死力の氷
イギリスとは、島国である。
その関係上、国土の多くは海洋に近い。
だから、アレンは、来るのならば《水瓶座》の魔王だと思っていた。
彼女ならば、海に沈んだままでこちらを攻撃できる。
得意の酸霧といえど、海中まではその影響力を保てない以上、それはとても有効な作戦と思われた。
故に、注意していた方向とは全くの真逆、遥か上空からの襲撃に、彼は少なくない驚愕を抱き、僅かばかり反応が遅れた。
頭上で、唐突に膨れ上がる強大な魔力反応。
明らかに、Sランクのものだった。
今の状況や、急速な魔力の動きからして、確実に〝魔王〟として認められた者だろう。
酸霧を引き裂いて、巨大な氷塊が降ってくる。
「おお……! なんと素晴らしい!」
精緻に施された芸術的装飾に、アレンはつい感嘆の声を漏らしてしまう。
それ故に、元々、後手に回っていた反応が更に遅れる。
氷塊の速度は然程速くはない。
確認してからでも、充分に回避可能なものだった。
だというのに、彼は躱し損ねてしまう。
「ぐおおおおぉぉぉぉぉ……!?」
我に返った時には既に遅く、思いっきり潰されてしまった。
それから少しして。
大地に直立した氷の芸術から、少しばかり離れた位置に、一人の少女が降り立った。
《蟹座》リネット・アーカートである。
酸霧を凍らせ、砕きながら降りた彼女は、一種、神々しくあった。
砕けた微細な氷片が光を乱反射し、ダイヤモンドダストの様な美しい輝きを周囲に纏っていたからだ。
「まさか、この程度で終わりという訳ではありませんわね?」
「勿論であるな」
周囲の酸霧が消えていない以上、アレンの無事は既に証明されている。
そして、それが正しい事を示すように、氷塊に無数の斬線が走った。
綺麗にカットされた氷塊は、幾つかの塊に分断され、重力に従って滑り落ちていく。
崩れ落ちた氷塊の一つに、高い足音を立てながら、一人の男性が姿を現す。
燕尾服に山高帽という、如何にも紳士ですと言わんばかりの姿には、傷の一つも見受けられなかった。
「ふむ。お初にお目にかかるのであるな、レディ。
吾輩の名は、アレン・ウィンザー。
欧州連合の守り手、《ナイト・オブ・ラウンズ》に属する魔王が一柱である」
「ご丁寧にどうも有難う御座います。
私は、リネット・アーカートですわ。
《ゾディアック》が一席、《蟹座》を任されておりますわ」
アレンの名はよく知っているが、丁寧に名乗られたので、リネットもまたにこやかに名を告げた。
「ほぅ、《蟹座》と。
あれは、確か空席だったと思うのであるが」
「つい十三時間前に拝命いたしましたわ」
「成程。隠し札ではなく、新人であるな。
その様な小さきレディで、私に勝てると合衆国は判断したのであるか」
舐められたものだ、という怒りにも似た思いが湧き上がると同時に、それ程の才覚者かという警戒も同時に持つ。
極東で生まれた雷の子が、まさにそうだ。
先達の魔王たちをごぼう抜きにして、今や最強の魔王と呼ばれる北の災禍と比べられるほどにまで至っている。
僅か十五の娘が、である。
目の前のリネットも、そうした者なのだろうか、と。
「中々に無茶な注文をされたものですわ。
私も困っているんですの」
「では、降伏しては如何であるかな?
なに、我らも悪魔ではないのである。
降伏した者の命までは取らぬと約束しよう」
戦えば、十中八九勝てると思われる。
だが、相手は仮にも魔王である。
負けてしまう可能性や、勝ちきれない可能性は、僅かばかりとはいえ、絶対に拭いきれない。
それを考慮すれば、言葉で降せるのならば、それに越した事はない。
「降伏? 降伏ですの?
どちらのすべき事とお思いで?」
「君に決まっているのであるな。
どちらが強いかなど、比べるまでもないのであるな」
「そうですわね。私が勝つに決まっていますもの。
言葉で惑わすくらいしか、貴方様には出来ませんものね」
「ハハハ、安い挑発であるな。
……若者の無鉄砲は好ましくあるが、躾も必要であるかな?」
「オホホ、出来るものならやって御覧なさいな」
互いの戦意が高まる。
売り言葉に買い言葉での応酬によって、もはや言葉で収まらない領域にまで、両者の神経を逆撫でしていた。
周辺に水気が充満していき、気温が極度に下がっていく。
不意に。
アレンがステッキの先端を空に掲げた。
「ッ! 氷結形成ッ!」
瞬間、リネットも稼働する。
彼女の頭上に、大きく広がった華が形成される。
幾枚もの薄い氷の板を重ね合わせた、多重構造の盾である。
それが、次の瞬間には砕かれる。
「雨に濡れるを良しとしないとは。
水も滴る良い女という言葉を知らないらしいな」
「穴だらけにされたくありませんもの。
それに、水がなくとも私は良い女ですわ」
雨粒に硬度と速度を持たせた、無数の弾丸である。
アレンという魔王は、酸性の濃霧が最も有名であるが、こうした姿なき暗殺者としての側面も持っている。
知っていなければ、この一手で即座に殺されていただろう。
リネットは、背筋に冷や汗を流しながらも、それを表に出さないまま、反撃を開始する。
「氷結形成、氷鳥――」
氷で出来た鳥の群れが、アレンへと襲い掛かる。
久遠のそれと違い、生物の形を模しているだけで、全てリネットによる遠隔操作だ。
そうであるが故に、動きがとても単調となる。
「数は多い……が、練度が足りていないのであるな」
真っ直ぐに向かうばかりの単純な攻撃を、アレンは雨弾で一つ残さず撃ち落とす。
次いで、魔力を拡散する。
彼の魔力を浴びた周囲の水気は、たちまち彼の味方となった。
「数で攻めるのならば、せめて多方向より攻めるべきであるな」
リネットを囲む様に、全周囲から、近い所から遠い所まで、あちこちから発生した水の鞭が彼女を襲う。
彼女の魔力圏内に入れば、尋常ならざる冷気に襲われるが、アレンの魔力を受けた水鞭は、僅かに動きを鈍らせるだけで止まる事はない。
氷の壁を作って防ぐが、驚くほどの威力に目に見えて削られていく。
おそらく、数秒と持たないだろう。
欧州全域に霧を巡らせて猶、これ程の魔力を有り余らせている彼に、リネットは内心で舌打ちをする。
(……元世界記録保持者は、伊達ではありませんわね!)
保有する魔力量が、桁違いである。
文字通りに。
下手な小技ばかりでは、こちらが消耗するばかりと判断したリネットは、氷壁を解除し、全力で次なる一撃に魔力を注ぐ。
水鞭が、彼女を捉える。
リネットの五体を拘束し、強かに打ち付けていく。
衣服が爆ぜ、皮膚が裂け、肉が千切れ飛ぶ。
一瞬にして血塗れの満身創痍となる。
それでも、彼女は命を繋ぎ、集中を途絶えさせなかった。
「凍界構築――」
リネットの全身から、魔力が爆発する。
凝縮させた魔力の塊は、放出された瞬間から、絶対零度に限りなく近い冷気となって周囲を凍てつかせた。
「なんと……!」
アレンは、大きく後退する。
凍り付き、停止していく世界から逃れた彼は、その中心にいる少女を見る。
全身に傷を負いながらも、しかし些かも戦意を失っていない、魔王と呼ぶに足る姿をしている。
「成程。少々、見くびり過ぎていたであるな」
魔力量の差は圧倒的である。
経験値でも、アレンの方が勝っている。
リネットの勝率は、ほとんど無いに等しい。
だが、それを覆すほどの執念を感じた。
傷を恐れない。
苦痛を恐れない。
死さえも、彼女は覚悟している。
「……片手間では、火傷をしてしまうのであるな」
全力でぶつかってきている。
命を賭して。
魔王と呼ばれる程の者が。
それが、どれ程の脅威なのか。
長くその地位にいるアレンには、よく分かる。
身震いするほどに知っている。
凍てつきは、速度こそ緩めたが、それでも未だ拡大の一途を辿っている。
リネットが魔力の放出を止めていない所為だ。
既に、この都市は死んだも同然であった。
何処までも広がっていく凍結結界は、生中な防壁では、魔王の身でも凍り付いてしまう。
その証拠に、彼女に差し向けていた水鞭の全てが凍り、儚く砕かれていた。
あれも、それなりに魔力を込めていた術だというのに、全く抵抗できていない。
「貴方様の方が強い。
認めましょう。
ですが……」
全身の傷を氷で包んで止血しながら、リネットが腕を振る。
それに合わせるように、巨大な氷竜が形作られた。
実に美しく、実に禍々しい、彼女の覚悟を表す様な巨竜である。
「勝つのは、私ですわ」
彼女が合図すれば、それは地響きを立てて、凍った都市を踏み潰しながら、アレンに向かって突進する。
雨弾を降り注がせるが、まるで効果はない。
むしろ、凍り付いた水分を取り込み、更なる巨大化を果たしている。
「良かろう。相手をしてやるのである」
アレンがステッキを振るう。
すると、無数の激流が出現し、氷竜を正面から強力に打ち付けた。
凍り付きは……しなかった。
代わりに、周囲に爆発的に蒸気が広がる。
熱湯。
水属性に許された熱量操作によって、リネットの冷気を真正面から受け止める。
単純な熱では、彼女の方に分があるが、アレンの莫大を誇る魔力量がその差を埋めていた。
氷竜が暴れ回る。
熱湯の激流を凍てつかせ、千切り取り、前へ前へと足を動かす。
しかし、次々と新たな激流が追加され、凍り付いた水分は溶け消え、千切れた流れは復元され、巨体は押し戻される。
「操り手が、無防備であるな」
アレンが、激流の一本を、巨竜を飛び越えてリネットへと向かわせる。
それは、凍結結界に囚われ、徐々に質量を剥ぎ取られるが、それでも勢いは衰えない。
細く尖った水槍となって、彼女に襲い掛かった。
「同じ言葉を返して差し上げますわ」
リネットは、僅かばかりの魔力を回して氷壁を造りながら、不敵に笑って見せる。
「ぬっ!?」
アレンの足元が、罅割れた。
間欠泉の様に噴き出した飛沫が、瞬く間に凍り付き、槍衾となって彼を襲う。
「ぬぅおおおおっ!」
彼は、それをステッキで割り砕き、時に回避し、時に支配権を奪って、必死にやり過ごす。
しかし、それでも無傷とはいかなかった。
弾き飛ばされた氷弾が肩口を掠り、赤い飛沫が噴き出す。
一方で、リネットも無事ではない。
急ごしらえの氷壁では防ぎきれず、僅かに軌道をずらす事だけで精一杯だったのだ。
水槍は彼女の腹部に直撃し、貫通してしまう。
「くふっ!」
傷口は元より、口からも血の塊を吐き出すリネット。
それでも、まだまだ、と彼女は立ち続ける。
水と氷の戦いは、周囲の温度に反比例するように過熱していく。
そして。
いつの間にか、〝霧〟は消えていた。