夢の扉を開く鍵
「もう、空気が重いわね」
ママがすました顔でそう言った。
きつく巻かれた長い黒髪を一つにまとめ、飾りっけのないエプロン姿なのにやはりママには威厳があって、迫力ある佇まいで目の前に立っていたものだから思わず圧倒される。
長い睫毛がかかる大きな漆黒の瞳に、対照的な真っ白で驚くほどのキメの細かい肌、それに映える赤い唇。
娘の私から見ても別世界の人間に思えるくらい文句がつけられない。
『ローズちゃんもいつかお母さんみたいに美人さんになるのかしらね』
なんて幼いころから何度も言われてきたけど、全くそんな兆しは見えないし、この人は次元が違うし、ほとんど諦めている。
「なぁに? そんなにショックなの? カールって子をふっちゃって……」
「違うよ。私はただ……って、え? えええ? ど、どうして!」
ママは意地悪くくすくす笑う。
「レイチェルと市場で会ったの。心配してくれてたのよ」
そして何事もなかったかのように鮮やかな手付きで暖かいハーブティの入ったカップに唇を寄せる。やんわり甘い香りがした。
(レ、レイのお喋り~!)
頭から熱が吹き出しそうだった。
真っ赤になって固まっている私を見てまたママは静かに笑みを作る。
「とっても素敵な子なんでしょ?」
「別にその人のことで落ち込んでるんじゃないわ」
「どうして断っちゃったの?」
「ママの娘ですから」
それだけ告げ、できるだけ食事に集中することに努める。
親と恋愛の話なんてそうそうすることがないため、気まずいったらない。
この話はここでおしまいにしてほしい。
「私が断り続けているのは今でもショーンのことが一番大切だからよ」
そんな私の気も知らないでママは幸せそうににっこり微笑んだため、思わずスプーンを落としそうになった。
ママは人気がある。
告白だってよくあることだ。
たとえ人妻であっても娘の私がいても、だ。(それもどうかと思うんだけど)
娘としては少し、いやかなり複雑な気持ちもあるけど、だからこそそんな時、パパにまだ惚れているのだと自信たっぷりに笑うママの姿を見るのは好きだった。
「あんなにも完璧で非の打ちどころのない人はそういないから仕方がないわ。忘れる方が無理な話よ」
はいはい。ごちそうさまです。
ママがパパのことを話す顔は好き。
しかしながら、間違いなくここからは果てしない恐怖ののろけ話が始まる。
そんな気がして私は慌ててパンに何も挟まずにそのまま口の中に詰め込んだ。今日はママご自慢のニシンとビーンズのスープは心なしか味がしない。
「海バカだったけどね」
懐かしむように遠い目をするママ。
「え、海バカ? パパが?」
初めて聞いた。
そんな話……と、いうか私はパパのことを何も知らない。
「あなたが探してるのはこれでしょ?」
そう言ってママはポケットから何かを取り出し、テーブルに乗せた。
かつん、と小さな音を立てたそれは、少し錆びついた古い鍵だった。
「……ママ?」
背筋のあたりがぞわっとした。
「こ、これって……」
「ショーンは十七になってからにしてくれって言ってたけど。あと二日しかないって言うし、仕方ないわよね」
(何? この鍵……)
ママは一人で納得しているようだけど、私は目の前の光景とこの状況がさっぱり理解できなくて困惑する。
「ローズは誰に似たのかしらね?」
「ど、どういうこと? 何なの? この鍵……」
まさかとは思った。
信じてはいた。
憧れてはいたけど……
「あなたがパパに似たってこと」
世界の音が止まった。
「そ、それって……」
「あと二日しかないわ。出航するなら明日の夜までね」
「しゅっ、出航って? あ、あの船の鍵なの?」
「一応『ブラック・シー号』っていう格好いい名前があるのよ」
不気味なほどにママは冷静だ。
ありえない。
言っている意味が全く理解できない。まず、どうしてママがあの船(ブラック・シー号ですって?)の鍵なんて持ってんのよ!
「パパの尊敬する人が付けた名前らしいけど」
「はい?」
全身が固くなるのを感じた。
今まで知っていたはずの名前が怖かった。
「ダ、ダーウィン……スピリ……」
「そう! その人!」
気が遠くなりかけた私を目の前にしてママは相変わらずにっこりしていた。
「海の向こうを見るのはあなたの夢でしょ? ローズ」
「………」
「今を逃せば、もうないはずよ」
そりゃそうだ。
あの船は壊されるのだから。
力の抜けたはずの体が徐々に震え出す。
だけど、歯を食いしばって聞いた。
「ぱ、パパは……」
気が遠くなりそう。
「パパは、海賊だったの?」
ママの瞳は優しく弧を描く。
そして形のいい唇が再び開かれる。
「ローズ、行きたいんでしょ?」
それは知りたい答えじゃなかった。だけど、
「行きなさい」
こんな寂しそうなママを見たのは初めてで言葉を失う。
どうしたらいいのかわからない。
何か言わないと、と頭の中でいろんな思考が渦を巻いて交差した。