不正の代償
今回は短し。
遥かなる大宇宙。
全き真空と極寒の冷気。
多種多様な有害物質が行き交うそこは、生命を拒絶した世界。
科学が発展し、魔術を会得した現人類であってさえ、いまだ容易ならざるフロンティアである。
そんな場所を、無様に藻掻いている人影があった。
「う、宇宙空間って動くの難しいですぅ~」
永久である。
無重力で大気もない世界は、彼女にとって初体験であった。
真空に冷気、各種宇宙線など、まともな人体であれば一撃死するであろうその辺りは、ショゴスと同化した彼女にとっては大した事ではない。
たまに小さなデブリもぶち当たるが、美味しく取り込んで自らの糧に出来ている。
ミスって身体が弾ける事もあるが、些細な事だ。
問題は、何一つとして自然停止する要素が無い事だ。
地に足を付いている訳ではない。
空気の壁がある訳でもない。
全き虚空。
加速すれば加速しただけ、何処までも進んでしまうという状態に、永久は四苦八苦していた。
「むむっ……。
ほっ! ふぉぉぉ!?
行き過ぎぃぃぃぃ!」
適当な魔術を放って推進力を得た永久だが、加減を間違えて軌道がズレてしまう。
遥か遠くに、三重連月輪の一つ、《天弓の小月》が見える。
このままの位置では、触れも出来ず通り過ぎてしまう。
なので、反対に逆噴射をかけるのだが、
「あっ、ちょっと弱いですよー!」
程好い所を狙って手加減したら、手加減し過ぎてほとんど意味がなかった。
ほんのりと勢いは弱まったが、いまだ軌道を外れる方向に移動している。
その後も試行錯誤を繰り返すものの、いまいち良い塩梅とならない。
「こ、こうなれば最終手段です……!」
永久は人の姿から、ゲル状に変化する。
そのまま、薄く薄く、広く広く、何処までも自身の身を広げていく。
空属性によって収納していた莫大な質量も放出し、より広範をカバーした。
「何処か一点でも触れられれば……!
引き寄せられます!」
触れられさえすれば、そこを起点に自身を伸縮すれば良い。
なんなら、その一点だけを切り離して《アルテミス》に置いて、残りは宇宙の塵として廃棄しても良い。
体積は限りなく減ってしまうが、そんな物は適当な何かを食べて補充すれば良いのだ。
大した問題ではない。
(……随分と人間離れしましたねー)
なんとなく慣れてしまっているが、人外である事に慣れている現状はどうなのか、とふと考えてしまった。
嗜み程度にはフィクションと言うものを楽しむ事もある永久である。
物語の登場人物たちは、〝人間〟である事に拘ろうとするエピソードはよく見る展開だ。
人間として生きて、人間として死にたい、とかなんとか。
現状の自分は、果たして人間と言えるのか。
考えるまでもなく否である。
人間は自由自在に姿を変える事は出来ないし、頭や心臓を潰せば死んでしまう弱き生き物だ。
炎熱で焼く以外に、ろくに弱点の無いショゴスの身は、人間からは程遠いだろう。
この状態を、自分は思い悩むべきなのだろうか、と、とてもどうでも良い事が頭に思い浮かんだ。
(……まぁ、別に良いんじゃないですかね)
永久は、秒で結論を出した。
ああいうのは、人の世に拒絶されるからこそ、人である事に拘るのだ。
翻って、永久は別に拒絶されていない。
虐げられるような事にもなっていない。
姉には受け入れられているし、周囲もそれはそれとしてと大雑把に割り切っている。
ひとえに、偉大で変態な先人たちのおかげだ。
歴代の魔王たちや、変態製造機である雷裂家など、様々な変人たちが人の世の常識を打ち崩してきてくれた。
そうであるが故に、ただ身体が変なだけでは、よくある事と平気で受け入れられてしまう。
有難い事である。
うにうに、と蠢いて少しずつ微調整を繰り返していく。
ようやくコツを掴めたのか。
その動きは徐々にスムーズになりつつある。
《アルテミス》へと到達する軌道に乗りながら、彼女は広げた身体を僅かずつ縮めていた。
廃棄しても良いとはいえ、あるに越した事はないのだ。
「美影様は……先に行かれましたか」
遠くに見える《アルテミス》に、黒い線が走っていく様が見えた。
一瞬の事で詳細は分からなかったが、今の状況から考えて、その正体は美影だろう。
他に思い当たる者などいない。
姉妹喧嘩をしていたというのに、既に終わらせて先に行かれた、というのはちょっと自身の劣等感を煽られる。
だが、永久はすぐに思考を切り替えた。
「比べるだけ、無為ですね」
あんな規格外生物と一緒にされては、困る。とても困る。
人外だからって、出来る事と出来ない事があるのだ。
同じレベルを求められても、無理なものは無理なのである。
自分は自分のペースで行こう、と決意を固めた。
永久は、ゆっくりと《アルテミス》が近付いてくる様を待つ。
小月と銘打たれているが、それでも巨大だ。
大陸など目ではない。
「…………」
あまりの巨大さゆえに、実感が伴わなかったが、その速度は非常に速い。
地球の軌道を約一日で周回しているのだから、当然の話だ。
正式な入り口ではなく、また演算制御された正しい軌道でもない。
このままでは、巨大な質量に高速で激突する。
車に撥ねられる、とはレベルが違う。
導き出されるその衝撃たるや、巨大隕石との衝突に等しい。
文字通りに。
「あ、あっ、ちょっ、ちょっとタンマ……」
今更のように危機に気付いた永久は、わちゃわちゃと焦り始める。
しかし、まだ慣れ始めたばかりの宇宙空間での軌道では、正しい対処など取れよう筈もない。
「あっ……」
視界一杯に、白い壁が広がる。
単なる柔らかい大地ではない。
要塞としての第一歩として、表面は純白の分厚い装甲に覆われている。
中身はほとんど入っていないが、見た目から入りたがる刹那の所為だが、おかげで今まさに弾け飛んでしまいそうだ。
そして。
永久は、月面の小さな染みとなって潰れたのだった。