枯れ落ちる芽
本日二話目。
珍しい連休だから出来る暴挙ですよ。
コツコツ、と苛立たし気に机を小突く音が静かに響く。
美雲だ。
彼女は、一度は捕まえた妹の影を、再び捕まえ損ねた事を受けて、眉間に皴を寄せて厳しい表情をしていた。
「……苛立っているな」
そんな美雲に、苦笑交じりの声がかけられる。
「久遠……」
絞り出された声にも、苛立ちが大いに混じっている。
普段は、あまり感情を表に出さないというか、そもそも強い感情を抱かない性格をしているが、流石に今回はそうもいかないらしい。
自慢の妹が、反社会勢力として蠢動しているのだ。
その道の先輩として、久遠には気持ちは痛いほどに分かるという物だ。
「言っても仕方ないが、焦らずにやったらどうだ?
ほら、甘いものでも飲んで」
「……ありがと。ココアは時期外れだけど」
夏の真っただ中に、湯気の立っているココアは、確かに時期外れとも言えるだろう。
とはいえ、冷房の良く効いた部屋の中にいれば、環境に合った飲み物である。
冷え過ぎた身体に沁み込む熱は、とろける様な甘みと合わせて、強張った心を解すのに丁度良い。
「まぁ、そう言うな。
美味しいだろ?」
「そうだけど」
ちびちびと口に含んで飲み下していけば、美雲の険しかった表情も、ほんの少しずつ緩み始める。
珍しく友人が放つ刺々しかった雰囲気が柔らかくなったところで、久遠は苦笑と共に話題を元の場所に戻す。
「相手は、美雲自慢の妹、瑞穂と雷裂の宝である美影嬢ではないか。
先手を打たれる事もあるだろうし、こちらを騙してくる事も容易だと、そう考えた方が気が楽だぞ?」
「それは分かるんだけどね。
やっぱり、あの子が道を外れたままでいる事がどうにも我慢できないのよ。
……はぁ、どうして今回に限って、こんなに意固地なのかしら」
良識も常識も知っている妹だ。
それをどれだけ順守するかはともかくとして、ちゃんと理解している。
だから、悪い事をすれば、ちゃんとごめんなさいと素直に言う事の出来る人格をしている……筈だった。
これまでは。
だというのに、今回は、何故か逃げてばかりいる。
責任を取る事もなく、何らかの釈明をするでもなく、やらかした事を放置している。
とても、彼女らしくない行動だ。
「やっぱり、誰かが糸を引いている……という事なのかしら」
「かもしれないな」
久遠の他人事の様な余裕たっぷりの言葉に、美雲はじっとりとした視線を向ける。
「……あなたは随分と呑気なものね。
また自分の妹が惑わされているというのに」
どういう関係なのか分からないが、美影に永久が同行しているのだ。
あるいは、またもノエリアが諸悪の根源なのかもしれないが、無力化されているあの化け猫が現在の二人に対して何かを出来るとも思えない。
「ははっ、これは痛い事を。
とはいえ、私はもう二回目だからな」
若干、彼女は遠い目をしながら、諦観の言葉を口にする。
「慣れた、というものだろうか。
焦った所でどうにもならないと理解したのだ」
「負け犬の発想ね」
「本当に耳にも心にも痛過ぎるな」
笑って友人の暴言を聞き流す久遠。
己も、一カ月前くらいまで似た様な心境で、常に苛立ちと焦燥に駆られていた。
その時は、無我夢中に修行に没頭したり、適当に暴れる事でストレスを発散していたものだ。
美雲の場合、ほぼ完成されているので修行など必要ないし、彼女に思うままに暴れられると本当にシャレにならない。
なので、八つ当たりの暴言くらいは受けてやろうと思うのだ。
それが、彼から受けた恩返しという物だ。
(……ん? 〝彼〟?)
はて、彼とは誰の事だろうか。
ふと脳裏に過った言葉に、久遠は内心で首を傾げる。
引っかかった言葉を追っていると、溜息の音が耳を叩いた。
「…………はぁ。嫌になるわ。
こんなに心がささくれ立つなんて。
私らしくない」
「確かにな。
美雲らしさ、というものからは外れている。
私としては、友の人間らしさというものを見れて喜ばしいのだがな」
「……人が苦労してるっていうのに」
「ははっ、不謹慎だったな。
謝罪しよう」
「別に良いわ。
そんな事よりも、私たちの妹の事を考えるべきよ」
友との語らいをしている内に、脳の淵から零れ落ちてしまう。
思考が喫緊の問題へと向いた事で、抱いた疑念は記憶の狭間へと消えてしまった。
「そうではあるがな。
私は、美影嬢の事を詳しくは知らない。
なので、どういうつもりで行動しているのかなど、想像の範疇にないぞ」
喋った事もほぼなく、故にどういう価値基準で行動するのか、全く分からない。
それは、実の姉である美雲の方がよく知る所だろう。
だが、その彼女の予想を大きく外れているのが現状だ。
だからこそ、美影の精神汚染を疑われているのだが。
「永久ちゃんの方なら分かるでしょう?
そっちの子は、何でうちの子に付いているのかしら」
「さてな。
あいつはどうにも流され易い性質だからな。
大方、餌でもぶら下げられて、軽く釣り上げられているのではないか?」
「……随分と余裕じゃない」
罪人側に付いている、という意味では、先日までと何ら変わらない構図であるというのに、久遠からは当時の様な焦りを感じられない。
何とかなるという楽観さえ、彼女からは感じられる。
久遠は、自身のカップを傾け、少しばかり温くなった甘味を飲みながら、内心を語る。
「そうだな。
美雲の指摘通り、今の私は焦っていない。
……何故だろうな。
自分でも不思議なんだ。
今の永久なら大丈夫だと、私は根拠もなく信じられるんだ」
本当に何の根拠もない。
ただ、当時とは違い、今の永久ならば、正しい選択が出来ると何故だか断言できる。
この場合の〝正しい〟とは、決して法や道徳、倫理に反さないとか、そういう意味ではない。
決断は、常に己の為に己のベストであれ。
何処で染みついた価値観なのか、久遠の心の奥底にはそうした言葉が根付いている。
今の永久であれば、正しく〝決断〟できると思えるのだ。
「羨ましい限りだわ」
「お前はそうは思えないのか?」
己の妹を信じきれないのか、という問いに、美雲は吐息する。
「前までなら、信じられたわ。
今の美影ちゃんは信じられないけど」
「そうか、そうだろうな」
自身の思っていた妹像と、まるで違う行動を取っているのだから、そう言ってしまう気持ちも久遠にはよく分かる。
「では、改めて見つめ直していくしかないだろう」
「悠長な事を……。
と、言いたいけど、それしか出来ないのよね」
今度こそ取り逃がさないと目を光らせていたのに、あっさりと潜り抜けられてしまったのだ。
力尽くで捕らえられないならば、思考を読んで先回りをしていく外にない。
「差し当たっては、残されていたメッセージの解読でもしていこうじゃないか。
どうだ? 何か思い当たる事はあるか?」
太平洋の海底に建設されていた秘密工場。
そこに、新型の美雲専用の巨大デバイスと共に残されていた、美影からのメッセージ。
宛てられた張本人である美雲ならば、何か分かるのではないか、と正式な形での依頼さえ回ってきている案件だ。
「『目に見えている物だけが真実ではない』、か……。
まるで、化かされているのは私たちの方だと言わんばかりだな?」
「……一応、検査はしたけど、私も含めて誰の精神にも汚染の痕跡はなかったわ」
精神に関して無駄に造詣の深い母や、《六天魔軍》の一人であるナナシにも協力してもらって、徹底的に精密検査をしたのだ。
これで感知できないようでは、もはやどうにもできる物ではない。
狂人は自らを狂っているとは思っていない、とはよく言われる。
美影はきっと自分が操られている事に気付けていないのだと、そう言って戯言だと切って捨ててしまう事はとても簡単だ。
だが、どうにも引っかかる。
そうではない、と、美雲の勘が囁いていた。
「……あの子が嫌いな言葉があるわ」
ぼそりと呟く。
「ほぅ? どんな言葉だ?」
久遠の合いの手に、美雲は答える。
「〝以心伝心〟よ。
行間を読んで勝手に解釈する、というのが美影ちゃんは大嫌いなのよ。
出来るかどうかはともかくとして」
言い換えれば、信じるという行為が嫌いなのだ。
信じるとは、はっきりと分からない事をこうであると勝手に決めつける行為である。
勝手に人を決めつけ、勝手に人に期待して、勝手に人に失望する。
そういう事を、するのもされるのも極端に嫌っている。
だから、正直、このメッセージには違和感がある。
察しろ、と言わんばかりの曖昧な言葉。
いつもの美影ならば、そんな事は絶対にしないだろう行動である。
「では、そこに何らかの意図がある、という事か。
……私にはさっぱり分からんが」
「あっさりと投げ出さないでよ、もう」
友人と話している内に、少しばかり余裕が出来たのか、可愛らしく頬を膨らませて見せる美雲。
「……多分ね。
違和感を持たせるのが目的なのよ、これは。
はっきり告げても意味がない。
だから、こっちに思考を巡らせて、現実の違和を探し出せ、って事」
「自分で気づけ、とは、スパルタな妹君だな」
「あの子らしいと言えばあの子らしいわ」
少なくとも、逃げ回っている現状の行動よりは、美雲の抱く妹像に近いメッセージである。
問題は、何に気付けというのか、まるで分からない事だ。
これは、自分たちなら気付けると期待されているのか、それとも逆に全く期待されていないのか。
(……後者なんでしょうね、きっと)
天才である美影は、他人に頼らない。
自分だけで完結して、自分だけで生きていける。
そういう奇跡の生物だ。
だから、他人に期待なんてしない。
そんな事をするくらいなら、自分で行動した方が早いから。
「…………いえ、違う」
そこに、美雲は違和感を覚えた。
ならば、何故、今の彼女は永久を連れているのか。
確かに、先日の一件以降、永久は魔王クラスと称するに足るだけの実力を身に付けているが、それならば他にも幾らでも候補はいる。
自分だってそうだ。
特定状況においては、下手な魔王よりも役に立つ自信はあるし、丁寧に事情の説明をされれば、協力を惜しまない度量だってあるつもりだ。
なのに、自分を頼ってこない。
それだけならば、理解はできる。
彼女は、自分だけで完結した天才だから。
だが、永久には頼っている。
協力を仰いでいる。
脅しか甘言かは分からないが、手を必要としている。
美雲の知る美影の行動基準と、あまりにも食い違っている。
(……変わった? あの子が?
いつ? どこで? どんな理由で?)
彼女の知る妹は、どんな苦境であろうと、絶対に誰の手も借りようとはしなかった筈だ。
世界の全てが敵であろうと、彼女はそれを気にも留めなかった筈だ。
何故ならば、彼女にとって世界と自分は見ている物が違うから。
あまりにも次元が違い過ぎて、理解を求める事すら億劫だから。
そんな性格だった筈なのに、そんな思考回路だった筈なのに、それがいつの間にか変わっている。
誰かに協力してもらう、という人間らしい行動を取れるようになっている。
いつ、どこで、だれが、どのようにして、彼女を変えてしまったのか。
「ふーむ。何か手掛かりがあると良いのだが。
ヒントは何か示されていないのか?」
「…………ヒント……。
せつな……?」
気絶から目覚めた後に、一度だけ口にした名前。
何処にも記録が残っていなかった為、すっかりと忘却していたが、これはあまりにもおかし過ぎる。
何の記録もない名前を口にした美影の事もそうだが、精神汚染をかけられている可能性の者が口にした言葉を、何の価値もないと忘れ去っていた己の行動こそが、改めて考えると常軌を逸していた。
「かんざき、せつな……という名に、聞き覚えはある?」
「……ふむ」
久遠に訊ねるが、少し考えた後に、彼女は首を横に振った。
「いや、聞き覚えはないな。
美雲の親戚か?」
「そうよね。いえ、何でもないわ」
帝たちも知らず、記録にも残っていない。
何処にもいない。
見えてこない名前。
「『見えている物だけが真実とは限らない』なら、見えない所に隠された真実がある……」
何かのトンチの様だ。
だが、ここに手掛かりがあるのだと、彼女の勘は確信していた。
「っ……」
瞬間。
美雲は顔を顰めた。
「? どうした?」
それに気付いた久遠が、心配したように声をかけた。
美雲は、それに手を振って大丈夫だと示しながら、適当に誤魔化す。
「……いえ、何でもないわ。
ちょっと頭痛がしただけ。
……で、えっと、何だったかしら」
「美影嬢は何を目的として動いているのか、という話だろう?
考え過ぎで頭が疲れてきているんじゃないのか?
少し休んだ方が良いぞ」
「ええ……。そうね。
少し……休ませて貰うわ」
ずきり、ずきり、と疼痛のように脳の奥から響く痛み。
《サウザンドアイズ》を使い過ぎたのだろうか、と思った彼女は、友人からの忠告を素直に受け入れる。
直前まで何を考えていたのか。
その痛みによって押し流された事に気付かぬまま。