最後の逃げ道
永劫に付き合える遊び相手がいるから、耐えられる。
一時の静けさ。
障壁を取り除いた事で生まれた静寂を打ち破ったのは、軽やかに身を翻した美影だった。
『ね、お兄。今更なんだけど、僕と一緒に宇宙の果てまで逃げない?』
とても今更な提案だった。
ひたすらに軽い口調はともかくとして、その目は全く笑っていない。
何処までも真剣なものであり、刹那の答え次第では即座に何もかもを投げ出してしまうだろう。
現在の美影を構成する要素は、三つ。
一つは、宇宙の意思。
これは、宇宙の存続を唯一の目的と定めており、それ以外については、はっきり言ってどうでもいい。
一つは、人類の救世主。
これは、人類種の守護・存続こそを目的としており、それさえ為されるのであれば、他の事については干渉されない。
そして、最後に美影自身の意思。
人として生を受け、魔王として過ごし、やがて愛を知り、神へと至った生物の到達点。
これも単純な思考回路をしている。
すなわち、愛しき義兄との生活だけだ。
それ以外は、正直に言って、興味の範疇外となる。幾らでも妥協も諦めも出来る事柄でしかない。
さて、この中で、どれが優先され、どれが後回しにされるかと言えば、非常に微妙な所となる。
その時々の状況次第でもあり、また観測している美影の捉え方次第な所もあるのだ。
翻って、今の状況である。
宇宙意思の観点で言えば、正直な所、かなりどうでも良い。
一部、法則改変などで注意が必要な場面はあるのだが、基本的には捕食者がエサを求めて争っているだけの、ごく普通の生存競争なのだ。
先程の明確に宇宙の破滅に繋がる例外を除けば、不干渉で終わりである。
人類の救世主としては、当然、座視している訳にはいかない。
間違いなく、人類という種の存亡の危機なのだ。
これを見過ごして、何が救世主なのか、という話である。
しかし、これは捉え方次第で、幾らかの解釈の余地もあるのだ。
理由は、最後の美影自身の意思とも関わってくる。
彼女自身は、刹那さえいるのならば、他は別に構わない。
あれば便利だし楽しいが、無いなら無いで全てに諦めが付く、という程度のもの。
そして、刹那と美影という二人が、人類のサンプルとして適切過ぎる組み合わせとなってしまう。
刹那は、人類がやがて到達する進化の終点を、ノエリアの手で未来から先取りした、仮定新人類である。
美影は、過去から連面と受け継がれてきた、人の進化の最果てに辿り着いた、人造新人類である。
つまり、この二人こそが人類の未来であり、二人が持つ遺伝子の中には、あらゆる人類の可能性が含まれているのだ。
なので、究極的には、この二人さえ無事であるならば、人類という種は、幾らでも新天地で再興が可能となってしまうのだ。
その一点を考慮すると、この場を見捨てて刹那と駆け落ちしてしまうという選択肢は、〝救世主〟としての行動として、一抹の合理性を有してしまう。
今を生きて信仰する人類にとっては不本意だろうが。
以上の理由から、今更ながらに、美影は先の提案を行っていた。
なにせ、このまま事態が進めば、愛する男が遠い時の彼方へと旅立ってしまうのだから。
永劫に近い命を受けた美影だが、感性はまだまだ人のもの。
そんな悠久を気楽に待てるほど、頑強な精神には至っていないのだ。
提案に、刹那は即答を返す。
「愚かな事だ。実に的外れな提案と言わざるを得ないぞ、愚妹よ」
『そうかな?』
「ああ、そうだとも」
あくまでも、安全で平穏な、幸福に爛れた生を送るだけならば、それでも良いだろう。
むしろ、それこそが最善の選択と言える。
だが、である。
だが、しかし、それでは刹那の〝憎悪〟は燃え尽きない。
いつまでもしつこく心の底にへばり付き、残り続けるだろう。
世界には、三つ子の魂百まで、という言葉がある。
様々な経験を経て、成長なのか退化なのか、よく分からない変質を遂げても、彼の精神性は、幼き日、復讐を誓ったあの時から本質的には変わっていないのだ。
だから、マイナスをゼロにする為に、誠実な心を込めて、外敵は滅ぼさねばならないのである。
『……そっか』
少しだけ、残念そうにしながら、しかし美影は刹那の選択を受け入れる。
彼女は、男を立てる事を知っているのだ。
愛する男の我が儘くらい、素直に受け入れる懐の広さはあるつもりである。
「すまないね」
『んーん、良ぃーよ』
辛くても、待っている事は出来る。
どうせ寿命も無いのだ。
いつまでだって待っているとも。
『すぐに解き放ってあげるから』
「はははっ、それでは封じてしまう甲斐も無いね!」
そう、簡単な話でも無いだろうが。
今の美影の力ならば、惑星一つを丸ごと用いた封印術ですら、そう遠くない内に容易く撃ち破れるようになるだろう。
そこに疑いはない。
但し、封じられている中身も纏めて、という注意書きが付随するが。
果たして、美影が中身を壊す事なく、封印の殻だけを破壊する繊細さを身に付けるには、どれ程の時間が必要となるのだろうか。
一年か、十年か、百年か、あるいはもっともっと遠い未来になるのか。
それは分からないが、それでも少なくない時間を要する事は間違いない。
それだけの時間を、一人にさせてしまう事に心が痛む。
それでも、刹那の選択は変わらない。
「さて……」
彼は、泣き出しそうに顔を歪める美影に背を向けて、封印剣【大海】を取り出す。
「そろそろ下がりたまえ。……仕上げの時間だ」
刹那の言葉に、美影は頷く。
『……うん、またね』
僅かな雷光を残し、美影が離脱する。
そして、美雲も封印剣【ユーラシア】を取り出して構える。
最後の封絶が、始まった。
実はこれ、復讐ものなんですよ?