女怪サノバビッチ
「誰お前」
一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
だが、すぐに理解が追い付く。
「 お ま え …… !!」
途端、心の奥底から、どす黒い感情が湧き上がった。
それは、憤怒か憎悪か、それとも殺意か。
様々な感情が混ざり合い、何と明言できない感情。
だが、一般的に負の感情と呼ばれる物で構成されている事は確かである。
激情が、身体の痛みを忘れさせる。
全力の魔力を振り絞り、ガクガクと震えながらも立ち上がる。
折れた剣を掲げ、闘志と殺意を秘めた視線で刹那を射抜く。
鬼気迫る。
その様子は、まさにその言葉が正しくあった。
何が彼女をそこまでさせるのか。
圧倒的な感情の発露は、見る者に特異な圧を与えていた。
「何故……」
それは、妹を殺すという覚悟をした久遠も、例外ではない。
妹の、永久の様子は、あまりにもおかしい。
常軌を逸している。
それほどの憎悪を滾らせる理由が、まるで思いつかない。
であるが故に、彼女の感情に気圧される。
その隣にいる男は、例外だが。
「実に素晴らしい意欲だ。
それがどんなものであれ、強い意志という物はそれだけで美しく、尊い物だとも」
パチパチ、と、わざとらしい拍手を贈る。
「だが、今は邪魔だ。大人しくしておきたまえ。
おすわり」
「がっ……!?」
言葉と同時に、超重の圧が永久にのしかかった。
たまらず、両手を地面について、頭を垂れる事となる。
渾身の力を振り絞ってもそれが限界であり、少しでも気を抜けば地面に這いつくばらされる事となるだろう。
「弱いな。少し重力を強めてやっただけでこれとは。
我が愛しき愚妹にすら劣る」
そこで、僅かに思考するように言葉を区切り、
「いや、あれと比較するのは一般生物としては酷か。
俺の領域に適応した超生物だしな」
理性や叡智という物から切り離されていた刹那が構築した廃棄領域は、もはや他の領域に比べてさえ人外魔境の体を為している。
そんな過酷な環境に適応した、適応できてしまった美影は、刹那をしてさえ、化け物の類なのでは? と疑う存在である。
ともあれ、思考を切り替えた彼は、隣で複雑な表情を浮かべている久遠へと視線を向ける。
「で、炎城 久遠よ。
あれは誰だね? 俺の知り合いか?
会った事はあるのかね?」
「え? あ、いや……あー……」
少しだけ、まるで相手にされていない永久を哀れに思いながら、久遠はその質問に答える。
「……炎城……永久だ。あいつの名前は」
「なに? あれが?」
大変に聞き覚えのある名前である。
知り合いどころの騒ぎではなく、自らの生において非常に重要な因子と言える存在だ。
刹那にその実感はまるでないが。
視線を永久へと戻した刹那は、じっとその姿を見つめる。
一秒経ち、二秒が経ち、とんで九秒が経った頃に、溜息と共に刹那は首を横に振る。
「ふぅ。まるで記憶を刺激しないな。
本当に炎城 永久なのか?」
彼は思い出す事を断念した。
「……ああ、間違いなく永久だが……。
その、何で思い出せないんだ?
お前、私の顔は知っていたじゃないか」
「炎城 久遠よ。君は賢姉様とお友達ではないか。
故に、たまに賢姉様を覗き見ている時に君が視界に映る事もあるし、その素性が如何なるものか、確認くらいはするだろう?
だから、知っていた。
だが、あれは映っていない。
賢姉様の友達でもなければ、愚妹の友達でもない。
無関係だ。
故に、知らない分からない覚えていない思い出す気もない」
「そこまで言うか」
「俺の人生において、過去とはそれ程に軽い物なのだよ」
雷裂姉妹との、明るく楽しく、時々刺激的な、そんな生活だけがあれば満足できる。
将来的には、淫らとか爛れたとかいう言葉も加える所存だ。
過去の、既に遠い忘却の彼方に存在する縁遠い血縁者の事など、刹那の人生には一mgとて必要のない物である。
「まぁ、良いさ。事情は把握した。
成程。
炎城 永久か。
逆恨みというのも納得だな。
俺にはあれに恨まれる覚えはないしな。
聞いた限りでは」
「……本当に覚えていないのだな、昔の事は」
少しばかり、寂しいような、切ない表情を見せる久遠に、刹那はさらりと言う。
「大自然の脅威の前に、その様なものはまるで役に立たんからな。
下らん感情に囚われて冷静さを失えば、たちまち命を食い荒らされるばかりよ」
今でこそ記憶まで無くなっているが、当時は、そこそこ思い出は残っていた。
だが、感情という面では、かなり早い段階で消えていた。
恨みも憎しみも、怒りも悲しみも、寂しさだって。
生存本能という生物として誰しもが持つ、圧倒的意思の前に押し潰されて消えてしまったのだ。
生き残りたい。死にたくない。
当時の刹那にあったのは、ただこれだけである。
永久は、重圧に押し潰されながらも、意識だけは二人へと向いていた。
重圧に耐える、それ以外の理由で彼女は砕けんばかりに歯を食いしばっていた。
(……覚えていない、ですって!?)
己らにあれだけの苦難を与えておいて、それを知らぬと言う刹那へと憎悪が募っていく。
そして、同時に、姉に対しても、だ。
何故、そんな朗らかに相手が出来るのだ。
怒るべきだろう。
憎むべきだろう。
恨みごとの一つも、ぶつけてやるべきだろう。
だというのに、姉は、それをしないどころか、普通の知り合い、いや、もっと言えば友人に接するような気安い態度で刹那へと接している。
それが、その光景が、狂おしい感情を永久の中で爆発させる。
魔力は、魂から発せられるエネルギーである。
ならば、極限の意思と結びつき、その影響を受ける事は道理と言えよう。
永久の感情を呼び水に、タガが外れる。
魂の奥底で眠っていたエネルギーの奔流が、魔力となって溢れ出る。
「 あ あ あ あ あ あ あ あ …… !!」
彼女は咆哮し、重力の軛から逃れる。
溢れかえる魔力の勢いに任せ、我が身を顧みぬ強引な身体強化を以て、重圧を押し返して立ち上がった。
折れた剣が、元の形を取り戻す。
爛々と輝く瞳は、真っ直ぐに刹那の姿を捉えていた。
突然の覚醒に、久遠は瞠目する。
今の彼女が相手では、勝てないと直感的に理解する。
「ほう? 力を隠していたのかね?
まぁ、良い。
戦いにおいて自らの底を見せないというのは大切ではあるが、隠した結果、負けて殺されました、では本末転倒だからな。
いざという時には切り札を切る。
うむ、良い判断だ」
彼は、永久の覚醒に臆さない。
覚醒した彼女が相手でも勝てると思っている。それもあるだろう。
だが、正確にはそれ以前の問題だ。
刹那は魔力を体感として認識できない。
彼にとって、魔力は機械などを用いないと観測できない物なのだ。
であるが故に、そもそも永久が覚醒したのだという事を認識していない。
「その油断が……」
「うん?」
「その慢心を抱いて、死んでいけッ!!」
永久は、全身を駆け巡る全能感に酔いしれていた。
今ならば、姉にも、目の前の男にも、もっと上、遥か高みに存在する魔王と呼ばれる者達にさえも、自らは届き得ると確信していた。
それが故に、見誤る。
目の前にいる男が、その魔王が束になっても勝てない、真の怪物だという事実を。
「ふっ、よかろう。相手をしてくれるッ!」
~~~~~~~~~~
三分後。
「ごふっ……」
「まっ、こんなものだろう。お疲れさん」
永久は血溜まりの中に沈んでいた。
「むごい……」
今の戦闘を見ていた久遠が、一言、感想を漏らす。
知っていた。
確かに知っていた。
学舎での決闘内容を見て、刹那のやり口は理解していた。
彼の戦闘方針は、基本、そのまんま返しだ。
相手のしてきた事を、そのままやり返す。
これが刹那の戦い方である。
普通の者は、やろうと思うかどうか以前に、不可能だ。
なにせ、魔力属性は基本一人一属性、稀に二属性持ちがいる、という程度だ。
創意工夫で、技に幅を持たせる事は出来る。
例えば、火属性で言えば、炎熱による上昇気流を生まれさせる、などだ。
だが、それには限界はあるし、当然、本家の属性が起こす事象に比べれば微々たる影響力しかない。
だから、そんな事は不可能な絵空事でしかない。
その筈なのだが、どういう訳だか、刹那は全属性を扱えるらしい。
彼から魔力を感じないし、こっそりと計器を用いて魔力測定をしてみても魔力を捉えられないが、やっている事を見ればそれは自明だ。
結果、彼はそんな嫌がらせじみた戦法を好んで使う。
今回も、一言で言えばそんな内容だった。
だが、今までとは精度が違う。
今までは、起こす事象そのものは同じだが、威力も違えば、誘導もされていない、躱す事の出来るレベルの仕返しだった。
しかし、永久にはそれを許さなかった。
火球で頭部を狙った。直後、彼女の頭部を、同じ熱量が焼いた。
岩槍で腹部を狙った。直後、彼女の腹部を、同じ速度と質量が貫いた。
氷鞭で両腕を狙った。直後、彼女の両腕を、同じ物が拘束した。
風刃で首筋を狙った。直後、彼女の首筋を、同じ威力で切り裂いた。
何もかもが鏡返しで、正確に返される。
何かの冗談の様な光景。
それでも猶、諦めない永久だが、最後の攻防に至っては撃ち合う事すらさせて貰えなかった。
先読み。
永久のしてくる事、狙う場所、順番。
それらを全て読み切った上で、先手を打って沈めてしまったのだ。
認めたくない程の、理不尽。
お前には何もできないのだと身体に刻み付ける暴虐である。
「さて、で、今更なんだが、一つ、いいかね?」
「……ああ、なんだ?」
先程までの圧倒的な魔力の奔流も、今はない。
血の海に沈んで、時折、ぴくりと痙攣するだけとなった永久から視線を切って、刹那へと顔を向ける。
「お前らは、何故、戦っていたのかね?
姉妹喧嘩か?
戦場でやるなよ。
他の人の迷惑になるだろう、常識で考えたまえよ」
「…………」
その程度の認識なのか、と本気の興味の無さと今更過ぎる質問に、久遠はどう答えたものかと悩む。
沈黙してしまった彼女を放って、思考を続けた刹那は一つの結論を出す。
「あっ、成程。閃いた。
あれだな? 亡命とか、そういう奴だな?
今の情勢であっちに亡命するとか、中々、エキサイティングな選択だね?
チャレンジャー永久と呼んでやろう」
味方同士で争う理由もない為、おそらく敵同士になったのだろう。
だが、内乱な訳ではないのに、何故、家族で敵となるのか、と考え、亡命という結論へと達する刹那。
「あー……うん。まぁ、そんな所だ」
久遠としても、正確な所はよく分からない。
何者かに唆されて、何かを吹き込まれたようなのだが、それが誰に何を、という肝心の部分が分からない。
本当に朝鮮側の誰かかもしれないし、もっと別の輩かもしれない。
現状では何とも言えない。
「疑問は解消された。
まぁ、俺は日本の味方でもないからな。
突っかかってこないなら、誰の味方をして戦争をしても、一向に構わんのだが……」
言葉を区切り、手指を持ち上げる様に動かす。
途端、大地が鳴動する。
地の底から何かがせり上がってくるような、そんな振動の直後、火山が噴火するように地面が裂けた。
噴き出した物は、溶岩ではなく、半透明な粘体。
〝ショゴス〟と永久が呼んでいた物である。
なにやらもがいているが、刹那の発する力場からは逃れられず、不気味に蠢いている様にしか見えない。
「製作者責任として、これは回収させて貰おう。
全く。こんな危険な物をよくも野放しにしてくれたものだ」
(……これがある時点で、誰が裏にいるか、答えを言っているような物だがな)
さて出てくるだろうか、と思考する。
ここで出てこられると、気分は半々である。
裏に隠れて捉えられない敵の尻尾を捕まえられるという意味で嬉しさ半分。
同時に、近くに美影がいる為、巻き込んでしまうかもしれないという不安半分。
一応、切り札の一枚や二枚は用意してある為、勝算は十分にある。
だが、美影を巻き込んでしまう可能性を考慮すれば、今は出てこないで欲しいという想いが強い。
とはいえ、ショゴスを見つけた以上、それを放置しておくという選択肢もない。
出所を探られると、雷裂の家名に傷が付く。
それは良くない。
恩を仇で返す行い褒められた事ではないのだ。
ショゴスを小さく圧縮しながら、どうなるか、と周囲を警戒していると、
「それはちと困るのぅ」
真白の一閃が、ショゴスを捕えていた刹那の力を切り裂いた。
穴が開いた事で、ショゴスは嬉々として脱出を果たす。
その行く先は、倒れ伏す永久の傍。
そこにいるのは、いつの間にか、忽然と現れた一人の女性。
オーロラの様な髪を持つ彼女の名は、
「ふっ、出てきたな。女怪サノバビッチめ……!」
「誰が女怪でサノバビッチか……!」
「だって、お前の名前なんざ記録に無いし」
なので、勝手に命名しておいた。
指名手配もその名前でされていて、世界的な正式名称となっている事を、彼女はまだ知らない。