神の歌声
「キルは眠っただけじゃ」
「ひっ、ひぃぃい!」
目の前にいつの間に現れたのか、目が細く背の低いおじいさんがぼうっと立っていた。
「長!」
「え?」
ウィルの声に固く閉じた瞳を開く。
今にも倒れてしまいそうな弱々しいおじいさんだ。
「長、一体何が……」
「皆眠っただけじゃ。神の歌声で」
ピリっと空気が張り詰めたようだった。
不思議な感覚だ。
「みなさんに何があったんですか? 神の歌声って……」
それに、とウィルの視線は凄まじい音を立てて燃える二隻の船に向けられた。
「ああ、心配いらん。皆、今は海の中におる。間一髪で海に入ったようじゃ」
長は細い目を少し開いて深く笑む。
刻まれたシワがより一層深くなる。
「……っ!」
(こ、この人……)
悲鳴にならない声を必死に噛み殺す。
(こわい……)
「ウィル殿、そなたの船を回してもらえんか」
キルさんのときにも感じたけど、この人はまた次元が違っていた。
全てを見透かされている。
本能がそう語っている。
「侵入者とはいえ、奴らも同じ人間。助けが必要と見える。まぁ今は眠っておるがな」
長はフォフォ……と不気味に笑う。
静かに頷いたウィルはポケットからブラック・シー号の鍵を取りだして、困惑する。
「あの、でも、この船は……」
ウィルの言わんとすることはわかった。
あの船は決められたボタン操作が完璧でない限り、自由に操作ができないのだ。
「なぁに、問題はない。絵の下に、ハンドルのようなものがついていたじゃろう? あれで操作すればよい」
ぽかんとしてしまう。
そりゃ、飾りのようなハンドルはついている。いるけど、ど、どうしてこの人が知ってるのだろうか。
うっすら細められた瞳はブラック・シー号に向けられていて、見なかったことにする。
さすがのウィルも驚いたようだったけど、すぐに真剣な表情になり、瞳は長を捕らえたまま頷いた。
「行くぞ、ローズ!」
「う、うん!」
「待て!」
走り出すわたしたちを長は止める。
「お嬢さんはここに残れ」
「ど、どうして?」
(どうして、わたしだけ……)
恐怖のあまり、聞き返すことさえ恐ろしい。
「神の歌声が泣き声に変わった。行ってやれ」
長の声に足を止める。
澄んだ空気の中で、そういえば、歌声は止んでいた。
(ま、まさか……)
思い当たる出来事を想像し、今度こそ呆然とその場に立ち尽くしてしまった。