父親
「つ……ま……」
「うん。よく似ている」
柔らかく笑うその男にぐっと拳を握る。
「もうずっと会ってないんだけどね」
体中がおかしくなったかと思った。
息が少しずつ荒くなるのを感じる。
だけど、
「はは、初対面の女性に対して失礼なことを言っているね」
不思議といつもみたいに体が熱くなってはこなかった。
ごめんね、と瞳を伏せた彼を見て、わたしは自分から少しずつ力が抜けていくのがわかった。
信じられないほど空気は澄んでいて、どんどん心が冷めていく。
おかしい。想像とは違っていた。
この人を見て……
ずっと、探してた、この人を見て……
ママとわたしを捨てた、この人を見て……
言いたかったことは山ほどある。
それなのに、わたしは金縛りにあったように動けない。
「ど、どうして、ずっと会っていないの?」
心臓の音を全身に感じながら、力を振り絞って口を開く。
その人は少し驚いたようにこちらを見たけど、すぐに膝につく砂を払って口を開いた。
「彼女のためには、俺はいない方がいいから」
淡々と述べ、寂しそうに笑う。
「それだけだよ」
「それは、彼女がそう言ったの?」
「え?」
「相手の気持ちは、聞いたの?」
気付いたら、力一杯睨み付けていた。
「聞いていないよ」
そうだな、と彼は肩をすくませる。
「でも、一目瞭然だったよ。彼女はすごく美しい人だから俺よりももっといい人が……」
「それはあなたが勝手に決めたことでしょ!」
思わず叫んでいる自分に驚いた。
「あ、ごめんなさい……」
我に返って赤く、そして小さくなるわたしに、その人は平気だよ、と優しく瞳を細める。
ママは、この人のこの表情に惚れたのかもしれない。そう思えるくらい暖かな瞳で。
「俺にも、娘がいるんだよ」
「え?」
どきりとした。
「生まれた時以来、会ってないけど、きっとその子も今は君くらい大きくなっているんだろうなって思うことはよくある」
あっ……と、声が漏れた。
ダメだとわかっているのに、ぐっとこらえればこらえるほど息が粗くなる。
鼻の頭も痛い。
「君の言う通りだよ。すべては俺が、自分に言い聞かせるためにそう思い込んだ」
海のような瞳の色から笑顔が消える。
「そうするしかなかったんだ」
その瞳は、わたしではないどこか遠くを映していた。
「妻も子も俺を恨んでいると思う。でも、それでも、二人の幸せを願っているから、帰ることはできない」
選ぶように発せられた言葉は徐々に力を帯びていき、真剣な青い瞳がしっかりわたしを捕らえる。
本気なんだって思えた。
この人は……
「はは。ごめんね。こんな話を聞かせてしまって。まさか君にそう大切なことを言い当てられるとは思っていなかったから」
そうだな、と表情を曇らせる。
「自分に言いきかせてたんだよな」
昔々、海賊の青年に恋をした女の子がいました。
他の誰にも心を開くことがなかったのに、唯一彼にだけは違ったのだという。
信じられなかった。
なぜなんだろう。
わたしは彼女の悲しい横顔を覚えている。
そして、それでも彼が大好きだと幸せそうに笑う姿も。
なぜなんだろう。
なぜ、まだ好きだと言えるんだろう。
信じていられるんだろう。
ずっと疑問だった。
「本当は……」
胸が痛い……
きっと、
「本当はまだ会いたいと思う自分がいる」
こんなにも真っ直ぐな人だと知っていたからだろう。
「そ、それなら、あ、会えばいいじゃない!」
「え?」
その人は目を見開く。
「あなたがいないことが、その人のためじゃないかもしれないじゃない。そ、それに……それに彼女が幸せとは限らない。幸せになるのって、わたしは好きな人と一緒にいられた時だと思うの」
うまく声は出ないけど、震えてしまわないように心がけて私は続けた。
「少なくともわたしはそう言われて育った」
本当の恋はしたことがないからえらそうなことは言えないけど、そうなのだろうとずっと思ってきた。
「素晴らしい考えだね」
優しい瞳から目をそらす。
「素敵な家庭なんだろうね」
「ええ、とても幸せだったわ」
それだけは胸を張って言える。
「母の教えよ」
誰よりも大切にされて、誰よりも幸せに育てられた。だから、
「うちの父はね、亡くなってるの」
今なら言える。
「ずっと母と二人で暮らしてきたの。うちの母は驚くほど美しい人でね。街では『絶世の美女』と呼ばれて、たくさんの男性から今でも声をかけられていた。それなのに、ずっと新しい父を作らなかったの」
その人はわたしを見ていた。
だからできるだけその目を見ないように一気に続けた。
「ずっと父一筋だって言って、どんなに素敵な人が現れても、求婚されても、それでも断り続けていたの。一番素敵なのは彼だけだって、今でも大好きなんだって。幼心からも、母のことは凄いなって思ってた」
(レ……た、助……けて……)
動機が早くなる。
冷静に話さなくっちゃと思えば思うほど苦しくなる。
(レイ……ウ、ウィル……)
「なのに……」
(わたしに、力を分けて……)
今、この瞬間はずっと待ち続けていた時なのだ。躊躇するわけにはいかない。
「なのに本当は父は生きていた。今は、ママはバカだと思う。捨てられたのに、ずっと待ってたんだから……」
目の前で唖然としているその人を見て、絞り出すように一気に吐き捨てる。
「って、言うのが、そいつの娘としての意見よ。恨むというよりも、バカだなぁと思っているし、もしも会えることが叶うなら、言ってやりたいことが山程あった。もちろん、会えたらの話よ。だからあなたの娘さんもそう思っているかもしれない。でもね……」
冷静になりたいのに、声が詰まって喚き散らしたいほどだ。
「ママがそいつをずっと待ってるように、あなたの奥様も、きっとあなたを待っていると思う。それに……娘さんだって……」
声にならなかった。
(ウィル……)
涙が出て、それを見せないように俯くのが精一杯だった。
(助けて……)
この時、暗くてよかったって本当に思う。
願ったその人が、すぐに現れてくれたことも。
「ローズ……」
「!」
ウィルの声がして、振り返ると少し離れた所にウィルその人が立っていた。
「何で、こんな時間にここに……」
「ウ、ウィル……」
わたしの姿に、驚いた表情を浮かべる彼に心の底から安堵した。
「道に迷ってね。あ~、助かったわぁ~!」
だって、自然にその場を離れてウィルの所に駆けていくことができたから。
その人がわたしの名前を聞いて、どんな顔をしたのか、なんて……見たくなかったから。
ただ、その場を離れたかった。
「さ、ウィル、帰りましょ♪」
「ローズ、あの人って……」
「さぁ。あの石碑の方とお知り合いの方みたいよ。少しお話をしただけ」
わたしと彼を交互に見つめるウィル。
ウィルの正面につくなり、彼の腕に力いっぱい抱きついた。
「い、行きましょ……」
突然のわたしの挙動不審な行動に驚いたようだったウィルも、わたしが泣いているのに気付いたらしく、何も言わずにそのまま肩を抱いて歩いてくれた。
それからウィルは「明日の祭りのこと、おまえも聞いたか?」とか、「俺も石碑が気になって来たんだ」と、陽気に話しだした。
まるで一緒に会話をしてくれているように。
返事のかわりに彼の腕にしがみつき、何度も何度も頷いた。
いろんなお話を聞かせてくれたのは覚えている。
だけど、耳には入ってこなかった。
城に着いた時も、涙が止まらず、ただただずっとウィルにしがみついていた。
涙が枯れ果ててしまいそうだった。
言いたいことは山ほどあった。
だけど、言葉にならない。
その後のことは、よく覚えていない。
だけど、泣き続けるわたしの背中をウィルがずっと撫でていてくれたのを覚えている。




