心細い夜のお話
夜になって、風の匂いが変わる。
だんだん外が賑やかになってきたのを感じてゆっくり重たい瞼を開く。
どうやら少し眠っていたようだ。
いい気なものだ。
警戒心という言葉はないのかと自分でも呆れてしまう。
だけど眠っていたのはわたしだけでなかったようで、室内で体を休めていた女性達も外で鳴り響く音色に身を起こし始めたのだ。
「おま……つり……?」
人の浮足立った様子やこの賑やかさに覚えがあった。
「一年の無病息災と厄除けを祈願を行っているのさ」
いつの間にか薄暗くなった外の様子をぼんやり眺めていたわたしに、側でせかせかと準備を行っていた大柄の女性が教えてくれた。
この時期は毎日行うものだという。
お酒や食べ物を外へ運び出す女性達が増え始める。
前回のトラウマで、こういうガヤガヤした行事にいささか恐怖を覚えるのはここだけのお話だ。
外の広場に大きな火が立ち上る。
赤々と中央で燃えるそれを囲うように徐々に人が集まり、ヒラヒラとした布を持った女性達がひとり、またひとりと舞い始める。
高らかになる笛の音と太鼓のようなものをドンドコドンドコと叩く音がより一層大きくなり、その催しが始まったのがわかった。
女性達は舞い、男性達はお酒を飲んでいる。
彼らの身に付けるアクセサリーがシャラシャラと響き、夜の闇に混ざっていく。
不思議なものだ。
初めて見る光景をただただ眺める。
外の世界はとても騒がしいものなのに、まるでわたしだけ切り離された空間にいるかのように心は静かで落ち着いていた。
ウィルはいないし、メルは子どもたちと一緒になって楽しそうにはしゃいでいて、わたしだけひとりぼっちに思えた。
気が付いた時、わたしはブラック・シー号の前に座って、ただ広く広がる海を眺めていた。
どうやってここまできたのか、自分でもよく覚えていない。朦朧と歩いて来たのだ。
遠く広がる海はとても静かだった。
『あの向こうには、どんな世界が広がっているのかしら?』
この景色を前にするたび、いつも胸を高鳴らせ、そう考えていた。
(ママやレイは元気かな……)
変わらぬタイミングで船を打つ波の様子を眺め、ぼんやり思う。
(わたしのこと、心配してるかな……)
もやもやする。
(馬鹿ね)
今頃ホームシックなのかもしれない。
言葉にはできない感情が胸のあたりでうずく。
(自分で望んで決行したことなのに)
なぜ今頃、こんな気持ちになるのだろうか。
なんだか、もやもやするのだ。
嫌だな。
でも、たまに思うことがある。
わたしは何しをに海に来たんだろう……って。
「………」
顔を覆ったら、泣いてしまいそうだった。
波の音が、心地よくて、そして辛い。
「嫌だな」
ついつい口に出してしまう。
海が黒い。
わたしの知っている色じゃない。
「嫌なのはこっちだよ」
「……へ?」
突然後方から声がして身の毛がよだつ。
恐る恐る振り返った先にウィルが立っていて、呆れた様子でこちらを眺めている。
「ウィル!」
「一体何時間ここにいるつもりなんだ?」
「ど、どうしてここに?」
「キルさんがこの辺を女がひとりで歩くのは危険だってさ」
だから追ってきたんだよ、とウィルは音もなく隣に腰掛けてくる。
「本当の長はかなりのじいさんだったぞ」
「あ、会ったんだ?」
感情がうまくコントロールできないまま答えたら、ずいぶんぶっきらぼうなものになってしまい、いささか長めの沈黙を招く。
何か言わなきゃ、と思うもののこんなときに限ってうまい言葉が見つからない。
いつも、この人と何を話してたんだっけ?とさえ思えてくる。
(そうよね……)
いつも私がひとりで話しているようなもんだったから。わたしが話し出さないと会話は続かないのだ。
「嫌だって何が?」
長い沈黙を破ったのはウィルの方だった。
呟くような声で聞いてくる。
「………」
自分でも何だかよくわからなくて、黙ってしまう。よくわからない感情に振り回されてもやもやしてる、なんて言えない。
「ウィル、傷は?」
「ああ、もう平気だよ」
見る?と言うので慌てて頭を振る。
冗談なのか本気なのか、大きく反応したわたしの様子にウィルはくすくす笑いを漏らす。
「キルさんに紹介してもらった薬草がびっくりする効果だったんだ! 痛みは一気になくなるし、傷跡も徐々に治っていくだろうってさ」
ウィルは生き生きとしている。
「やっぱり痛かったんじゃない」
予想通り苦言を漏らしてしまうわたしとは正反対にウィルは目を輝かせる。
「いや、すごかったんだよ! 本当! 本や話では聞いたことがあったんだけど、こんなことが本当に可能だったなんて!」
これがレイのよく言っていた『夢見る少年の顔』とやつなのだろうか。
いつものすました様子とは違って年相応の男の子というか、子どものようにも見える。
「次からはちゃんと我慢しないで教えてね」
本当にそう思った。
「わたし、鈍感で何にも気付けていなくって申し訳ないと思ってる」
かなり卑屈っぽいけど本音がこぼれる。
「それに、ウィルのことも何も知らないんだから……」
そしてまた沈黙が続く。
うああああ、と内心で自己嫌悪する。
「ごめん」
だけど、そんなわたしに対して、ウィルは素直に頭を下げてくれた。
「見たらまた泣くだろうと思って」
「うっ……」
そう言われると、言い返せない。
おっしゃるとおり、きっとあの場で見せられていたら、わたしはまたわんわん泣いていたはずだ。
「心配かけたくない気持ちが勝りました」
ごめんなさい、とウィル。
「これからはちゃんと話すから」
「泣き喚いたと思うわ」
お気遣いありがとう、と自虐的に笑うと、だろ、と返された。
「あ、懺悔ついでにもうひとつ! 先に言っておくけど、風呂場は血だらけだから」
「はっ! う、嘘? あ、だから水浴びって……」
船内に上がってこられては困るから……
「嘘だよ、バーカ!」
「バッ、バカって何よ! わたし、本当に心配したんだから!」
すごく焦ったりおろおろしたり、泣かされたり、困らされたりと、感情が迷子だ。
本気で怒っているのに、そんなわたしを見て、ウィルは心底楽しそうだ。
「ちょっと! ウィル!」
「悪い悪い。やっぱりローズの百面相は面白いなって」
「なっ! わたしは本気で……」
「尊敬してるんだよ」
「は?」
「感情を素直に表現できて、まっすぐで……なかなかできることじゃない」
褒め言葉なのだろうか?
海を見つめるウィルの表情が読めない。
「俺と真逆だなぁって」
口調は明るいものの、遠い目をする彼は、一体何を思っているのだろう。
出会って間もないにも関わらず、船の上で生活をともにする上でもうずっと前から知っていたような錯覚に陥るときがある。
今まで会った誰よりも本当は近くにいたみたいに親しみを感じられて、それでもたまに遠く感じる人。ウィルとは、そんな人間だ。
だけどふと思う。
星空をただ眺めるだけの変わらない夜に、こうして隣に並び、言葉をかわすことが日課となった。
わたしが今まで故郷の街を恋しく思わなかったのは、きっとこの人のおかげなのだろう。
今になってしみじみ思った。




