カギ泥棒と誘拐
「動くな」
思考回路の停止した頭では、一体何が起こったのか反応に遅れてしまったけど、いつの間にか背後に全身を黒い布で覆った男が立っていて、わたしの腕をすごい力で押さえつけてきた。
(なに、こいつ……)
「黙ってそのカギを渡せ!」
響くように低い声だった。
腕を押さえたんじゃなくって、カギを捕ろうとしているのだとようやく気が付いた。
「は、離して! お、大声出すわよ!」
無我夢中で叫んでやる。
たとえここが人気のない海辺でも、目の先にある市場は変わらずにぎわっている。
そこへ向かおうとする人もいるはずだ。
叫べばきっと辺りの人が気付いてくれる。
そう考えたわたしと同様に、そいつもはっとしたようだった。
「なら来い!」
不覚にも安堵した時は既に遅く、そいつは軽々しくわたしをひょいっと持ち上げた。
「ちょ、ちょっと! 下ろしてよっ!」
というよりも、荷物のように担ぎ上げられ、男はそのままブラック・シー号に進む。
ザクザクと荒い砂の音が耳に響く。
(こ、これって……)
踏みしめる感触が体に伝わるたび危険であると本能が察した。
殺されるのだと頭の中が真っ白になる。
「だ、誰か……」
(逃げなきゃ……)
声が震えてうまく出てこない。
「誰かっ……」
「黙れよ! おまえだってこの街が出たいんだろ!」
声を出そうとして遮られる。
「俺も出るんだよ!」
そいつの声に、余裕がなかったからだ。
(え……)
抵抗を繰り返していた指先が震える。
暴れるにも暴れられず、何も言えなくなってしまったわたしは、ただそいつにしがみつくしかなかった。
危険だとわかっていたのに、なぜかそいつの声は恐怖心を煽るよりも胸に響いた。
海に出たい。
そう思ってしまった。
こいつがどんな奴であれ、もうどうでもよかった。
これからもずっとこの街にいることに比べたら……そんな気さえした。
きっとこのときのわたしは気が動転していたのだ。
「おい! あんまくっつくなよ!」
わたしを担いだ状態で船に踏み込んだ時、男は言った。
無意識にぐっと男に
「なっ! あんたが無理に連れ込んだんでしょ!」
こんな怪しいやつに好き好んでくっつくはずがない。
「嫌ならカギだけおいて降りろ!」
「嫌よっ! これはわたしのものなんだし、そ、それにわたしだって海に出るのよ!」
怖かったはずなのに、全身を布で覆い隠したこの男にしがみついて叫んでいた。
「わたしは……」
バカだなぁとみんなは軽蔑するだろう。
わたしだって、とんでもないことをしているのは重々承知のうえだ。
軽率な行動だってわかってる。
それでも、
「なら、出るぞ! ローズ!」
「……え?」
(どうして、名前を?)
「時間がない」
問うよりも先に男は呟き、わたしを埃だらけの床に下ろした。というよりも落とした。
「い、いったぁ……」
なんて乱暴な男なのだろう。
もっと丁寧に扱えないものだろうか。
と、いうよりも……
「み、見てたの?」
レイと一緒にいた時のこと。あの会話も。
「ああ、驚いたよ。どうやって船に乗ろうか考えてたらそのカギを持ってぎゃーぎゃー騒いでる女がいるんだからな」
助かったよ、と男は暗い船の中を見渡すようにして歩いた。
日はまだ高い位置にあるというのに、室内だとこんなにも違うものなのだろうか。
一歩、また一歩と男が床を踏む度にぎしっと音が鳴り、居場所を伝えてくる。宙に浮かび上がる埃を肌で感じ、ぞっとする。
あまりに不気味で、思わずダーウィン・スピリの幽霊の存在を思い出してしまった。
カチッと音がして、盛大に飛び上がる。
どうやら男が室内の明かりをつけたようだ。
次の瞬間、眩しい光が視界いっぱい広がり、目を開けたその先には物置のような散らかった部屋が見えた。
「……え?」
鳥肌が立った。
どうして何年も使われていなかった船の明かりがつくだろうか。
意外と冷静にこの状況を分析する。
それに、いつの間にか男もいない。
さきほどまで響いていた足音さえ感じられなくてぐっと息を飲む。
広い物置のようなこの空間にわたしだけ閉じ込められた。そう思った時、ガタンという音に続いてグオォォォォーーっとけたたましい音を出して地面が揺れだした。