逃亡劇とリモネット姫
縛られていた手首がズキズキ痛む。
それでもエルスさんに引っ張られながら、広い城内を駆けている。
「ローズさん、もう少しだから……」
彼は人通りの少ない裏門の所に馬車を付けてくれているらしく、今わたしたちはそこに向かっていた。
早口で説明されたことは理解できる。
それでも深くは考えられなかった。
わたしの頭の中は先ほどから、ただただ同じ言葉が回っているだけだった。
ウィリアム王子……
エルスさんの言った、王子様の名前だ。
怖くて聞き返すことができなかった名前。
ま、まさか……
「どこに行くつもり? エルス!」
馬車の前にはひとりの美少女が立っていた。
一目でお姫様だとわかった。
わたしが夢の中で見続けていた白くてフワフワの大きなリボンのついたドレスを着て、透明感のある長い白金色の髪はきれいに巻かれていた。
そして深緑色の瞳はとても鋭くわたしを睨みつける。
(ああ……)
体中の力が抜けそうになる。
(どうして……)
どうして気づけなかったのだろうか。
この顔を、わたしは知っている。
毎日のように見ていた大好きだったあの……
「リモネット様……」
エルスさんが顔色を変える。
「その女を連れてどこに行くつもりなのかと聞いているのよ、エルス!」
甲高い声でリモネット姫は怒鳴る。
後ろに控えていたらしく、何人かの大男が現れ、そして順に構え始める。
「僕が合図をしたら馬車に乗るんだ!」
エルスさんは小声でそう言い、そして自分は腰元の刀に手を添える。
「この方は無実です。リモネット様、ですからわたくしはこの方を解放し……」
「それならばこれを見なさい!」
リモネット姫はエルスさんの言葉を遮り、わたしたちの前に何枚かの広告を突きつけた。
それを見て、一瞬頭から火が吹き出しそうになった。いや、目眩がした。
それは今朝、わたしが浜辺でウィルを押し倒している写真と昼間にウィルにキスをされた写真でどれも一面を埋め尽くしていた。
「その女が無実なはずがないわ! そいつのせいでこの騒ぎよ! このスキャンダルされた広告が面白おかしく我がジェクラムアス国、そしてアカメル国にも貼り巡らされているのよ!」
広告を勢いよく踏みつけるリモネット姫にエルスさんは何も言えない。
きっと広告を見て、驚いているに違いない。
だって現にわたしは恥ずかしさのあまり、体中がガタガタ震えていた。
「ウィルはこいつのせいで名誉を失ったのよ! あんなに賢くて、将来を期待されていた王子だったのに!」
(ああ……)
今度は鈍器か何かで殴られたような気持ちになった。
改めて彼女からその名前を聞くのはつらい。
「お兄様が目覚めない今、うちの国にはウィルしかいない。そう言われていたのに、このざまよ!」
冗談じゃないわ!と怒鳴る彼女の言葉に悲しすぎて頭がおかしくなってしまいそうだ。
視点が定まらない。
唇までワナワナ震える。
大男に囲まれる中、自分の国の姫に怒鳴られていることよりも、恥かしい写真のついた広告がこの二ヶ国中、そしてわたしの住んでいた街にも貼られているということよりも、何よりも、ウィルが、一番そばにいた人が本当は王子様だったということが悲しかった。
すっと憧れていた……王子様……
その王子様のことを話すのを、ずっと側で聞いてくれたウィルだったのに……
そんなウィルが、王子様本人だったなんて……どんな気持ちで聞いていてくれたのだろうか。
泣きそうだった。
「ご無礼をお許し下さい」
そう言って、エルスさんは刀を抜く。
「な、エルス……何を……」
余程エルスさんは腕が立つのか姫だけでなく大男達まで身じろぎせず、息を呑んでいる。
(あ……)
そして、その構えに注目する。
エルスさんの構えはウィルと同じだった。
剣を教え、育ててくれたというのはこの付人さんで、エルスさんのことだったのだ。
今では過去となった会話の数々が脳裏に浮かんでキュッと胸を締め付ける。
「わたくしの腕を知っておられるのなら、道をあけて下さい。それでも通して下さらないというのなら、たとえあなた様といえど、腕を揮うざるをえないでしょう」
「ふざけるな、エルス!」
エルスさんの一言に声を荒げて飛び込んでくる大男達。
(ああ……)
この光景も知っていた。
彼が腕を軽く振り上げた時、大男達は吹っ飛んだ。
まるでウィルが剣を使った時のように。
大男達は次々に倒れ込んでいく。
リモネット姫は恐怖に怯えているようだったけど、それでもわたしを睨み続けている。
「あなた様の幸せを、心からお祈りします」
そんな彼女にエルスさんは深く一礼をし、再びわたしの手を取るとそのまま馬車に乗り込もうとした。
「待て! エルス!」
後ろの方で声が聞こえた。
ぐっと息を呑んでしまった。
聞き覚えのある、あの声だ。
王子様とはきっとこんな人なんだろう。
幼い頃から何度も何度も想像し続けた王子様の姿。
そんなきらびやかな王子姿の衣装に身を包み、息を荒げたウィルその人が立っていた。