黄昏時の愛しきみへ
夕方になるころ、空がどんどん薄暗く、雲で覆われ始める。
次第にぽつぽつと雨が当たり始めて洗濯物を取り込む人で外が騒がしくなる。
「ごめんなさいね、エルス……」
シャヤは目の前に立つ色白で眼鏡をかけた灰色の髪を持つ男性に頭を下げる。
「いえ、そんな……僕もおふたりのお嬢さんにお会いしたかったですから」
エルスと呼ばれた男は口角を上げる。
「まさかローズ様がカルロベルラ国にいるとは思いませんでしたけどね。先に遠くから当たってみてよかったですよ」
「元気そうで安心したわ」
シャヤはイナグロウ国から回ってきたという広告を見つめ、静かに微笑む。
どう見ても愛娘の特徴をしっかり捉えて描かれた指名手配犯のイラストに心配よりも驚いてしまった。
「いいお友達もできたみたいだしね」
娘は海に憧れていた。
それでも引っ込み思案な性格で自分に自信がなく、大切な親友がいないとひとりではなにもできない子だと思っていた。
だからこそ、エルスの到着を待たずにジェクラムアス国を出国したと聞いたときは耳を疑った。
「ええ。イナグロウ国の、特にローズ様たちの訪れたところは最低の街でしたでしょうから救われたその赤い瞳の子もよかったでしょう」
「あら? そうなの?」
目を見開くシャヤ。
「僕も、兄貴たちにあそこで拾われてなければ、一生あの国の売り物とされていたでしょう」
エルスの遠い瞳は少し寂しそうに光る。
「でもそれが、今では王子様の付人とはね」
シャヤはくすくす笑う。
「ええ。おかげさまで。彼が幼いときより耳にタコができそうなほど僕の体験したお話を聞かせたものですよ」
思い出したようにエルスも笑う。
「まぁ、あの方に限っては海に出る機会はないでしょうけど、いついかなる時も、その機会があっても問題ないくらい王子も海に関する知識はばっちりですよ」
とても誇らしそうに。
彼にとって、王子という存在がとても大切なものなのだということが目に見えて感じられる。
海賊として様々な苦難を乗り越え、王宮へ連れて行かれることになったときはずいぶん嫌がっていたのはどこの誰だっただろうか。
シャヤは自然と頬が緩んだ。
「娘は幼いときから王子様という存在に夢中だったのよ。もちろん、お顔も存じ上げないのだけどね」
「へぇ、ローズ様が」
「読書家で、物語に出てくるロマンスに憧れていたのだと思うわ。わたしがその王子様の付人様と顔見知りだと知ったらどんな顔をするかしらね。考えるだけで楽しいわ」
「ぜひいつか、彼女の旅路をうちの王子にお話していただきたいものですね」
彼は狭い世界を嘆くことさえ許されない鳥かごの中の鳥ですから、と肩をすくめるエルス。
「もっともっといろんな世界を見てみたいと思うはずです」
「でも、本当に……迷惑かけてしまったわね。あなたにも……そして王子様にも……」
「いえ、とても利発な方ですから、そろそろ僕の元の姿に勘付いているかもしれません」
そう言って、エルスはハハッと笑う。
「では、そろそろ僕も仕事の方に戻ります」
あまりお側を離れると王子が退屈していそうですから、と優しく微笑んでエルスは出ていく。
シャヤの頼みのため、数日城を離れてくれることになったという彼は少し見ない間にずいぶん立派になっていた。
良く泣いて怖がって、自分たちのあとを追いかけてきた子どもだったのが嘘のようだ。
土砂降りの中にその姿が消えていく。
そして誰もいなくなる。
とても懐かしい時間が過ぎ去り、ほんの少し喪失感が残る。
再び開くことのないドアを閉めたあともシャヤはいつまでもそこを見つめていた。
もう……誰も入ってもないその扉を。
ローズの旅は、いつ終わるのかしら?
きっとまだまだかかりそうね。
親からしたら、娘が生き生きと楽しく暮らしてくれている方が嬉しい。
自分が夢見た世界に出ることがどれほど満ち足りた気持ちになるか、彼女は知っている。
そして、もうひとり。
シャヤに夢を与えてくれた人。
どれだけねがってももう、あの人はあのドアの前に立つことはない。
自分を救うため、代償を払って自らの記憶を差し出したのだと聞いている。
彼は自分たちと過ごしたことさえ覚えていないはずだ。
そんなことをしなくても、そばにいてほしかったのに。
そう考えて頭を振る。
大切な娘を残して遠くへ行くわけにはいかない。
珍しく弱気になってしまうのは、久しぶりに海の香りに触れたからだろうか。
また夢を見よう。
そうすればまた元気な明日を迎えられるのだから……そう思う。
カチャという音とともに開かれる扉。
あれ?と思って振り返る。
「エルス? 忘れものでも……」
しかし、目の前に現れた黒い影。
「シャヤ……」
近づいてくる、その人影……
ビクリとする。
夢で見る……そして、今脳裏に描いていた光景……
雨音が強くなる。
「ショーン……」




