即興曲
やや時は遡る。
「……いやはや、人使いの荒い連中でありますな~」
人知れず、黒い女が呟く。
黒い服を隙なく着込んだ、銀髪の女性。
目元には不健康なクマが色濃く浮かんでおり、見るからに怪しげで胡散臭い雰囲気を漂わせている。
《怪人》ナナシ。
彼女は、密命を帯びて、一人で行動していた。
今現在、ナナシは自らのスキルを大いに活用して、最も得意とする分野の任務を遂行している。
それは、単独での潜入工作任務である。
人を騙す事に特化した彼女は、基本的にそういう事が専門である。
本来、派手な戦略兵器として期待される魔王の中にあって、ナナシは非常に非力で特異な存在と言えた。
しかし、それで良い、と瑞穂の帝は言う。
一人くらい、そういう奴がいたって良いじゃないか、と。
何でも使いようだ。役に立たないものなどこの世には存在しない、と馬鹿みたいな事を豪語する連中の真似をしてみたくなったのだ。
だから、ナナシは戦闘スキルをあまり持たない代わりに、隠密能力と生存能力を徹底的に仕込まれてきた。
そして、そんな彼女が自らの本分を全うしていた。
ナナシは、現在、欧州が一国、フランス帝国の中心部にいる。
化け物たちがひしめく巷を、彼女は正面から堂々と歩いていた。
だというのに、誰も、何者も彼女に気付かない。
気付かせてくれない。
誰にも邪魔されないが為に、瑞米の誰よりも早くに欧州の奧深くにまで入り込めていた。
「さてさて、何処でありますかな」
彼女の任務は、一種の斬首作戦である。
確実な先手を打てる彼女は、魔王以外の存在を刈り取る技能に卓越していた。
ちなみに、歴戦の魔王たちは反応速度、認識速度まで異常なので、奇襲だけなら出来るのだが、命にまでは刃を届かせるのが難しい。
ナナシの狙いは、フランス皇帝……ではなく、欧州の切り札である、新しい魔王、マクシミリアンだ。
確かに彼は魔王の一人であるが、雫と同じように後衛に特化したタイプである。
その為、奇襲作戦は上手く行く可能性が充分にある、として作戦が立案されたのだ。
敵陣の真っ只中に潜入して、希望的観測のみを頼りに一人で要人を刺してこい、とは、随分と無茶な事を言ってくれると思わずにはいられない。
そうは思いつつも、しかし仕事は仕事なので、内心で愚痴を言いつつも、彼女はしっかりと潜入していた。
対象がいるであろう場所は、幾つかの候補がある。
残念ながら、何処で演奏するつもりなのか、特定する事は出来なかったのだ。
「つくづく行き当たりばったりでありますなぁ~」
出来なかったら出来なかったで何とかするから、とアバウトに宣言されているので、気分的には幾らか気楽なものである。
とはいえ、失敗しようものなら、誰に何と言われるか分かったものではない。
特に、ナナシと折り合いの悪い美影などは、絶対に煽り倒してくるに決まっている。
なので、そう悠長に構えてもいられなかった。
「…………ふむ、空気が変わったでありますな」
街中に充満する意識が、僅かに変化した事を敏感に感じ取る。
弛緩した空気が目減りし、緊張感や警戒心という感情が増大したのだ。
ナナシは、すかさず纏う幻術に微調整を加えて、意識の揺らぎに対応した。
そうしながら、何が原因でそうなったのかを考える。
「そういえば、そろそろ時間でありますか」
時計を確認してみれば、それが指し示している時刻は、瑞穂からの超特急列車の西欧到着時間を過ぎていた。
少しばかり遅れているが、おそらくはそれが原因だろう。
つまり、ナナシの任務のリミットも近付いているという訳である。
「とはいえ、見つからないものは見つからないでありますからなぁ~」
様々に隠蔽しているのか、全く見つからない。
候補地は全て見て回ったのだが、影も形もなかった。
それでは、流石にどうにも出来なかった。
一般的な魔王ならば、取り敢えず派手に暴れて炙り出してみる、という最終手段も取れようが、そのような派手な術を持たないナナシには不可能な選択肢であった。
そもそもを言えば、一般的な魔王では、ここまでこっそりと入り込む事は出来ない訳だが。
困った困った、と呟きながら、なんとなく重要そうな施設を巡っていると、ふと頭上を妙な影が横切っていく姿を目の端で捉えた。
「あれは……刹那殿でありますな」
あんな半透明で浮遊霊じみた存在など、そうあっては堪らない。
間違いなく刹那であった。
「こんな所で何をしているのでありますかな」
何も出来ない存在であるが故に、特に役割を与えられていない刹那である。
だから、彼が何処にいようと不思議ではないが、しかしわざわざ敵地のど真ん中に何の用があって来たのか、気になる所ではある。
「まぁ、どうせろくでもない事ではありますな」
敵と内通している、とは思わないが、何か得になるような事をしに来た訳でもないだろう。
どうせ、目的地の見当も付かないので、この際、あの害悪浮遊霊を付けてみようと、ナナシはその後を追い始めた。
結果として、だが、その選択は見事に幸運を引き寄せる事となる。
「…………何をしているのでありますかな、あの男は」
幾重もの幻術で覆い隠されており、そこにあると知っていなければ、ナナシにさえ気付かせなかった露天コンサートホールにて。
それを囲む壁の上から内部を見下ろしながら、彼女は呆れた声を出した。
眼下では、漫才の如きやり取りが行われている。
ボケる浮遊霊に対して、ツッコミという名の攻撃が加えられているのだが、問題はその浮遊霊には如何なる攻撃も通用してない。
結果としてボケとツッコミのバランスは成立せず、ボケがボケ倒すだけの失笑物の演目となっている。
ナナシは、おちょくられている欧州勢の面々に、同情を禁じ得なかった。
「まっ、それはそれとして、ラッキーでありますな」
同情もそこそこに、こそこそとホールの中へと入り込んだ彼女は、舞台上で演奏の準備を行っている少年へと近付いていく。
年の頃、十代前半。
幻属性らしい銀色の髪を短く整えている、華奢で可愛らしいと評すべき少年だ。
サイズを合わせているのだろうが、それでもタキシードの服に若干着られているという印象を抱かせる姿をしている。
眼鏡をかけた奥の瞳には、やや緊張の色が浮かんでいる事を、ナナシは見て取った。
(……それもそうでありますなぁ。
この年頃で、国の命運を託されるのは重荷でありましょう)
うんうん、と納得するように頷く彼女の脳裏には、自分と何処までも相性の悪い黒き雷の娘の顔が過った。
あれが《六天魔軍》に任じられたのは、目の前の彼と同じ年頃だった。
だというのに、気負いや重圧を一切感じさせず、どんな時でも飄々とマイペースを保ち続けるアホである。
ナナシが初めて顔を合わせた頃から、あれはああだった。
だからこそ、今に対して嫌な気分になる。
いつも変わらなかった美影が、今、大変な変心をしていた。
それが怖い。
良い方向に転がるのであれば構わないのだが、悪い方向に転がってしまうのではないかと、どうしても思わずにはいられない。
故に、しっかりと仕事を果たそうと思う。
ちらり、と視線を他所に向ければ、今もまだ浮遊霊がおちょくっている最中である。
そうしている為に、演奏が始められずにいる。
「もう少し、時間があるようでありますな」
幻魔力を発動させて、うっすらとマクシミリアンへと浸透させる。
薄く、淡く、静かに、慎重に、気付かれないように、ゆっくりと時間をかけて。
「……それにしても、刹那殿のファインプレイは意図したものなのでありますかね」
フランス皇帝を始め、周囲の者たちをこれでもかと苛立たせている浮遊霊――刹那を横目に見ながら、ナナシはそんな疑問を呟いた。
その答えは、何も考えていない、以外に存在しない。
~~~~~~~~~~
「はぁ、はぁ、逃げられたか……」
ようやくの事でいなくなった謎の浮遊霊に、散々に時間を取られてしまった。
地味に痛いタイムロスである。
報告を聞けば、瑞米二ヶ国の進撃はかなり進んでおり、この西欧の地にまで入り込む寸前までやってきているようだった。
本当だったらもう少し早く手を打つ筈だったのだが、浮遊霊の所為でなんとなく後手に回ってしまった。
あれが本当に瑞穂からの刺客なのだとすれば、しっかりとこちらに損害を与えてくれたものである。
「……まぁ良い」
短く深呼吸をして、皇帝は意識を切り替える。
後手には回ったが、致命傷には程遠い。
今からでも巻き返しは充分に可能だ。
むしろ、深く入り込んでいる分、しっかりと退路を断ち切って、確実に殲滅できるタイミングだとも言える。
前向きにそう考える事にした彼は、命令を下す。
「マクシミリアン、《単身楽団》よ。
演奏を始めてくれ。
世界を変える、最高の名曲を紡ぎだせ」
「はい」
舞台上で準備を整えていた彼は、命令に一礼を返して、鍵盤へと振り返る。
「…………」
その時、彼の瞳の奥に、少しばかり奇妙な意思を感じた。
何とも言いにくいものだが、僅かに色合いが異なっていたように思えたのだ。
だが、その違和感を皇帝は見なかった事にした。
まだ経験の浅い少年らしい、緊張などに由来する意識の揺らぎが出たのだろう。
そのように考えて、軽く見たのである。
結果として、それは良い方向に繋がった。
あくまでも、結果としてであり、今現在の皇帝にとっては予期しなかった、不測の事態であるが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪♪♪♪!!!!
大音響のフルオーケストラが奏でられる。
「っ!? 違う!」
その第一音を聞いた瞬間、皇帝は跳ねるように立ち上がっていた。
それが、予定していた楽曲ではなかったからだ。
本来は、【聖戦謳歌】という曲だった筈である。
神への信仰を掲げ、死を厭わぬ戦士たちへと捧げる勇壮な楽曲。
そして、その裏側には、神へと反旗を翻す愚者を嘲笑うメロディを内包しており、味方への鼓舞と、敵の意思を挫く、二つの目標を同時に叶える物であった、筈だ。
しかし、これはそうではない。
何処か戦いの重々しさがあるそれとは違い、とても軽快で、朝の爽快さを思わせる様なものだった。
「止めっ……!?」
何の曲かは分からない。
しかし、止めなければならないと、反射的に言葉を叫んでいた。
だが、その命令を飛ばす寸前、自らの首に冷たい感触を覚えた。
「おっと、それは困るでありますよ」
囁かれる女性の声。
冷たく、あまり感情を感じさせない平坦なそれに、僅かに振り返れば、見覚えのある顔が間近にあった。
「貴様、《六天魔軍》の……!」
「はい。直接、顔を合わせるのは初めてでありますなぁ、皇帝陛下?」
ナナシという敵の魔王。
その登場に気付いた警備や護衛の者たちが、即座に臨戦態勢を取る。
その中で、彼女もまた、皇帝の首に刃を押し付けながら、距離を取った。
「ふはははっ、皇帝の命が惜しくば投降するのであります!」
容赦なく人質であった。
「……貴様、魔王としてのプライドはないのか!?」
「プライドだけでは戦には勝てないものでありますからなぁ」
恥などという物は、教育されていく過程で取りこぼしてしまった。
なので、ナナシにそんな事を言っても無駄である。
全く迷う素振りもなく、平然とそう宣う彼女に、警備たちはそれ以上の説得をしなかった。
「撃てッ!」
「おぉ!?」
皇帝に当たる事も厭わず、彼らは本気で攻撃を放ったのだ。
これには、流石のナナシも驚く。
自分の身だけはしっかりと守って逃げながら、彼女は腕に抱いた、穴だらけとなっている皇帝に向かって言う。
「陛下は、随分と人望がないのでありますな」
「そう、見えるかい?」
ゴホッ、と見るからに致命傷を負った皇帝が、咳き込む。
血の塊が吐き出され、ついでに太い触手が生えた。
「……ん?」
首を傾げる間にも、人体の構造を無視した皇帝の首が、真後ろへと振り返った。
『死ネ』
ゼロ距離からナナシへと触手が突き立てられ、彼女の姿が幻の様に霞んで消えた。
やや距離を取って再生された彼女は、乾いたような笑いを浮かべていた。
「ハハハ、影武者とは卑怯でありますなぁ~」
皇帝の皮を被った怪物は、その皮を突き破って、無数の触手を生やした化け物へと変じつつある。
それが身をたわめた一瞬の後、ナナシへと肉薄していた。
「ほっ、これは驚いたであります」
触手の群れを無防備に受け止めながら、全てを夢幻へと変じて受け流して、彼女は心から驚いたように言う。
魔力を纏っていないにもかかわらず、明らかにその身体能力は魔王にも匹敵していたのだ。
外にいる他の有象無象とは桁違いの性能である。
皇帝を守る最後の砦という事で、きっと特別製なのだろう。
ナナシが軽く斬り付けてみるが、表皮に刃が弾かれ、触手はビクともしない。
本気で攻撃すれば違うかもしれないが、まともにやっては相手にならなさそうであった。
「さて、困りましたな」
姿を隠して移動した彼女は、マクシミリアンのすぐ近くに出現して訊ねる。
「時間、かかりそうでありますかな?」
「……当然だろ」
額から汗を流しながら、懸命に演奏する彼は、憮然とした様子で言葉を返した。
楽曲【呪縛からの解放】。
精神に課せられたあらゆる軛から聞く者を解放する、即興曲だ。
即興であるが故に、一音一音の効果は薄く、しっかりと効果が表れるまでには非常に時間がかかる。
そうと言うと、ナナシは肩を竦めた。
「では、仕方ないでありますな。
それまでは、自分が守ってあげましょう」
「ふん。礼は言わないからな」
「躾のなっていないガキでありますなぁ」
演奏を止めようと、皇帝だった化け物や警備の者たちが、次々に殺到してくる。
それを適度にいなして、幻の道に迷わせながら、ナナシは時間稼ぎに徹するのであった。
ずっと戦闘続きなのに、五章がもう文庫換算で150ページに至っているという恐怖。
おっかしいなぁ。
今度こそ短く済ませる筈でしたのに。