攫われたローズ
「おい、何をしておる! とっととアンフィテアトルムに入場しないか!」
馬車の中から太った男が現れる。
(アンフィテアトルム?)
進行方向に突然現れたそれにわたしは呆気にとられて足を止める。
「王がまもなく到着されるぞ!」
その言葉に、幾人かの男は飛び上がるようにして駆けだしていく。
アンフィテアトルム。
初めて聞く言葉だった。
それでもわたしは走ってその場を立ち去るべきだった。
「ローズ!」
動きを止めた自分を悔やんだときにはもう遅かった。
いつの間にか数名の武装した男性たちに囲まれていた。
首元に突きつけられたのは短剣だと理解するのに時間はかからなかった。
「どういうつもりだ?」
さすがのウィルも、今は手も足も出ない。
ごめんなさい、という気持ちでメルをしっかり抱き寄せる。
「ローズを離せ」
ウィルが構えを崩し、鋭い目つきでギロッと睨み付ける。
先ほどまでの人間離れした動きの効果もあってか、絞り出すように発せられた低い声に周りの人間は怯えているようだった。
「こ、この女は連れて行く!」
太った男が開き直って叫んだ途端、大男達が力任せにわたしに掴みかかる。
「きゃーぁ!」
「め、メル……大丈夫よ!」
怖がるメルに安心させようとそう言ったものの、彼女を抱きかかえているだけに反撃ができる状況ではないわたしは軽々と男たちに担ぎ上げられる。
「ふざけるな!」
ウィルがまた構えた途端、勢いよく馬車の中へ叩き込まれる。
「この女は美しい。よって、この国の王の妃候補とする!」
「はっ?」
(ちょっと待って、どういうこと?)
反論するまもなく勢いよく戸が閉められ、馬車が動き出したようだ。
(き、妃?)
思いっきり抑え込まれ、動くことさえできない。
「は、離してよっ!」
頭の整理がおいつかない。
(き、妃ですってーーーーーーー?)
どうやったらそんな思想に発展するものなのだろうか。
地べたに押し付けられるような形で身を拘束されているわたしはとてもじゃないけど妃候補として扱われているようには思えない。
(そもそも后候補ってこんなに簡単になれるものなのっ?)
国も違えば文化も違う。
わたしの知り得ない常識がここでもまたあるようだ。
(ウィル……)
遠ざかる音の中にまた聞こえた悲鳴と人々のざわつく声が耳に届き、どうかウィルが無事でありますようにと願った。
それからは何度も何度も騒ぎ立てたものの非力なわたしの抵抗も虚しく、わたしとメルは馬車に乗せられて、彼らの言うアンフィテアトルムと呼ばれる場所へ連れて行かれることとなった。
行く途中で、「この髪色……」「ああ、間違いない」という男たちの会話が聞こえ、誰かに間違えられたのだとなんとなく悟った。
そのせいか、最初に扱われたほど強引な扱いをその後受けることはなくなっていた。
(大丈夫)
抜け出す切り札があった。
(絶対に抜け出してみせる)
だけど、そんな強気も長くは持たなかった。
馬車が音を立てて止まり、それと同時にまた抱えられるようにして運ばれる。
「メ、メルに何かしたら許さないから」
どこに連れて行かれるかも分からず、加えて恐怖で固まるメルになにかされたらたまらないと必死に虚勢を張る。
わたし自身、怖くて怖くて仕方がなかったのだけど。
「イシュタルの再来だ! 丁重に扱え!」
ずかずかと大理石の階段をのぼる男たちはある一室の前で足を止め、そう言ってわたしを差し出す。
(い、イシュタル?)
丁重にもなにも、今までぞんざいに扱ってきたのは自分たちの方だろうと言い返してやりたかったが、ようやく地におろされ、同時にメルを取り返すことが叶ったため、わたしはその機会を失った。
「メル!」
「マァマァー!」
「もう大丈夫だからね!」
ずいぶん怖い思いをさせてしまった。
腕にしがみつくメルに大丈夫大丈夫とまた繰り返す。
(大丈夫。わたしは……え?)
そこで、すごく嫌な視線を感じて、ようやく自分たちの世界から現実へと戻る。
そこにはこの国に来て初めて見る女性たちが数名立っていた。
明るい色合いの髪の毛をきっちりまとめ、透け感のあるどこか色気を感じる涼し気な衣装に身をまとっている。
最初は驚いたように目を見開いていた彼女たちは徐々にまるで汚いものを見るような視線を向けてきたのだった。
それからは終始無言で歩く彼女たちに手を引かれ、上空まで吹き抜け構造でできている大理石のさらに階段を登ることとなり、最上階まで連れてこられた。
ここはアンフィテアトルムという建物内なのだという。
逃げるタイミングはいくらでもあった気がする。
だけど、またどこからともなく大勢の男たちが現れて捕まってしまったら勝ち目はない。
さすがに女性たちに手を上げるわけにもいかず、慎重にそのチャンスを伺おうと決め、息も絶え絶えする中、ただ黙って従うしかなかった。
ひらひらとした女性たちの衣装が風に乗って美しく舞う。
(あっ……)
外気を肌で体感し、顔をあげるとそこは屋上で、屋外広場のようになっていた。
視線の先に生活感溢れる土気色の建物、そしてその向こうには永遠と広がる海が見える。
ここからはこの街の景色を一望できる。
今まで見たこともなかった光景だ。
(ああ、美しいな)
柔らかな風に導かれ、髪の毛がふわっと流れる。埃臭い香りが鼻をかすめ、ぼんやりその景色を眺める。
ずいぶん遠くまで来てしまった。
そんな気がした。
驚いたようにメルも小さく声を上げる。
囚われていて絶体絶命の状態のはずなのに、わたしの心はその光景の虜になっていた。