幕間:接触の兆し
浮かび上がる泡沫の様に、意識が覚醒する。
「…………」
焦点の定まらぬ視界でぼんやりと白い天井を見上げる。
しばらくして、ようやく頭に血の巡ってきた彼——火縄・剛毅は、自分が何をしていたのか、という事を思い出す。
「あのやろ……っ、ぐぁ!」
反射的に飛び起きたのだが、自分の身体を支える力が湧かず、そのままベッドに逆戻りしてしまう。
一連の声と物音を聞いたのだろう。
彼の寝かされているベッドを囲っていた、白いカーテンが引き払われる。
「無事に起きたようだね。重畳重畳」
顔を出したのは、白衣を着た老婆だ。
都橋 鼎。
高天原学園の養護教諭の中では最古参のベテランだ。
生傷の絶えない学園関係者では、生徒も教職員も問わず、頭の上がらない人物である。
「身体の調子はどうさね?
一応、何の問題も無いようにはしといたんだけどね。
ああ、体力の消耗だけは別だよ」
「……ああ、いや、疲労感以外は何ともありません、都橋先生」
身体の具合を確かめた剛毅は、鼎に対してその様に申告する。
実際、何処にも痛みはないし、何処かしらが動かない、という事もない。
あまりの疲労でその確認作業ですら億劫だが。
「そいつは良かったさね。
ちなみに、自分がどうなったのか、覚えているかね?」
「……生憎と。受験生相手に負けた事ぐらいしか覚えてないですね」
こちらは魔力を使い果たしていたというのに、向こうはまるで消耗していなかったのだ。
そして、こうしてベッドに寝かされていたのだから、敗北したのだという事実だけは自然と導き出せる。
だが、残念ながらそこまでだ。どのように負けたのか、さっぱり分からない。
「そうかい。まぁ、そうだろうね。
五十嵐の嬢ちゃんから聞いた限りじゃね」
「俺はどうなったのですか?」
聞きたくもあり、同時にあまり聞きたくないという思いもある中での問い。
それに、鼎は躊躇う事無く答える。
「氷漬けにされたんさね。完璧にね。
一種のコールドスリープ状態だったさね。
長い事、医者をやってるけどね、あんな状態な奴、初めて診たさね。
あー、疲れた」
「……氷漬けとは。あのクソガキめ。やってくれる」
剛毅は、直感している。
それでも、手加減したのだと。
生物も無機物も問わず、様々な物を相手に拳を振るってきた剛毅。
その彼をして、あの時の感覚は異常だった。
途方もない頑強さ。まるで不壊である事を神に定められているかの様な、そんな絶望的な硬さを感覚的に理解した。
同時に、それだけの力を持つ者が、ただ防御力だけの存在なのか、と思う。
これがゲームならば、そういう特化能力もあり得るだろう、と思える。
だが、ここは現実で、そんな非常に使い道に限られる能力を作る馬鹿などよっぽどの馬鹿である。
そして、自分が凍らされた、という事実が、雷裂・刹那が特化型ではないという事を示している。
ならば、それこそ跡形もなく、あるいは再起不能にするレベルでの一撃を放っていてもおかしくはない。
だというのに、蘇生の余地のあるレベルまで落とし込んだ。
手加減されたのだ、と感じるには十分である。
「……………………はぁ」
目元を掌で覆い隠しながら、記憶にある限りの刹那の様子を思い出し、剛毅は深くため息を吐く。
「どうしたんさね?」
「……いえね、ちょいと常識が崩れそうな事を思い起こしていましてね」
刹那は、徹頭徹尾、魔力を使っていなかった。
隠していた、というのは絶対に無い。
なにせ、剛毅は彼の障壁に触れていたのだ。
それが魔力で構成されているのならば、それを感じ取れない筈がない。
なのに、何も感じなかったのならば、答えは簡単だ。
魔術以外の何かを使っていた、という事だ。
もしかしたら科学技術によるバリアを使っていたのかも、と考えて内心で鼻で笑う。
(……あり得ねぇよ)
八魔に連なる者の特権として、各企業の最新技術も閲覧し、おおよその現在の技術レベルは知っている。
だから、断言できる。
軍艦などに取り付けるのならばまだしも、携行レベルでの科学式バリアの強度などたかが知れている、と。
少なくとも、絶対に突破できないと直感できるほどの強度など実現できない。
いや、それは携行に限らず、軍艦などに使用する大型の物でも同じ事が言える。
ならば、やはり魔術とは異なる別の神秘が働いているのだ、と結論付ける。
「……確かめねぇとな」
根性を入れて身体を起き上がらせる。
座った姿勢を維持するだけでも気合を必要とするが、好奇心の方が勝る。
「医者としては、絶対安静なんだがねー」
「すんません。ちょいと確かめなきゃならない事がありますんで、見逃してくれませんかね」
「医者の仕事は、忠告までさね。
その上で何かをする事を、止める権利も義務もないさね」
「……ありがとうございます」
見逃してくれると分かり、剛毅は一度頭を下げ、ベッドに立てかけられていた松葉杖を手に取る。
そうして、なんとか立ち上がる彼に、鼎は一つだけ訊ねる。
「一応、訊いとくんだけどね。
何処に行くんさね?
止めないとは言ったけどね、流石に自殺とかされると気分が悪いしね」
「ははっ、自殺なんざしませんよ。ちょいと管理塔までね」
「セントラルかい? 何しにそんなとこに」
高天原の中心部には、天まで届く様な尖塔状の建築物がある。
名を《セントラル・タワー》と言い、高天原を運営する部署のほとんどが内部に詰め込まれている。
当然、高天原学園の関係部署も存在しており、生徒会室もまたそこに存在している。
雷裂 刹那は、現状では単なる受験生だ。
高天原内に此処という拠点を持たず、居場所など分からない。
実技試験まで終了している以上、最悪、既に高天原を去っていてもおかしくないのだ。
ならば、彼の力を知っているであろう人物を訪ねようと思ったのだ。
即ち、高等部現生徒会長であり、刹那の義姉である雷裂 美雲を。
何もかもが不確かな現状で、適当な事を言う訳にもいかない。
それ故に、剛毅は曖昧な笑みで誤魔化して、救護室から出ていくのだった。
~~~~~~~~~~
崩れ落ちてしまいそうな身体に鞭を入れながら、やっとの思いでセントラルに辿り着いた剛毅は、躊躇なく高等部生徒会室の扉を叩く。
非常勤とはいえ、高等部の教員なのだ。
彼が生徒会室へと訪ねてくるのは何もおかしくはない。
「どちら様ですか?」
扉越しにくぐもった、しかし美しいと感じられる声が返ってくる。
もう夜も遅い時間だというのに、どうやら生徒会長は在室らしい。
もしかしたら、女子寮の方を訪問しなくてはならないかも、と外に出て夜になっている事に気付いた剛毅は心配していたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「火縄だ。雷裂生徒会長、今、時間良いか?」
「火縄先生でしたか。どうぞ、お入りください」
言葉に、扉を開けて中へと入る。
最奥の執務机に向かっているのは、金色の髪を持つ美しい女性——雷裂 美雲だ。
斜め前の机には、真紅の髪をポニーテールに纏めた女性もいる。
美雲とはタイプの違う美しさ——高潔な武闘家の様な凛とした佇まいの彼女の名は、炎城 久遠。
火縄の本家、炎城家の跡取りであり、学園内では生徒会執行部という組織の長をしている。
彼女の存在を認めた剛毅は、眉を顰める。
決して、久遠を苦手としている訳でも、嫌っている訳でもない。
ただ、今、この場に訪ねてきた用事、雷裂 刹那は彼女の元弟なのだ。
当時の様子を思い出しても、久遠が刹那を庇う様な事をしていた記憶はなく、つまりは嫌悪している可能性が高いとみている剛毅は、この場でそれを話すべきなのかと逡巡する。
そうして棒立ちになっていると、美雲が立ち上がり、手前に設置されている応接用のソファを示す。
「どうぞお座りください。
どうやらお疲れのようですし」
「あ、ああ」
「お飲み物は、何がよろしいですか?
緑茶、紅茶、コーヒーと各種取り揃えておりますよ?
生憎とティーバッグですけれど」
冗談めかしてころころと笑う美雲。
その笑みに少しばかり余裕を取り戻した剛毅は、ソファに座りながら不敵な笑みを返す。
「仮にも名家の御嬢様だろうに。それがティーバッグで良いのかよ?」
「状況にもよりけりでしょうか。
本格的なお茶会でもするのならばともかく、ここはお仕事をする場です。
手軽に、という点ではティーバッグはベターな選択と考えております。
一番は出来合いのペットボトルなどですが」
流石にそれは味気無さ過ぎる、と肩を竦め、
「それで、何がよろしいですか?」
「じゃあ、緑茶をくれや」
「承りました」
それきり、言葉はない。
生徒会室の中に、美雲がお茶を淹れる音と、久遠が端末を操作する音だけが広がる。
久遠は、剛毅を一瞥しただけで、それ以上の反応はない。
教員と生徒として見れば失礼な態度であるが、本家の令嬢と分家の人間として見れば、やはり失礼には違いないが、責められるほどの物でもない。
彼女はどうやら剛毅を無視する方針のようだ。
剛毅も、久遠の事を無視する。
子供のようだが、歩み寄る気のない相手と会話をするのは無駄だと考えたのだ。
既に魔術師として十分に大成し、名も売れている今、炎城家から嫌われても生きていく道は幾らでもあるのだし。
やがてお茶を淹れ終えた美雲が、剛毅の前に湯呑を置き、彼の正面の席に彼女も座る。
「では、訪問の理由を聞かせて下さいな」
~~~~~~~~~~
問いかけられて、どうしたものか、と剛毅は押し黙る。
美雲が一人なら、いや、一人でなくとも、他のどうでもいい生徒会役員だったならば、何も気にせずに刹那の事を問い質せただろう。
だが、巡り逢わせの悪い事に、この場には久遠がいる。
数秒の沈黙を挟み、先に口に開いたのは美雲の方だ。
「……火縄先生が、本日、実技試験の試験官を担当していた事は知っております」
出てきたのは、いつまでも沈黙する剛毅に対する文句ではなかった。
「そして、今の貴方様の具合を見て、何があったのか、おおよそ確信しております」
一拍。
「弟君……雷裂 刹那と戦いましたね?」
剛毅は少しの驚きを覚えて瞠目する。
そして、その後ろで久遠が端末を操作する音が止まる。
(……おいおい、良いのかよ)
美雲と久遠は、友人関係だった筈だ。
少なくとも、教員の目から見て仲が悪いとはまるで感じなかった。
その関係に罅が入るのでは、と危惧したのだが、当の美雲がその心を見抜いてはっきりと否定する。
「弟君が表に出れば、遅かれ早かれ、です。
構いません。なので、火縄先生も遠慮なさらずに」
取捨選択をしたのだと、言う。
義弟と友人を天秤にかけ、義弟を取ったのだと。
そこまで覚悟しているなら、遠慮する必要もない。
剛毅は、それを認め、本題へと入る。
「ああ、その通りだ。お前さんの弟、雷裂 刹那とやった。
そんでもって……」
傍らの松葉杖を揺らして、苦笑を漏らす。
「この様だ。
ハハッ、最も《六天魔軍》に近い魔術師、なんて看板が泣くな」
「あまりお気になされずに。
あの愚弟相手では、誰しも同じ結末です」
美雲の言葉、その言外に示された事実に、剛毅は息をのむ。
誰しも同じ。
それはつまり、かの《六天魔軍》に名を連ねし雷裂 美影も、という事。
これは、是が非でも確かめねばならない。
そう、決意を新たにして、問いかける。
「……あれは、あの力は、一体何なのだ?」
続ける。
思い出すだけで指先が震えそうな、あの常軌を逸した力を脳裏に描きながら。
「あれは、魔術じゃなかった。科学でもねぇ。
なんか、何かもっと別の、とんでもねぇ何かだ。
なぁ、知ってるんだろ? 教えてくれ。あれは、何なんだ?」
美雲は即答しない。
ゆっくりとした動作で湯呑を手に取り、中身を口の中に傾ける。
そうして一息ついて、
「教えられません」
簡潔に、一言だけ告げる。
「何故だ!?」
「口止めされているからです」
「テメェの弟にってか!?
世界が書き換わるようなそれを個人的な理由で……」
「先生」
一気に頭に血が上ってしまった剛毅を押し留める、涼やかな声音。
美雲は、小さく指先を交差させて、バッテンを作る。
「刹那の力について、何も教えられません。禁止事項です。
誰に禁止されたのか、それも答えられません。禁止事項です。
私が言えるのは、ここまでが限界です」
静かに紡がれる言葉に、少しばかり落ち着きを取り戻した剛毅は、思考を巡らせる。
八魔家の令嬢に、Aランク最上位魔術師を相手にした場合でも口止めを有効化できる権限がある者、そして更にはそれを発した者の詳細さえも口止めさせられる者。
八魔家の当主レベルでは、無理だ。
前者の口止めならばまだしも、後者はきっと答えられるだろう。
総理や元帥かと言われれば、それも否だ。
やはり命令者の秘匿という部分が引っかかる。
となれば、思い当たるのは一人しかいない。
「おい……おい、まさか」
「思い至ったのならば、退席を。
それを口にしてはいけませんよ?」
可愛らしく、指先を口元に当てて沈黙を要請する。
愛らしく、冗談めかしているが、その目はまるで笑っていない。
それもそうだろう。
相手は、神話の世界の住人なのだ。
(……天帝陛下とか、クソ笑えねぇ)
古から連綿と続く、神話の血筋。第三次世界大戦以降は、天帝と名を変え、単なる象徴ではなく、幾らかの実権を保有する、間違いなく帝国最高の権力者だ。
例えば、《六天魔軍》の任命と命令は、天帝にしか許されていない。
他の者が出来るのは、せいぜいが〝お願い〟までだというのに、である。
それだけでも、とんでもない権力である。
そんな存在が、直に秘匿命令を出している。
ならば、ここで粘るだけ無駄だ。
「チッ、それじゃあ仕方ねぇな。邪魔したな」
湯呑に注がれた緑茶を一息の煽り、剛毅は席を立った。
~~~~~~~~~~
剛毅のいなくなった生徒会室には、沈黙が下りていた。
「…………」
炎城 久遠は、湯呑の片付けをしている友人——美雲の背を見つめる。
先ほどの会話で聞こえてきた名前。
雷裂 刹那。
その名前は、聞き覚えがあってない物である。
もしも、それが炎城の姓であれば、それは自分の弟なのだから。
そして、それはおそらく間違いではない。
先の二人の会話を聞いていれば、雷裂 刹那と炎城 刹那が同一人物だと誰でも察せられるだろう。
「……なぁ」
片付けを終え、自らの執務机へと戻った美雲に声をかける。
「関係ないわよ?」
機先を制するように、美雲ははっきりと告げる。
「弟君は、もう〝雷裂〟なの。
〝炎城〟刹那という男は死んだのよ、十年も前にね」
「……っ」
「ねぇ、久遠。
貴方が苦労しているのは知っているけれど、弟君の苦労はそんな物じゃないわよ」
五年前、何処かの森の中で発見され、連れてこられた刹那は、言葉を失っていた。
それはそうだ。
まだ五歳という言語能力も未熟な時期に捨てられ、それ以降、人間との接触は一切なかったのだ。
言語という物が消えてしまうのも無理はない。
「弟君は過去に拘ってはいないわ。
炎城に対しても、はっきりと言えば恨んでいない。
良い気持ちは持っていないけどね」
顔を合わせれば嫌な顔くらいはするだろうが、その程度だ。
彼が恨みを抱いているのはもっと別の物だし、今ではそれすらも目的ではなく、手段にまで落ち込んでいる。
「だから、放っておいてちょうだい。
弟君が貴方たちに突っかかっていく事はないわ。
手出しさえ、しなければ」
触らぬ神に祟りなし、である。
「だ、だが、私は謝りたいのだ!
あの時、私は流された。
両親に見限られるのを恐れ、両親の言葉を言われるがままに信じて、刹那に……酷い事を……」
「そう、じゃあ、謝れば良いんじゃない?」
「え?」
前言を覆す様にあっさりと言う。
「それで気が済むなら、弟君も許してくれるわ。
優しいもの、あの子」
恨みも憎しみも、既に昇華されている以上、許しを請う事自体が単なる自己満足でしかない。
今更、関わってこられても、刹那にとっては気分が悪いのだろうが、それは美雲がフォローすれば良い話だ。
「私は、弟君と炎城の問題には、なるべく中立のつもりよ。
さっきの言葉は、そうね。弟君の内心の代弁とでも思って。
それを承知の上で何かをするなら、好きにすれば良いわ」
今まで生きているという事すら不明だった刹那の内心など、久遠が知る由もない。
一方で、刹那は美雲を通して久遠の事を知っている。
それはフェアではない為の、前言である。
それを知った上で、敵対するも和解に動こうとするも、好きにすれば良い。
話はこれで終わりだと、美雲は端末を起動し、中断していた仕事を再開する。
「さっ、お仕事しましょ。
受験生は山ほどいるのよ。サボってたら、採点なんていつまで経っても終わらないわ」
信頼が過ぎた結果、試験の採点にまで駆り出されてしまった生徒会。
給料を貰っても良いのではないか、と感じる今日この頃である。