、ありがとうございます。削り氷にしていただきました」


 食べ物の話で思い出した。まだ文を返していないので、礼を言っていなかったのだ。時嵩は「私も貰い物だ」と肩をすくめる。そこに、足音がした。時嵩がさっと几帳の向こうに戻ってしまう。現れたのは父だった。


臘月ろうげつか。取り込み中だったか?」









ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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