堕ちる魂
時間は僅かに遡る。
虚空に罅が入り、濃密な魔力が亀裂から漏出した。
「ぬ、ぅ、おあッ!」
亀裂に嫋やかな白い指がかかり、引き裂くように穴を広げる。
出現するのは、光を纏った女性。
オーロラのような髪色、何処か人間味の無い美し過ぎる造形、純白の羽衣を周囲に浮かべた姿。
ノエリアだ。
だが、いつもとは少しばかり様子が違う。
背には刃の様に鋭い白銀色の光の十枚翼を背負っており、頭上には紋様の様に複雑に絡み合った天輪を戴いている。
天使。
少々、人間がイメージするそれとは異なるが、まさにそのような姿となって、ノエリアは亀裂から現れ出た。
「……あー、しまったのぅ。
力を入れ過ぎてしもうたわ。
漏れ出ておるな」
自身の状態を確認しながら、ノエリアは困ったように呟く。
彼女に続いて、黒い魔女が黒い大剣を携えて歩み出てくる。
虚ろな顔つきの永久である。
彼女の表情からは意思の色が感じられず、何処か人形のような雰囲気を纏っていた。
その時、世界の殻が割れる音がした。
「む?」
その出所は、今しがた己が開けた虚空の穴だ。
視線を向ければ、罅が先程よりも大きく広がっている。
周辺の空間へと連鎖するように砕けて割れていき、
「あ」
やがて、それが極限まで大きくなったところで、完全に破砕し、崩れて消えた。
それは、この地球世界を守護していた防壁だった。
ノエリアはそこに小さな穴を開けただけであり、別に完全に崩落させるつもりなど、誓って持っていなかった。
だが、運が悪い事に、タイミングを合わせたかのように他所からも圧力がかかっていた。
針の一刺しである。
たかが、とも言えるが、その隙間だけで充分だったのだ。
その一点の隙間をめがけて圧力が集中し、遂に殻が割れ砕けてしまっていた。
あとは、もはや語るまでもない。
津波のように押し寄せる異界からの悪意。
世界中に響き渡る警報の嵐。
ほんの僅かに茫然としている間にも、地球は地獄の巷へと変貌していた。
「……あー、あー、これは……しまったのぅ。
すまぬ」
流石に悪い事をしたな、と思うノエリア。
誰にも届かぬ謝罪を漏らし、反省を態度で表すかのように瞑目した。
とはいえ、こうなってしまうと彼女ではどうしようもない。
再度の防壁を築き上げるだけの魔力は、既に彼女の中には残っていないのだ。
薄っぺらくて良いのならば出来ない事はないが、気休めにすらならない程度の脆さであり、はっきり言ってやるだけ無駄だ。
せめてもの罪滅ぼしに参戦してやろう、とは思う。
だが、なるべく省エネでいきたい彼女としては、ピンポイントでの助力に留めようとも思う。
(……それに、いつか来るべき時が今来ただけの事じゃしな)
地球は彼らの故郷なのだ。
彼ら自身の手で守るべきだ、と適当な理屈を並べて、暫し我関せずのまま観戦する。
「おーおー、頑張っておるのぅ。
ふはは、魔王共の多彩さは、我が故郷以上じゃな」
各地で猛威を振るい、一方的に敵を駆逐していく〝魔王〟と呼ばれる者たち。
彼らは、惑星ノエリアにいた才人や強者と比べて、スペック的には遥かに劣っている。
だが、個々が保有する技能は、彼らの方が遥かに優れていた。
その理由は、分かる。
両方の文明を見てきたノエリアだからこそ、痛いほどにそれが分かってしまう。
「多彩な種族がいた弊害じゃな。
諦念ばかりでは、発展も望めまい」
惑星ノエリアには、異形たちが多彩な姿をしているように、数多の知的生命体が暮らしていた。
そして、その種族間に横たわる強度の差も、如実に表れていた。
強い種族に生まれた者は、生まれながらに強いのだ。
当たり前のようにそんな常識が蔓延っており、弱き種族の者たちは、最初から追いつく事を諦めてしまう。
それ故に、努力して、研鑽を重ね、上回ってやろうという気概がほとんどない。
一部の変人にはそうした者もいたが、基本的にそれは異端であり、また実る事のなかった無謀な試みで終わってしまっていた。
しかし、地球は違う。
人類しかいなかった。
強い彼らは同じ人間なのだ。
才能があったのかもしれない。
生まれが良かったのかもしれない。
だが、それでも同じ種族の、同じ生物なのだ。
絶対に追い付けないなんて事はない筈だ。
特に、同じ才能を持って生まれた自分たちならば。
そうと考えた。
そうした情熱を抱いていた結果、歴代の魔王たちは才能に胡坐をかく事なく、研鑽を積み重ねて、それぞれに刺激を与え合い、追い付き追い越せと競い合ってきた。
その結果が、今の地球だ。
方向性の違いこそあるが、誰もが人智を越えた実力を発揮している。
彼らが本気でその力を振るえば、それこそ地球そのものが危ういほどに、その才覚は研ぎ澄まされていた。
「ノエリアの人間たちに、弱き種に、ああしたアホな魂の熱があればのぅ」
もっと違う結末があったかもしれない、と少しばかり悲し気に呟く。
とはいえ、もう終わった事だ。
惑星ノエリアは滅び、今では魔物の苗床となっている。
たとえ、魔物どもを駆逐したところで、復興すべき民すらいない。
だから、考えても詮無き事だ。
「とはいえ、まだまだ小手調べ。
地竜種ぐらいならともかく、天竜種や精霊種が出てきたらどうなる事やら」
様子見なのか何なのか、ノエリアには分からないが、かつて故郷において最強種として謳われていた者たちは、未だ姿を現していない。
技術的に優れていても、性能的に負けている相手に、どれだけ戦えるのか。
少なくとも、今ほどに一方的にはならないだろうと思う。
そこからが自分の出番だとノエリアは考えた。
「優雅な観戦気分、と洒落込もうかの、暫くは」
「そうは問屋が卸さないのが世の常だ」
ふらりと、馬鹿が現れた。
スーツ姿に、片手に何かが詰め込まれた袋をぶら下げた青年、刹那である。
空間を裂いて登場した彼に反応したのは、背後で大人しく控えていた永久だった。
ほぼ準備動作もなく、流れるようなスムーズさで漆黒の大剣を振るう。
そこには、激情も何もない。
不審人物が現れた。
だから迎撃に動いた。
ただそれだけの様な機械じみた印象を受ける。
迫る彼女をちらりと一瞥すると、刹那は腕を伸ばしてビンタした。
文字通りだ。
腕が五メートルくらいにまで伸びている。
大剣の間合いの外から余裕をもって引っ叩いていた。
よほどの威力があったのだろう。
永久は、冗談のようにぐるぐると回りながら吹っ飛んでいく。
「お前など、私の敵ではない。
適正な人物とじゃれていたまえ」
伸ばした腕で指を鳴らせば、宙に穴が開き、吹っ飛んでいた永久はその向こうへと飲まれて消えた。
それで役目を終えたとばかりに、穴はぴったりと閉じる。
僅か一瞬の出来事である。
ノエリアならば介入する事もできただろうが、あまり永久に拘る理由もないので放置して傍観していた。
「さて、こんにちは。女怪サノバビッチよ。
こうして顔を合わせるのは久しい気もするね」
「……その名は先日撤回された筈じゃがな。
我にとっては、久しいというほどの時間も経っておらぬぞ」
「安心したまえ。
私の全力を以て再度、その名を世界に刻むとも」
「そんな所に全力を出しとらんで、目の前の現実に全力を出した方が良いと思うじゃが」
「ふむ?」
刹那が世界を見渡す。
中々派手に遊んでいる気配が全世界から感じられ、活気が良いと頷いた。
「まぁ、よくある生存競争だ。
自らの縄張りを守る為にも、彼らも頑張って貰わねばな」
「いや、おぬしが頑張れよ、という話なのじゃが……」
「何を言っているのかね。
私が頑張ればすぐに何もかもが終わってしまうではないか。
神たる私には出来ない事など無いが、そんな事はつまらないではないか」
「つまらない、か」
「ああ、そうだとも」
とことん、守護者らしからぬ言動だと思う。
もしも、己が刹那の立場ならば、兎に角、敵の殲滅に奔走しただろうが故に、彼がそんな行動をする事に首を傾げてしまう。
「まぁ、良いわ。
これではゆっくりと話も出来んな」
軽く、ノエリアが指を鳴らす。
時属性魔法《永劫之天幕》。
時間流が、彼女の意思一つで停止した。
光さえも停止した世界は、完全な闇となっており、特殊な探知法を持っていなければまともに活動する事すらできないだろう。
尤も、そもそも時間への干渉権限が無ければ、動く事も出来ないし、動こうという意思も発せないのだが。
「ふむ。時が止まった世界とは、こういうものか。
興味深い」
「……当然のように動いておるのぅ」
それが出来ると思っていたからこそ、時間停止を行った訳であるが、当たり前のように動いている姿を見るとなんとなく内心で不満が募るノエリアだ。
「ふっ、時間の操作など全知全能たる私には容易い事だ。
その程度で驚かせようなどと、底が知れるという物だぞ、女怪め」
「女怪言うな」
正直に言えば、刹那であっても時間の停止にはいまだ手が届かないし、巻き戻す事だって当然できない。
だが、時間の加減速ならばできる。
というか、よくしている。
時を加速させた空間に閉じ籠り、刹那は世界中に氾濫している学問を修めているのだ。
これが、彼の天才性の絡繰り。
美雲が、刹那の事を天才である事を自分に強いている、偽物の天才だと思う理由だ。
加速した世界で過ごした時間を合計すれば、刹那の年齢は既に数百歳という領域に達している。
何故そこまでするのか。
そんなものは決まっている。
刹那の物でありたい、と願う美影に追い越され、置いて行かれない為だ。
そうでもしなければ、目標を見つけてしまった本物は簡単に追い抜いていくから。
だから、常軌を逸していてでも、自らの天才性を維持しているのである。
時間を止める事はできなくとも、時間を加速させる事が出来る刹那ならば、この状況下でも問題なく活動できる。
「さて、時間だけは我らの味方じゃの。
存分に話をしようぞ」
「私には話す事など何もないのだがね。
早急に死んでくれたまえ。
なぁに、貴様の血肉はきっちりしっかり私が食べてやるとも。
安心するといい」
「……さっきから安心できる要素が何一つとしてないのじゃが」
和やかな会話の裏で、二人の魔力と超能力はぶつかり合っている。
まだ崩しの段階だ。
小技をぶつけ合い、互いの隙を伺い合っている。
それが故に、一見すれば静かに見える。
刹那は少しは揺れるかも、と思い、手に提げていた袋を掲げる。
「そういえば、貴様にお土産があった事をすっかり忘れていた。
いや、道中で見つけたので懐かしく思ってくれるかと思って収穫しておいたのだがね」
口を解き、中身を零す。
転がり出てきたのは、大量の生首。
外の異形と同じく黒く染まっていながらも、異形たちとは違ってかなり元の形を維持していた。
そして、頭上には今のノエリアと同じように紋様の様な天輪を持っている。
精霊種。
ノエリアの同族たちの成れの果てだ。
「……黒の系譜、という訳ではないのぅ。
汚染されておるな」
嘆かわしい、とうそぶくノエリア。
そこに動揺は見られない。
裏の攻防にも隙は生まれない。
元々、覚悟していた事だ。
惑星が落ちた以上、星の環境から生まれる同胞たちも同じように落ちているだろう事を。
そうなれば、精霊種の価値観としては、もはや死者も同然だ。
確固たる証拠を見せられても、やっぱりな、という感想しか湧いて出てこない。
むしろ、落ちた同族を仕留めた刹那に対して感謝さえある。
同時に、よくもこの短時間で碌に弱点の無い邪精を仕留められたものだ、と感嘆していた。
「ふむ。薄情な輩だね。
少しは動揺を誘えるやもと期待したのだが」
「今更、そんなもので揺れる物か。
それよりも、我はおぬしの、おぬしらの敵ではないのじゃ。
出来れば、平和的に話し合おうぞ」
まだ、ノエリアは間に合うと思っている。
まだ対話でどうにかできると思っている。
そんな事はない。
刹那は既に敵と見定めている。
その根拠もある。
それが解消されない以上、その認識を覆す事はない。
だから、更なる手で精神を揺さぶる。
「では、こんな土産はどうだろうか」
言って、何かを掴む様に手を掲げる。
その中の空間が歪み、何かが出現した。
「何じゃ。
何を見せられたところで、我が動く……な、ど……」
そこに現れた物を見て、ノエリアは言葉を失う。
小さな光の玉。
刹那の念力に囚われた中で、ノエリアを見ながら必死に助けを求める小さな小さな小人。
掌サイズであり、背にも指先程度の小さな二枚翼があるだけ。
天輪の紋様は単純そのもので、ノエリアのそれとはまるで違う。
だが、確かにそれは、精霊種。
生きている、精霊種の子供だった。
「きっ、さまっ!
その子を何処で!?」
守るべき、星の民を前に、守護者の精神は瞬間的に沸騰した。
だが、それは強固に形作られた精神が揺らぐ事を意味している。
「ぐっ!?」
ノエリアの全身が、漆黒を帯びる。
何かに侵食されるように、光翼が天輪が、全身が、異形たちと同じように底なしの奈落の様に染まり出した。
「ほら見たまえ。
貴様、あれに喰われているだろう?
縁が切れていないぞ。
ああ、そうそう。
この羽虫なら穴から出てきて迷子になっているところを私が捕獲しただけだ。
どうするつもりもないが、どうして欲しいかね?」
「ギっ……ガ、か、返セ……! 我が、民ゾ!」
これが、刹那がノエリアを絶対的な敵として見る理由。
最初から、何かと繋がっているという事は見て取れたが、その正体も分からなかった。
あるいは単純に本体と繋がっているだけなのか、とも思っていたが、その疑問は先日ナナシが持ち帰ったノエリアの記憶から判明した。
星を喰らう魔物の存在。
そいつと未だに繋がったままなのだとしたら、どんな理由があろうと、どんな事情があろうと、敵として見る以外にない。
こうして、ちょっとした衝撃で浸食されてしまうのだから。
浸食は徐々に進むが、完全に染まり切るには程遠い。
守護者としての使命感が、最後の一線を守っているのだろう。
小精霊は、汚染されていくノエリアに驚き、腰を抜かして恐怖している。
「全く。お前の保護者は実に情けない有様だな」
『――――』
小精霊は、刹那がノエリアと同族である事を見て取っている。
だから、彼に助けを求めた。
「助ける、か。
まぁ、私に救えない者など存在しない以上、どうとでもできるが、さてそれをする理由が私にはないのだが」
救済する手段を持っていても、救済する理由は持たない。
小精霊は思考し、焦りながら刹那を説得しようとする。
『――――』
「ほう? それを、お前ができると?
お前にそれだけの権限があるとは思えないのだがね」
『――――』
「ふむ。これでも人間に混じって生きている以上、人間の振りも必要か。
必死な者の言葉を見過ごしては、賢姉様に怒られてしまうしな」
小精霊が差し出した物は、刹那にとってはどうでも良い物だった。
だが、これだけ懸命な言葉を無視するというのは、人間として些か外聞が悪く、常々人間らしさを説く美雲から叱られてしまう。
だから、それで妥協した刹那は、ノエリアを救う方向でプランを立てる。
実際、それなりに有用な人材だ。
味方に引き込めるのならば、引き込んでおくべきだろう。
それが恩を売れる形ならば、猶良しである。
刹那は遠くから近付いてくる気配を感じ取っていた。
ノエリアを救うにしても、大人しくさせねば話にならない。
しかし、刹那はこれから惑星ノエリアに出向かねばならない用事が出来てしまった。
だから、その役目は別の者に託す。
浸食とそれに抗う力の拮抗によって、現在は動きを止めているノエリアだが、魔力を消費していた彼女では抗いきれない事は明白だ。
その天秤もすぐに傾くだろう。
「そいつの相手は頼んだぞ、愚妹よ」
そんな彼女に、止まった世界を貫いて黒き雷が突き刺さった。
アチョー、というわざとらしい掛け声と共に。
今度こそ連投は終了ですから。
嘘ではありませんから!