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真名【弐】







 その時、早い足音と「お待ちください!」という家人の制止の声が聞こえてきた。簀子の方からで、顔をしかめた空木が立ち上がって御簾を降ろした。


「那子! 那子はいるか!」

「……お父様のようね」


 この声は那子の父、弾正尹宮・久柾ひさまさのものだ。女房達は指定の位置に着くが、那子は我関せずとばかりに冷たい削り氷を食べ続ける。ひとまず、全部平らげる所存だ。


「返事くらいしないか、那子」


 御簾を押し上げ、父が入ってきた。娘相手とは言え、裳着も済ませた相手に無遠慮すぎると思うのは那子だけだろうか。


「削りか。よく氷が手に入ったな」


 父がやってこようとかまわず器に入った分を平らげた那子は、父を見上げた。


「宮様からのおすそ分けです」

「どの宮だ? ……ああ、臘月ろうげつのことか」


 今では滅多に呼ばれない時嵩の幼名が出され、若い女房達が首をかしげたのがわかった。父の呼ぶ名を理解できたのは、那子と空木くらいだろう。


茅子かやこからも話を聞いたが、内裏ではよく会っていたそうだな。夫婦めおとになったのか?」


 父であるとはいえ、そうあけすけに聞くのはどうなのだろうか。那子は「いいえ」と首を左右に振った。


「確かによく話し合いをしましたが、内裏の怪異を解決するためでしたし」


 雑談くらいはしたが、主に作戦会議だった。少なくとも、那子はそう思っている。


「少なくともわたくしはそう思っています。気になるなら、宮様にも確認してください」


 面倒くさいことを時嵩に丸投げした。父と時嵩は親しいのだから、気になるのなら時嵩にも聞けばいいのだ。那子だって年頃の娘としてそう言った話は嫌いではないが、自分が対象となると気恥ずかしいし、そんな話が本当にないので困ってしまう。


「そうか? 茅子から親しいようだったと聞いたが……」

「まあ、親しくはしていただきましたけど」


 ちなみに、茅子と言うのは那子の妹だ。五位蔵人ごいのくろうどと結婚したのはこの妹だ。直近の天皇の孫にあたる女王の茅子と結婚するには、少々地位が低いように見えるが、家格はそれなりであるし、主流から外れている皇族なので、こんなものだろう、と言うのが茅子の言だった。


 まあそれはともかく、弘徽殿の女御である異母姉のところに行ったとき、茅子も一緒にいた。そこで茅子は那子を助けてくれていたから、時嵩と那子が話をしていたことも、もちろん知っている。だが、彼女には時嵩と那子がそういう仲に見えたのだろうか。


「……それより、お父様はいらっしゃるときには先ぶれを出してくださいませ」


 親しき中にも礼儀あり、とも言うし、いくら父とは言え、独立した娘の屋敷にずかずかと入ってくるのはどうかと思う。そう思って言ったのだが、父は那子の言葉で用件を思い出したらしく、彼女の前に座り込んだ。


「那子。今から私の屋敷に来てくれ。里帰りだ」

「はい?」


 きょとんと首をかしげると、父は勝手に那子の女房達を下がらせた。下がらせたうえで、娘にささやくように言う。


田津たづが目覚めない」


 そう言われて、那子は何度か目をしばたたかせた。田津、と言うのが誰か一瞬わからなかったのだ。那子の同母の弟だ。まだ十歳で、那子は彼が生まれてまだ小さいころに斎宮として伊勢に赴いているため、これまであまり関りがないのだ。


「目覚めない、とはどういうことでしょう? 眠いのではありませんか?」


 ただ眠っているだけでは、という那子に、父は「もう一日半も目覚めんのだ」と言う。昨日の朝起きてこないな、と思い、呼びかけてみたが、起きない。一応もう一日待ってみて、現状なのだそうだ。


「わたくしではなく、僧侶か陰陽師を呼んだ方がよろしいのでは?」


 実際、厚い病にかかった際に、高僧や陰陽師を呼んで、読経や加持祈祷を行うことはこの時代、よくある話だ。父の身分や財産を考えると、こちらの方法を取る方が自然である気がする。


「それはそうなんだが……できれば、身内で解決したい。わかってくれ」

「……まあ、わからなくはありませんけれど」


 父はおそらく、権力の均衡関係を気にしているのだ。弾正尹宮である父は中立だ。左大臣と右大臣がその権力を争っている今、どちらも陣営に父を取り込みたい。それくらいの人望も能力もある人だと思う。


 だが、父自身は政界から一歩引いたところにいる。自分がどちらかにつくことで、現在の勢力均衡が崩れるのを恐れているのだ。父は中立派、しいて言うなら帝派なのだ。


 それらを踏まえ、父が寺社や陰陽師に頼みにくい理由もわかる。力を持つ高僧や陰陽師は、どちらかの派閥に属しているものだ。属していないものがいても、その人は評判が悪かったり、地位が低かったり、そういう場合がほとんどだ。もちろん、中にはまともな人もいるだろうが、そうした人を探すよりは、確実に霊力のある娘の那子に頼む方が確実だ。


「ですが、わたくしに原因がわかるかは確約できません。むしろ、宮様に頼まれた方がよろしいのでは?」

「お前でわからなければ、臘月に頼むが……」


 確かに、仲がいいとはいえ、時嵩は親王だ。実の娘がいるのに先に頼む対象ではない。


 もの言いたげな父に見つめられ、那子はため息をついた。


「わかりました。準備して、伺います」

「いや、今私が乗ってきた牛車で共に参るぞ」

「はい?」


 よほど急いでいるらしく、そんなことを言われた。立ち上がった父を見上げて目をしばたたかせていると、父は眉を吊り上げた。


「何をしている。さすがに、今のお前を抱き上げることは私にはできん」


 その言葉で、後宮で那子を軽々抱き上げた時嵩を思い出したが、今はそこではない。


「今からですか?」

「今からだ。お前のものも、まだ屋敷に残っているだろうし、女房もいる。問題なかろう」

「そう言う問題ではございません」


 確かに、このまま何も持たずに行っても一泊くらいできるだろう。伊勢に行く前は住んでいたし、帰ってきた時も最初は五条の父の屋敷にいた。賜ったこの二条の屋敷は、まだ整えられていなかったからだ。


 そうは言っても、父は引かないだろう。那子はため息をつくと言った。


「先にお父様と参ります。泊まるための荷物をまとめて、綾目が持ってきてくれる?」

「承知いたしました。私も、今日は姫様に五条のお邸でお供いたします」


 綾目が後から那子の荷物を持って五条の邸に来て、そのまま一緒に泊まってくれることになった。父が不可解そうに言う。


「五条にも女房はいるだろう」

「お父様、そう言う問題ではございません。親しんだものの方がよいに決まってるではありませんか」


 なぜ父はたまにこうも鈍いのだろう。本人がおおらかで、あまり細かいことを気にしないからだろうか。これが父のいいところでもあり、悪いところでもある。


 本当に父が乗ってきた牛車に同乗し、那子は父の邸宅に来ていた。主が那子を連れてきたので、家人たちは嬉しそうな声を上げた。これで田津を見てもらえる、という理由だけではなく、ここは那子にとっても実家であるのも大きい。


「まあ、おかえりなさいませ、姫様」


 出迎えてくれた女房がにっこり笑い、那子を案内した。連れて行かれたのは西の対の日当たりのいい部屋だった。ちなみに、この時代は妻問婚つまどいこんが基本なので、妹の茅子もこの邸宅に暮らしているが、彼女は東の対にいる。


朔子さくこ、田津の様子はどうだ?」


 父が褥に寝かされている田津の側についている妻に尋ねた。彼女は那子の母でもあり、父の正妻、北の方だ。名は朔子と言う。


「目覚めません。那子も、来てくれたのね」


 ほっとしたように母が微笑んだ。母は父の正妻であるが、後妻だ。先妻は那子の異母姉である今上帝の弘徽殿の女御、倭子しずこを産んですぐに亡くなっており、倭子は那子の母・朔子に育てられている。母親が違うにもかかわらず、倭子と那子や茅子の仲が良いのはそのためだ。


 父と母にすがるように見つめられ、那子はさすがに緊張しながらなじみのない弟の枕元に膝をついた。顔をのぞき込む。田津は十歳。目を閉じている様子は、本当にただ眠っているだけに見える。


 那子はちょん、とそろえた指先を田津の額に当てた。目を閉じて探る。呪術を受けた形跡があった。


「どうだ」


 目を開いた那子に、父が勢い込んで尋ねる。那子は何度か瞬きして小さくかぶりを振った後に言った。


「真名が奪われてる」








ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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