本当の家族
「要するにメルが戻れば、その怒った海の神も戻るということですか?」
ウィルの言葉に人魚は顔を曇らせて首を横に振った。
「ご自分の力をメロディ様に渡し、力のなくなったご自分はそのまま海の彼方へ消滅されたのでございます」
「では今はこの海には神という存在がいなくなった、と?」
あちこちから泣き啜る声が聞こえる。
「災いは、すでに起き始めています。東の海が枯れ、多くの生き物が命を落としました。また、人が生きていくという代償に海面がオイルで埋め尽くされ、本来の美しさを失ってしまった場所もあります」
「メルが……海には必要なんだな?」
ウィルの低い声が静かに響く。
「俺は、大きな問題をメルひとりに負わせたいとは思わない」
波の音がゆったり聞こえる。
「この海に危機が直面しているという事実は理解できる。一刻も早くなんとかしないと行けないことは確かだ。それでも、この子が大きくなったときに待ち受けた未来が彼女にとっての負担になってほしくない」
大切だから、とウィルはメルの頬に手を添える。
不安そうに震えていたメルもほんの少し安堵の表情を浮かべる。
「メロディさまだけに、この問題を押し付けるつもりはございませんわ。だけど、彼女は、姉の、わたくしたち家族の……唯一の……」
「家族、か」
ウィルの瞳が、つらそうに揺らいだ。
「ウ、ウィル……?」
「わかった」
一言そういうとわたしの方を向き治るウィル。
「ローズ……」
聞くまでもない。
言わんとすることはわかっていた。
「嫌よ! メルは渡さない!」
反射的にそう叫んでいた。
それでもメルの体は赤く赤く光を放つ。
まるで人魚に返る日を待ち望んでいたかのように……
「仕方がない。彼女たちはメルを必要としている。それに……メルだって仲間が必要だと……」
「嫌! 絶対嫌!」
「ローズ……」
ウィルがわたしをしっかり見る。
「家族なら、わたしたちだって……」
わかってる。
わかってるけど……
涙が溢れてくる。
わたしの手を握るメルのこの小さい手を離したくない。
離したら絶対に後悔する。
このまま時間が止まってしまえばいいのにとさえ思ってしまったほどだった。
「ローズ」
下を向いたままわたしは黙ってメルを差し出す。
ウィルの手が優しくわたしの頭を撫でた。
「ママ……?」
メルが不思議そうにわたしを見ていた。
もう涙が止まらなかった。
「パパ……?」
「メル……」
ニッコリ微笑んでメルを抱き上げるウィル。
「メル、おまえが言ってくれたようにパパもメルのことが本当に大好きだよ」
「メリュもだよぉ〜」
メルはその言葉に嬉しそうにウィルに抱きつく。ウィルの口元が少し、引き締まった。
「本当に、大好きだ。今もこれからもずっと。だけど、メルは仲間の所にも戻らないといけない。彼女たちはメルの本当の家族達だ」
メルの瞳を見つめ、ウィルはゆっくりゆっくり言葉を紡ぐ。
「パパ?」
「だから、お別れだよ、メル……」
「どぉして? パパは?」
「俺は……」
そこで少し、ウィルの声が途切れたのがわかった。
「パパのおはなしがきけなくなったらやだぁ〜」
「メル」
ぐっと喉がなる。
こらえていても涙がどんどん溢れてくる。
「メルがまた、話して欲しくなったら、いつでも話しにくるから。メルの歌声が聞こえたら、俺は何よりも先に海に出るから」
だから、と加えるウィルの声が切ない。
「ほんとぉ?」
「ああ、約束するよ」
「わぁ〜い」
果たしてメルはこの状況を理解できているのだろうか。
手を上げて喜ぶその笑顔にウィルも頬を緩めた。
「本当に父親だと思っていたよ。可愛いメル。元気でな」
そしてウィルは軽くメルの額にキスをした。
「ローズ、次はおまえだ……」
涙で顔中ぐちゃぐちゃのわたしの頭をくしゃくしゃと撫で、ウィルからメルを託される。
「おまえの手で、返してやってくれ」
わたしの目を見てニッコリするウィル。
その力ない笑顔に胸が締め付けられる。
「わ、わたし……」
わたしには……
そんなこと、できない……
嫌だって……
ここで言い続けることは不可能なのだろうか……
笑うことなんて……
もうできない…
「マァマ?」
メルを離すことなんて……
できないのに……
「マァマ……」
メルがわたしの頬をぺちぺち触る。
撫でてくれているのだ。
「なかないでぇ~……パパがね、またメリュにおはなししてくれるって♪」
嬉しそうにきゃっきゃと笑うその姿を見て、隣に立つウィルから微笑みが消えたのがわかった。
(どうしたら……)
ぐっとこられる。
(どうしたらいいの……)
この子の前ではいつも笑っていたい。
そう思っていたのに。
「そ、そうね」
精一杯振り絞る。
「よかったね、メル。そのあとはどんなお話を聞いたのかママにも聞かせてね」
一生懸命笑顔を作ったつもりだったけど、重みのある涙が零れ落ちる。
「メル、わたしも……ママもメルのことが本当なや大好き。ずっとずっと大好き……」
バカの一つ覚えのようにそれしか言えない。
「大好き。大好きよ。ずっとずっとメルのこと……」
あなたは、ずっとわたしの支えだった……
「メリュもだよぉ~ ママもパパも大好き~♪」
誰か……助けて……
もう…ダメだ……
体に力が入らない……
座り込んでしまう。
そんなわたしにメルが言った。
「ママのことだぁ〜いしゅき!! だからなかないでぇ」
体内に電撃が走ったようだった。
どうして……
こんなに涙が出るんだろう……
どうして……
こんな気持ちになるんだろう……
こんなにも悲しい気持ちがあるなんて……
「……っ」
歯を食いしばって立ち上がる。
「もう二度と、ひとりにしないでください」
メルを抱いたままで、そして人魚達にメルを差し出している自分がいた。
「もしまたこの子を泣かせることがあったら、わたしが許しませんから……」
こうするのが、メルのためだと気付いた自分がいたから。
ふとママやレイ、そして街のみんなのことを思い出していた。
生まれ故郷から離れた海での生活をして、ウィルやメルに出会ってわたしは本当に毎日幸せだった。
だけどたまに、離れた故郷のことを思い出してしまって胸を痛めていたいたわたしには、仲間と離れてしまう気持ちがどんなものなのか知っていたから。
たとえメルが、人魚の仲間のことを知らなかったとしても……それでもこうした方がいいのだと思えた。
(わたしの直感はよく当たるもの)
それでこそ、メルの母親であるわたしの役目だと思った。
これは宿命なのだ。
「メロディ様が心を取り戻されたのは、あなた方のおかげです。本当に……なんと申し上げたらよいか……」
人魚はわたしからメルを受け取り深々と頭を下げる。
「ママ……」
メルが不思議そうに小さい手を差し出す。
ずっと握っていたかった……この手……
「メル……忘れないでね……」
「ママ? ま、ママァ!」
メルがじたばたし始める。
「メル……メル、また会えるわ! きっと……」
好きだから、きっとまた会える。
「いやだぁ! ママァ! ママァ!」
メルの声が響く。
胸が詰まる。
「ママァ~ママァ~!」
「メル、また会えるわ……。また……くるから……ね? お願い……メル……」
もう……わたしを呼ばないで……
立っているのが精一杯なのだ。
もう踏ん張りたくない。
消えてしまいたい。
だけど、叫び続けるメルを前にわたしはわたしであり続ける必要があった。
まるで胸が押し潰されてしまうのかと思えた。
いっそ潰れてしまえとさえ思える。
それでも、この子と離れるのはつらかった。
「ママァ……ママ……っ、パパァ! パパァ~!」
声がかすれるメルは、顔を上げないわたしでなく、今度ウィルを呼び出した。
ウィルは背を向けたまま、拳を力一杯握りしめていた。
何人かの人魚が口々に歌い始める。
ふかふかの毛布に包まれたようなとても心地よい歌声だった。
呼び続けていたメルもゆっくり瞳を閉じる。
そのメルの額にわたしもそっとキスをした。
「忘れないわ、メル。ずっと、大好きな……あなたのことは……」
人魚の声が心地よく聞こえる。
頭がふわふわとして来たのを感じた時、既にわたしは眠っていた。