真名【伍】
「何かわかった?」
「これが誰かが仕組んだことだとしたら、相手の術者はかなりの力量の持ち主ね」
「……不安になることを言わないでよ」
ふるりと体を震わせて茅子が自分の体を抱きしめる。那子はそれを眺めていたが、思わず視線が胸元に向いた。やはり、子供時代に食べたものの違いだろうか。当然、ずっと京にいた茅子と、伊勢にいた那子では食べたものが違う。
「な、なに?」
顔を引きつらせて茅子が尋ねる。思考が飛んでいたことに気づいた那子は、「別に」と視線をそらした。そのまま視線を外に向ける。
「お前。何を見ているの」
「えっ?」
剣呑な声を出した姉に、茅子が首をかしげる。違う。茅子に言ったわけではない。
見ていた。小鳥が一羽、庭の梅の木にとまっている。那子はその小鳥をにらみつけた。
「見世物ではないわ。それとも、わたくしに何か用かしら」
ばさっと小鳥が飛び立つ。上空に飛び立とうとして、何かに引っかかったように翼をもつらせた。そのまま墜落してきて、茅子や女房達が悲鳴を上げた。
地面に落ちる直前、その小鳥は鳥の形に折られた紙になり、燃え尽きた。
「な、な」
茅子が驚きに声が出ないようで、那子の衣の袖を握っている。那子は紙が燃え尽きたあたりの地面を見下ろす。おそらく、痕跡も残っていないだろう。
式だった。術者が操って、この邸を見張っていたのだろう。那子がここに来る前に忍び込み、彼女が父の結界の上から結界を張りなおしたため、出られなくなったのだと思われた。燃え尽きたのは、那子の結界を越えられずに落ち、回収されて情報を取られるのを恐れたためだ。
「随分慎重ね」
だが、まずいことになった。那子は相手の術者の顔を知らないが、術者は那子の顔も名前も知ったことになる。もちろん、真名は知らないだろうが、父が警戒していただろうに、田津の真名を奪い、昏睡させるような相手だ。仮名でもある程度の効力があるだろう。
「茅子。今夜は房の外に出てはだめよ。女房達にも言っておきなさい」
「え、えっ。だから、何があるのよ」
「何もないわ。邸を閉め切ればね」
そう言って、那子は自ら父の元へ赴いた。先ぶれもなく、突然小走りになったので、後ろから慌てた早蕨が「中の姫様!」と追いかけてくる。
「お父様。もう日が暮れます。邸の門をすべて閉ざし、明日、日が昇るまで開けないでください。それから皆に、夜は外に出ないように言いつけてくださいませ」
母と碁を打っていた父は、突然滑り込んできた真ん中の娘に驚きの目を向けた後、なぜだ、と尋ねた。
「屋敷内に式が侵入していました。先ほど排除しましたが、また入ってくるかもしれません。現在はわたくしの結界がございます。人間だってそう簡単に入れません。中から、招かれない限りは」
さっと父と母の顔色が変わった。ちらっと盤面を見ると、母の方が優勢だ。ちなみに、母は不利な後手番のようである。
「わかった。お前の言う通りにしよう。結界は張ってあると言ったな」
「はい。ですが、わたくしの結界も……」
「万能ではない。わかっている」
話が早くて助かる。自分もある程度の術を使えるので、理解が早いのだ。
家人たちに指示を出し、門を閉ざし、外へ出ないように言いつける。夏が近く、閉め切ると空気がよどんでいる気がした。それでも、今日に限っては閉ざしている方がいいのだ。
父もしているだろうが、那子も見張りとして式を置き、久々に戻った実家で眠りにつく。明日、日が昇ればここまで警戒しなくて済む。早く朝になればいい。
そう思うと、夜は長いものだ。虫の鳴き声が耳につき、なかなか眠れない。外を歩きたいが、さしもの那子もそれは危険だ。仕方がないので褥でごろごろする。そうしているうちに、時嵩に氷の礼の文を出すのを忘れていたことに気が付いた。不可抗力であると主張したい。
氷なんて夏に高価なものをもらってしまった。お返しは何がいいだろう。元伊勢の斎宮とはいえ、現在は役職のない那子が、中書王と言う政治の中核にいる親王に贈れるものなど、たかが知れているが。
うんうん悩んでいるうちに、とろとろと眠くなってきた。そのまま眠りの波に身を任せようとしたとき、結界が揺らいだのがわかった。
翌朝。朝は太陽神の力が強い時間。斎宮であった那子は、この時間と相性がいい。そのため、何事もなかったかのように朝餉を済ませ、田津の元を訪ねた。昨日から何か変化がないか見るためだ。そこには、すでに母の朔子がいた。
「お母様」
「おはよう、那子。朝餉は済ませたの?」
「おはようございます。はい。お母様も、何か食べた方がよいのではありませんか。お父様が心配していました」
「そう……そうよね」
つぶやいて、母は田津に視線を落とした。昨日と変わらず、眠っている。那子はその隣に座ると、田津の手を取った。暖かい。生きている温度だ。
「田津が心配なのはわかりますけれど、わたくしたちはお母様のことも心配しているのですよ」
「……ええ」
「そういえば、昨日、宮様に氷をいただいたのです。削り氷ならば、冷たくて食べやすいでしょうか」
「……そうなの?」
氷と言うこの時期には高価なものを話題に出され、母は驚いて那子を見た。少し、田津から気が逸れたようだ。
「はい。冷たくて食べやすかったですよ」
残った氷はまだ保管されているはずだ。まあ、この暑さで溶けている可能性も否定できないが。
「宮様って、東四条殿よね。茅子の言う通り、恋人なのかしら」
「ええー……それは違います」
茅子の勘違いは父だけでなく母にも及んでいるようだ。母が頬に手を当てて小首をかしげる。
「久柾様とあなたにも誰かいい人を見繕うべきかと話していたのよ。それを、茅子が、那子は東四条の宮の恋人だから、待ってくれって」
「ええ~……」
いろいろとツッコみたい。だが、茅子の勘違いのおかげで、那子にもたらされる縁談がなくなっているようなので、そこは相殺しよう。ちなみに、東四条は時嵩の邸宅がある場所だ。そこから、彼は東四条殿、東四条の宮、などとも呼ばれている。父が五条の宮と呼ばれるのと同じ原理だ。
「あなたのこともわかってくださる方だし、よいと思ったのだけど……」
思い通りにはいかないものね、と母は肩をすくめた。母は基本的に肝の据わった女性だ。夫の先の北の方の娘である倭子を養育し、女御として入内させているし、那子が強い霊力を持っていようと動じなかった。
その母が、息子が目覚めないことに憔悴している。那子が母を見て痛まし気に顔をゆがめたとき、湯を持った女房が二人入ってきた。
「北の方様、中の姫様、若様のお召替えをいたします」
「ああ、お願いね」
十歳の少年とはいえ、寝たきりの着替えは大変だ。力がいる。それを、女房達が行っているのだ。母は房を出ようとしたが、那子は動かなかった。入ってきた女房のうち一人をじっと見つめる。
「姫、何をしているの。さすがに不作法よ」
不審に思った母に声をかけられるが、那子は扇子を持った手を挙げ、閉じた扇子でもって女房の手を軽くたたいた。
「お前、昨夜、邸を出たわね。お父様から、外に出るな、というお達しがあったはずよ」
「何のことでしょうか」
取り澄ました声でその女房は言った。那子はざっとその女房の体に視線を走らせ、言った。
「なら、言うことを変えましょうか。懐に入れているものを出しなさい」
「……懐紙しか入っておりません」
その答えに、那子はすっと目を細めた。普段、無邪気と言っていいほどの振る舞いをする彼女だが、これでも七年も斎宮として敬われていたのだ。それなりの振る舞いはできる。
「お前、わたくしが伊勢に行っている間に仕えるようになったのね。前任者とはいえ、斎宮であったわたくしの目をごまかせると思っているの」
ごくり、と息を呑んだのは誰だろうか。那子がにらんでいる女房も、さすがに顔をこわばらせていた。
「もう一度しか言わない。懐のものを出しなさい」
震える手で出されたのは、本人の申告通り懐紙と、その間に挟まった呪符だった。母や女房が悲鳴を上げる。
「昨日、邸を出てこの呪符をもらいに行ったということね。誰と会ったの?」
「……」
「だんまりね。いいわよ、別に。術者の知り合いがいるのなら知っているでしょうけど、読心ができないわけではないもの」
伯母の志子ほどではないが、那子も読心術の使い手である。対した力はないものの、発言の真偽くらいはわかる。少なくともこの女房・花野は田津の真名を封じた術師と通じていることはわかった。
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