謎の男
「君がローズさん?」
わたしを前に男はニッコリ微笑んだ。
船に戻った時、鍵は開いていた。
最初は珍しくあのウィルが鍵をかけ忘れたのかと思っていた。
だけど、違った。
不用心ね、などと思いながら二階へ上がった時、背筋が凍るほどぞくっとした。
見知らぬ男が立っていたからだ。
目が合うなり、顔面を覆ったフードを外し、はじめましてと笑顔を向けてきた。
ひょろっとしていて背が高く、色白で灰色の髪、そばかすが多く、そして丸い眼鏡をかけて背中には大きな鞄を背負っている。
それが第一印象だった。
歳は……若そう。
二十代だと思うんだけど、十代でも通りそうな印象だ。
目の前で好意的な瞳で手を差し伸べてくるこの人は、見た目は優しそうだけど心が全く読めない雰囲気を醸し出していた。
「ど、どなたですか? というか、どうやってこの中に? それに、どうしてわたしの名前……」
不思議と怖くはないけど、聞きたいことが多くすぎてかなりパニック状態だ。
手なんて差し伸べられたところで握手なんかに応じられるはずもない。
「あ、それもそうだね。断りもなく侵入して申し訳ない。驚かせてしまったね」
彼はわたしの様子にくすくす笑う。
(こ、この人って、泥棒?)
今更だけど、はっと我に返る。
慌てる割に頭は意外と冷静で、急いで思考を巡らせる。
(だったら、早く、ウィルを呼んだ方が……だけど、どうしよう……)
体が固くなったのがわかる。
後ろは階段だから、わたしは逃げられる。
だけど、そんなことは目の前の男も百も承知だろう。
それでも笑顔を浮かべていられる精神が異常に感じられ、謎の恐怖が体を硬直させる。
(背中を向けたら最後よ)
本能がそう告げてくる。
「さすがだね。怪しい侵入者を見ても全く動じない所とその意思の強い青い瞳は、ショーン様似だね」
彼はずいぶん嬉しそうだ。
いちいち緊張感をぶち破ってくるその空気感にツッコミどころはいろいろとあったけど、その言葉はわたしの注意を引くには十分だった。
「ど、どうして……父のこと……」
「てっとり早く言うと、シャヤ様がかなり心配しているよ」
「え……」
予想外の返事に言葉を失う。
「まったく、驚いたよ」
わたしの心がわかったのか、彼は続ける。
「シャヤ様にダーウィン・スピリの船を動かして娘を乗せてやってくれと呼ばれた時も、そして向かってみれば、その娘も船も忽然と姿を消している。……いやぁ、さすがだと思ったよ」
「あっ!!」
(もしかして、この人……)
「行動力と逞しさはまさしくシャヤ様だ」
「あなた、ママの言っていた……」
(船に乗せてくれるって言ってた人?)
そう考えたら合点がいった。
ママの古くからの知人だと聞いていた。
「ひとりじゃないね?」
「え……」
「三人。そして、ひとりは幼子だね?」
壁にはられたメルの絵を見て彼は言う。
「そして、瞳は赤い」
「ど、どうして、それを……」
まるで見透かされているようだった。
(こ、この人って能力者なの?)
眼鏡の奥の瞳は、わたしの表情をしっかり捉えて離さない。怖い。
「ああ、やっぱりそうなの?」
「え?」
しかし次の瞬間、どっと脱力をした様子を見せた彼に唖然とする。
いきなり重い沈黙を自ら壊してくるから掴みどころがわからない。
「それならやっぱり早く帰るべきだよ」
続けられた言葉は脈略もなく、意味がよくわからない。
彼を伺うようにまじまじと見てしまう。
「やっぱり知らないね? 君たちふたりは三カ国から指名手配されているんだ。なんでも、幼児誘拐の容疑で……」
「は?」
(シ、シメイテハイ……)
驚きの言葉が続き、混乱する。
(シメイテハイって、あの、シメイテハイよね?)
ふとウィルの顔が浮かんだ。
「で、でも、あの子はイナグロウ国で……」
一気に怖くなる。
あれは良かれと思った動いたことだった。
だけど、メルがいた居場所から彼女を連れてきてしまったのは事実だ。
人攫いだと言われれば否定はできない。
(こ、怖い……)
自分の知らないところで物事は大きな音を立てて動いているようだ。
「知っているよ。あの国がどんな場所なのか。でもね、女の子だけの旅路は非常に危ない。今すぐに帰国した方がいい」
(キ、キコク……?)
彼の言葉が単語になって、頭の中をぐるぐる回る。
(オ、オンナノコ、だけ…? ん?)
「それにこの国は特に……」
動揺する私に、彼はポケットから折れ曲がったチラシを見せてくれる。
「え……」
そこには子どもがクレヨンで描き込んだような絵が描かれていて、加えてわざわざ細かな説明付きだった。
「これが我がジェクラムアス国とアカメル国のあちこちにも貼られている」
話より、この広告に目がいく。
ふたりの人間の絵がすごい迫力で描いてある。
ひとつはわたしなのだろう。
目と長い髪は真っ黒に塗られていて『魔女のような黒い目と長い髪を持つ女』と表記されており、しかも制服だけはやけにリアルに描かれている。
もうひとつは……吹き出しそうになった。
短い髪はオレンジ色(蜂蜜色だってば!)に塗りつぶされ、目が緑に塗られてたから一瞬でウィルだとわかった。
だけど、『布団叩きを振り回し、大男もなぎ倒す美少女』と書かれていた。
(び……美少女……)
そんな状況じゃないとは、かっていたのに、緩む頬を抑えられない。
そして浚われた金髪に赤い瞳の少女の説明。
「もちろん。シャヤ様はこの少女のひとりがあなただとご存知だよ」
(制服だけはそっくりだもんね……)
「だから……」
まさか、自分が指名手配犯として扱われている事実が信じられなかった。
平凡だ平凡だと思っていた思っていた自分は、下手をすると牢獄に閉じ込められてしまうかもしれない存在なのだ。
(ママ、心配しているだろうな……)
突然、申し訳無さでいっぱいになってくる。
どうしたらいいのだろうか?
ふと、ウィルの顔が浮かぶ。
ここで、この人と帰ってしまったらどうなるのだろう?
実際の所、わたしの海の向こうを見たいという当初の目的は、達成したといえばしていた。
父のこともあるけど、もともと終着点が曖昧だったわたしは、ここで引き返した方がいいのだろうか?
それでも……
「帰りません」
それでもまだここにいたい。
即答だった。
「まだ、この旅は途中です。海に出た以上、ここでなんて帰れません」
自分でも驚いた言葉。
このままどうしたいのか、悩むこともあったくせに、しっかり男を見て自分の想いを言葉にしていた。
(そうよ)
『なくなったらなくなったで考えればいいんだ』
ウィルの言葉を思い出す。
(まだ何にも自分では考えていないもの)
「納得が行くまで、戻る予定はありません」
どう納得するのかと聞かれたら答えに困るけれどこ、れが本心だった。
そして、やっぱり自分は海が好きなんだと実感した。
男は一瞬驚いたように目を見開いて私を見ていたけど、すぐにまたゆっくりと口角を上げた。
「あーあ。やっぱりシャヤ様の言う通りだね」
「え?」
「そう伝えておくよ」
言葉とともに、肩にかける大きな荷物を床に降ろす。
「これ、シャヤ様からだよ。ローズさんがお元気そうで何よりだ」
(ママ……)
中身はわたしの私服の数々だった。
「あ、あなたは一体……誰なんですか?」
わたしの問いに、その人はやっぱり静かに微笑むだけで答える様子はない。そして、
「あとは、これかな」
鍵を差し出してきた。
見慣れたそれに、息を呑む。
「世界でたった二つしかない、このブラック・シー号の鍵は、もう僕には必要ないだろうからね」
満面の笑み。心が温かくなるような。
だけど、そんなことに惑わされてはいけない。
「これ……」
世界で、たった二つの鍵……
父の物と、そして……
「タ、タルロットさん? あなた、タルロ……」
「違うよ」
静かに、そしてその人が次に浮かべた笑みはなんだか悲しそうで力無く見えた。
「ロット兄貴、いえ、タルロット様は、十七年前に亡くなられているんだよ」
し、死んでる?
タ、タルロットさんが……
思わずウィルの部屋に視線を向けてしまう。
「僕の憧れの人だったよ。もちろん、君の父上もね」
そう言われて、少し顔が熱くなる。でも…
「わたしは別に、父に憧れてこの船に乗ったのではありません。むしろその男のことは……」
嫌悪感しかないと、感情をあらわにしてしまいそうだった。
「ローズさん……」
急に彼から笑みが消える。
「君が生まれた時のことは今でも覚えている」
声が少し震えている……気がするのは気のせいか。
「ショーン様は命に変えてもあなたと、そしてシャヤ様を守りたいと何度も言ってらっしゃった」
「わたしたちを捨てていったような人が?」
「ローズさん……」
この話をやめたかった。
諭される気なんてさらさらない。
「人は変わるものです。生まれた時にどう思われていようと、その数年後に父の気持ちが変わらないとは言い切れ……」
「彼は、幸せを手放すしかなかったんだよ」
「え?」
意味が分からない。
この人は、なにを言っているの?
ちょうどその時、下の戸が開く音がした。
「おーい、ローズ? 大丈夫か?」
ウィルだ。
声でその存在がわかった。
きっとわたしが遅かったから来てくれたのだろう。
「ああ、どうやら時間切れのようだ」
残念です、と男は出会ったときと同じようにフードを被る。
「まだ君の友人に会うことはできないので。ですが、くれぐれもこの国はお気をつけて」
彼はそう言い残すと、身を翻し、デッキに向かう階段を駆けるように上がっていった。
わたしはただその様子を、呆然と眺めるしかできなかった。
中の様子に違和感を感じたのか、メルを抱えたウィルが慌てて駆け込んで来た時、すでに男の姿はどこにもなくなっていた。