母を知る男
わたしたちがブラック・シー号に戻ったのは、それから三日後のことだった。
その三日間、わたしはずっとウィルと顔を合わせないように時間を見つけてはお城を抜けて出して街をうろついていた。
ママの生まれ育った街をこの目で見て歩くのもなかなか良いものだった。
聞くところによると、ママもこうやってよく城を抜け出していたのだそうだ。
どんな思いでママがここを歩いていたのかはわからない。
今度また会えたとき、聞けたらいいなと思う。
ぼんやりとこの街を歩くのが好きだった。
考えがまとまらない分、しばらくなにも考えないでただ景色を眺めたり、街を歩いたり。
最近ではあまりなかった時間を過ごしている。
建物や街を彩るお花の数々、そして道行く人たちなど、目に映るすべての景色が想像したことのないものだった。
今までに読んだ文献にもこんな世界の記録は見たことがなかった。
見るものすべてが新鮮で美しく、はっと息を呑むことも少なくなかった。
だけど、屋台から香る食べ物の香りはなんだか少し懐かしいにおいがした。
そして、夜は城内にある庭園でメルとのんびり過ごした。
わたしたちのお気に入りは池の上にぷかりと浮かぶ奉納舞台で月を眺めることだった。
さくらの木々の中に浮かぶここは、薄紅色の花びらが舞う中で常に見える世界が異なり、別世界に来たような気分に陥る。
秋にはここで観月会なるものが行われるそうで、歌を読んだり伝統的な舞を見ることができるらしい。
見てみたかったな、と思いながら水面に映る大きな月を眺める。
時間がとてもゆっくり流れている。
心地よい風が吹き、膝下ですやすや眠るメルに肩に羽織っていた上着をかける。
(かわいいな)
はしゃぎすぎたのだろう。
先程までの騒がしさが嘘のように寝息を立てるその姿は天使に見える。
この子の笑顔にもずいぶん救われた。
どんなときも、一番に慕ってくれる存在。
泣き虫で自分というものがなかったわたしが前を向いて歩けるようになったのは、ウィルはもちろん、メルのおかげでもある。
こんな夜はあまり考えてはいけないと思う。普段にはない想いが止めどなく巡るものだから。だけど、考えてしまう。
海に出る前のわたしは、今のわたしのことを想像できただろうかって。
あれから、どのくらいの月日が流れただろうか。
わたしはちゃんと成長しているのかしら。
「!」
背後からカサっという音が聞こえ、振り返る。
「こんばんは」
「えっ?」
「すみません。驚かせてしまいましたね」
聞き覚えのない声に驚く。
ウィルかと思っていたため、びくっとしてしまった。見たことのない人物のシルエットに思わずメルの体を引き寄せる。
「まるで、天女かと思いましたよ」
暗くて顔がよく見えない。
物思いにふけって油断していた。
街でも城の中でもあまり声をかけられることがなかった。
王妃様達の心遣いだったのかもしれないけど、私の髪色はこの国でも珍しくないし、瞳の色を見られない限りは外国人だと思われることはまずないだろうとどこで過ごすときも特に気に留めず、安易な考えでいた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「………」
誰だかわからないのに、よろしいはずがない。
答えてもいないのに男が一歩踏み出す。
(だ、大丈夫よ)
落ち着けば、ひとりくらいなんとかなる。
そう確信があった。
(え……)
月明かりが彼の姿を照らし出す。
がっちりした体格に似合わず、整った顔つきの男性が私の姿を見て微笑んでいた。
腰に剣をさしているから、兵士のひとりなのだろうか。
見た感じは若く見えるけど、雰囲気はずいぶん落ち着いていて経験を積んでいる様子だ。三十代くらいかしら。
余裕のある話し方や立ち振舞に独特の色気を感じる。
「ローズさん?」
「!」
(し、しまった……)
姿が明らかになったからといって油断は禁物だ。警戒心全開で彼の動きを眺める。
「はは。本当にシャヤそっくりだ」
「え?」
「君と話してみたいと思ってね」
「わたしと?」
ママの名前を知っていて、わたしに近づいてきた人物。
彼からは殺気や嫌な感じは一切しない。
だけど、反省する。
わかってはいたはずだ。
ママが命を狙われたというお話を聞いたばかりで、そんなママと似たわたしがこの国にやってきたことはこの国ではすでに知られていて、わたしが命を狙われる可能性も……
「ああ、ごめんごめん! 大丈夫。君に危害を加えるつもりはないから」
考えを読んだように目の前の彼はにっこりする。
「君の母上をよく知る者だよ。ほら……」
と、背後の木々に向かって指をさす。
「君の護衛の兵士達にも少し時間をもらっているんだ」
「え?」
(なっ!)
彼の指差す方に、困ったように頭を下げる数名の兵士達の姿が目に入る。
自分たちだけの空間を満喫している気分でいて、本当はいろんな人間を巻き込んでいたことに今更ながら気づく。
「あ、あなたは、誰なんですか?」
不躾だとは思ったけど、私だけ相手のことを知らないのはフェアじゃない。
兵士達も頭が上がらない人物。
とても気になったし、用があるのなら聞くしかなさそうだ。
「なんといったらいいのかな」
その飄々とした様子がきっと彼を年齢不詳に見せているに違いない。
じっくり眺めてそう思う。
「シャヤの幼なじみだよ」
「え……」
(それじゃあ、この人……)
「こ、婚約者の?」
王妃が言っていた。
ママには幼なじみの婚約者がいたのだと。
「あらら、そんなことまで知ってるんだね」
まいったな、と彼は全然そんなふうに見えない様子でははっと声を上げて笑う。
「安心して。親同士が決めたものだから」
(あ、安心もなにも……)
「シャヤの、いや、君のお母さんの眼中に俺は全く入っていなかったからね」
またわたしの心境を読んだ……というよりもわたしの心境は全くこの状況についていけていないのだけど、このときに一瞬見せた彼の穏やかな表情に、わたしも少しこの人と話してみたくなった。




