真名【参】
「真……名?」
母が何を言われたのかわからない、と言うように呆然とつぶやく。言い方が悪かったか、と那子は首を傾げた。
「ええっと、正確には、真名がわからなくなって、帰り道がわからなくなっている……と言ったところでしょうか」
「余計にわからん」
父に言われて、少し説明に悩む。なんといえばいいのだろうか。
「ええっと……起きようと思っても、自分がどこにいるかわからないんだと思います。普通は、真名……というか、名前が自己の中核をなしていて、それを元に意識が成り立っていて……要するに、今、彼は名前の分からない迷子なんです」
自分でも何を説明しているのかわからなくなってきて、那子は簡単にそう締めくくった。簡単に説明したことで、両親にもなんとなく通じたようだ。母が「意識が迷子なのね」と自分なりに納得したようにうなずいた。
「どうすれば起きてくれるの?」
「そうですね……まず、真名を解放しないと。さっき、奪われたって言いましたけど、もしかしたら封じられているだけかもしれませんし」
正直、この辺りは陰陽師の範疇になると思う。那子にもできなくはないが、正確には管轄外だ。
「こういう場合は近しい人が呼びかけることで、目覚めることが多いはずなんですが……お父様やお母様が呼びかけても目覚めないのなら、ちゃんと修練を積んだ、強い術師がかかわっていると思われます」
「強い術師か……しかし、こういった呪術は、遠隔では難しいのではないか? それに、弱いとはいえ、この邸には結界が張ってあるんだぞ」
父が施したものだ。那子のものほど強くはないが、それなりの効果がある結界だ。大抵のものならはねのけられるだろう。
「結界と言っても、何でも排除できるわけではありません。それにおそらく、田津の場合は、邸の結界の外に出たときに、暗示にかかったのだと思います」
人によっては高貴な子供は全く外に出ない、ということもあるようだが、父も母もそんな人物ではない。田津は十歳だ。供をつければ外出できる年である。それに。
「先日、祭がございましたね。ご覧になりましたか?」
「ああ。もちろんだ」
父がうなずいてから、はっとした。賀茂祭に見物に行くものは多い。那子ですら様子を見に行った。今年の勅使は頭中将こと麗景殿の女御の兄、藤原清吉だった。そのため、見物人も多かった。
「……まさか、その時に?」
「人が多いですから、直接接触が必要だとは思いますが……しかし、それだけ人が多ければ、まぎれることも難しくありません」
田津のこの状況が、誰か人によってもたらされたことは確実なのだ。人の姿をしているのなら、人にまぎれるのが一番目立たない。しかし。
「田津とは、父上か母上が一緒だったのではありませんか」
まだ元服前の子供だ。そうそう、一人で外に出すことはないだろう。そう思って尋ねると、父が一緒だったそうだ。母は茅子と一緒だったそうだ。茅子は夫と見に行かなかったらしい。仕事の都合がつかなかったのなら仕方がない。消去法で、田津は父と一緒だったそうだ。
「だが……言われてみれば確かに、しばらく目を離した時間がある」
外から声を掛けられ、それが職務上の話だったので、父は田津を残してその場を離れたそうだ。時嵩と言い父と言い、親王でありそこまで職務に励むことはないと思うのに、真面目である。まあ、時嵩はそう言う性格なのだろうが、父は政治の均衡を保つためにわざとやっているのかもしれない、とも思う。
「その時に接触があったのでしょうか……同行していた者に、話を聞いてもらえますか?」
「手配しておこう」
那子は自分で聞きに行っても構わないのだが、この邸の従者たちが、父の姫君である那子に話を聞かれるのは恐怖でしかないだろう。
それにしても、どうしよう。結界を強化しても、あまり意味がない気がする。すでに田津は名を封じられているのだし、今さら外から何かが入ってくるとは思えなかった。ああ、だが、中から外に出て行く可能性はあるのか。
「お父様、わたくしも探査用の結界を邸に張り巡らせます。よろしいですね」
「ああ。お前の方が得意だろう」
得意かはわからないが、少なくとも父がやるよりは精度が高い。それに、那子はずっと邸にいるが、父はそうではない。那子がやる方が合理的だ。そして、単純に能力だけで言うなら、こういうことは意外と時嵩が得意である。多分、碧眼の持ち主だから感応能力が高いのだと思うのだが。
そうこうしているうちに、那子の邸から綾目が到着した。乳兄弟なので当然と言えば当然なのだが、綾目もしばらくこの邸で過ごしていたことがあるので、勝手知ったる様子だ。
「お姉様」
塗籠をはさんで隣の房から妹の茅子が出てきた。十四歳だが才気豊で器量もよく、数か月前にすでに結婚している。そして、春ごろ那子とともに後宮に入り、何かと手助けしてくれたのがこの妹だ。
「茅子。しばらくよろしくね」
「ええ……お父様に呼ばれたのでしょ。まったく、やることが急なんだから」
那子ではなく茅子がぷりぷり怒っている。しっかり者の妹に、那子は笑った。
「そうだけど、心配なのはわかるかなって。ねえ、茅子から見て、田津はどういう子?」
「甘やかされて育った生意気な子供」
「お、おう」
容赦なく吐き捨てられ、那子は面食らう。八歳で那子は伊勢に赴いたため、現在十歳の田津とは、ほとんどかかわりがないのだ。対して、茅子はこの邸でずっと育っている。なので、田津のことは茅子の方が詳しい。
しかし、那子と茅子、さらに腹違いではあるが姉の倭子も仲がいいので、茅子がこんなことを言うのは意外だ。それが顔に出たのか、茅子はむすっとして「本当に生意気なのよ」という。
「あの子、正妻の唯一の男児で、しかも私たちとちょっと年が離れてるでしょう。だから、どうしても周囲が甘くなるのよ」
ここぞとばかりに愚痴られた。家には末息子を甘やかす父と母、姉は二人とも家を出ているため、愚痴を聞いてくれる人がいなかったらしい。
「茅子、それ、五位蔵人殿にも言ってるの?」
「……少しだけ。余計なお世話よ」
ツンとして顔をそらされた。簀子から庭の遣水を眺めながら話をしていると、女房達が気を利かせて菓子を持ってきてくれた。ありがたくいただく。
「……お姉様こそ、宮様とはどうなの? もう結婚した?」
「あー、それ、茅子、お父様たちになに吹き込んでるの」
「だって、弘徽殿でいい感じだったじゃない。よく宮様がお姉様の局に来てたこと、知ってるのよ」
「そりゃあ、そこで情報交換していたからね」
「……さすがに、それだけじゃないでしょ?」
なんだか不安げに茅子に尋ねられ、干菓子をつまんだ那子は首をかしげる。
「それ以外に何をするの?」
「……お姉様、本気で言ってる?」
思いっきり心配そうに言われて、さしもの那子もむっとする。
「だって、恋人同士でもないのよ」
妹に心配されなくとも、男女二人きり、特に恋人や夫婦が行うようなことの一通りの知識はある。伊勢では暇なとき、都から取り寄せた物語を読んでいたものだし、生活していれば多少は耳に入ってくるものだ。
「茅子のところに殿方が来ても騒ぎ立てないから大丈夫よ」
「そんなこと心配してないわ」
これ見よがしにため息をつかれた。人生の半分を伊勢で過ごした那子は、自分が世間知らずの自覚はある。参内した時だって、茅子に随分助けられたのだ。その茅子は、那子の方へ身を乗り出す。
「正直なところ、お姉様は宮様のこと、どう思ってるの? 小さいころから仲が良かったわよね」
「小さいころからと言うか……」
小さいころ、だ。伊勢に行く前。那子が八歳の子供のころ。よく遊んでもらったし、それなりに可愛がってくれたと思っている。
それにしても、女の子と言うのはこういう話が好きなのだな、と思う。那子だって、聞く分には好きだ。自分から話せることがないからだが。
「よく遊んでもらってお世話になったな、とは思っているわ」
那子の返答に、茅子は「違う、そうじゃない」という表情になった。だが、他に答えようがないのだ。時嵩は碧眼の持ち主で、同じく碧眼で当時皇族で一番の神通力の持ち主だった那子の伯母・志子に預けられていた。賀茂の斎院であった志子の元に、那子もたびたび遊びに行った。
思えば、碧眼ではないが青灰色の瞳を持つ那子を、時嵩に会わせに行っていたのだと思う。志子は父の姉だったし、時嵩にとって自分より小さな霊力持ちの子供は珍しかったはずだ。年が離れているとはいえ、子供だった彼に、「自分だけではない」と思わせることもできたと思う。
結果、那子は時嵩の庇護対象に入ってしまったわけで、茅子の言うような関係ではない。
「わたくしはともかく、茅子はどうなの? 五位蔵人様と仲良くしてる?」
この茅子の夫には、那子も先日後宮の弘徽殿にいるときにまみえたことがある。もちろん、顔を合わせたというよりは、那子が目撃した、という方が正しい。事前情報通り二十歳手前の賢そうな青年だった。
「もちろんよ。一応、新婚にあたるのよ」
しれっと返されて肩透かしを食らった。これくらいの受け流しが必要なのだろうか。那子には難易度が高い。
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