逃 走
「殺せ」物騒な答えが返ってきた。
「無駄だ……人質に……私は……戦士だ」
喉元に刃先を突きつけているせいだろう。切れ切れの単語が続くが、意味は十分伝わってきた。彼女が本気だと言うことも。
「悪いが、こちらにも事情があってな」
文人は空いた腕でサリアナを立たせると、歩くようにうながす。
「なっ! 貴様」
また別の声がした。牢屋の前で一暴れすれば、誰かが気づいてもおかしくはない。振り返ると、若いファーリが険しい顔をしながらこちらに弓矢を構えていた。
「おっと、勘弁してくれ」
サリアナごと正面を向くと、若いファーリはさすがにうろたえた顔をする。
「言っておくけど、呪文で首を絞めようなんて考えないでくれ。わかるだろう?」
「無駄だ、あきらめろ」
短剣を突きつけられ、脂汗を垂らしながらもサリアナはあざけるように言った。
「逃げ切れはしない」
彼女の言葉ははったりでもなかった。暗闇の中、騒ぎを聞きつけたファーリたちが次々と集まってくる。このまま囲まれれば逃げ道はない。
「逃げるつもりはさらさらないさ」
どん、と背中を突き飛ばす。予想外だったのだろう。サリアナはたたらを踏みながら泳ぐように前へ倒れ込んでいく。不意を突かれて集まった男たちの先頭とぶつかり、絡み合うように倒れ込む。
文人はその上を一足飛びで越えると、迷わず駆けだした。
あとは時間との勝負だ。一人二人ならともかく、何十人もの村人が呪文を唱えるのを防ぐのは難しい。できれば外してしまいたいのだが、これがないと意思の疎通ができない。
文人が走り抜けた後から追いかけるように悲鳴と怒号が続く。
やがて村一番大きな大木の側に寄り添うようにして、一際立派な木が生えている。
あそこが族長の家か。ほっとした瞬間、意味不明の大声が響いた。しまった、と思う間もなく首が急速に締め付けられた。
首輪を掴みながら振り返ると、サリアナを先頭にファーリの男たちが追いかけてくるのが見えた。どうにか首と腕輪の間に指を挟みこませると文人は階段を駆け上がり、扉代わりらしき大きな布をはぎ取ると、そこに予想通りの光景と予想外の人物がいた。
ロウソクで照らされた木の洞の中には三人の人物がいた。
一人は部屋の隅で寝かされた血だらけの男、額に赤い布が巻かれ、体には薄い毛皮が掛けられている。突然の侵入者に反応らしき物を見せたが、わずかに顔を浮かせただけで声を上げる様子はなかった。
もう一人はカーロだった。同じ村の出身ということで呼ばれたのだろう。急に飛び込んできた文人に完全に腰を抜かしていた。唇をわななかせ、子ネズミのような弱々しい視線を文人の手の中の短剣に注いでいる。
そして三人目は、ティニと同じ年格好の女の子だった。わらを編んだような座布団にあぐらをかいて座り、カーロと向かい合っている。とがった耳や衣服も同じような物だったが、布地はおろし立てのように真新しく、金糸と銀糸の紋様が縫い付けられていた。だが、文人が何より目を奪われたのは背中まで伸びた白い髪と、薄緑色の肌だった。
もしかしたら精巧な人形なのかとも思ったが、上下する胸や喉、突然の闖入者にわずかに見開いた目が生きていることを明確に告げている。
「なんじゃ主は」
少女は文人をにらみながら言った。見た目とは違い、態度や物腰はまるで地面に杭でも打ってあるかのような貫禄があった。
「もしや、サリアナが申しておったノーマかいの。ワシの命でも奪りにきたんか」
ほかのファーリとは違う奇妙な物言いに文人はいささか面食らった。少女の言葉遣いが古めかしいため首輪が自動的に変換したのだろう。
「もしかして、君がここの族長なのか?」
「命奪る相手のツラも知らんと来たたあ、呑気な奴じゃの」
薄緑色の肌をした少女は、急須から陶器製の茶碗にどろりとした緑色の液体を入れる。湯気が立ち上っているところを見ると、この世界でのお茶のようなものかもしれない。
「ワシの名はイリスリルヤ。ここの集落の長をしとる。短いつきあいになるじゃが、まあ、よろしゅうの」
イリスリルヤは別の茶碗に緑色の液体を入れると、文人の前に置いた。
「ま、茶でも飲んでいきんさいや」
「族長、どうしてこんな奴に」身を乗り出すカーロに族長は静かに首を振る。
「こいつはただのチンピラやないき。目ぇ見たらわかる。こいつは修羅場くぐった武人じゃ。腹のくくり方が違う」
そこで文人の首輪に目をやる。片手で押さえているとはいえ、絞め続けながら平気な風に会話をしている文人に感心した様子で鼻を鳴らした。
「ワシらの腕っ節でどうこうなる相手じゃないき」
イリスリルヤはそこで初めて文人に向き直り、居住まいを正した。
「ワシの命なら好きにせえや。その代わり、このおちびとそこの半死人だけは勘弁してつかあさいや。子供とケガ人まで命奪って来いとは主も言われとらんじゃろ?」
「族長!」
カーロは片膝を立て、獣のように飛びかかる仕草をしたが、そこまでだった。文人とイリスリルヤを見比べると悔しそうに片膝を戻し、後ろに下がった。
「ご無事ですか、族長」
そこでようやく戸口の布が取り払われ、集落の者たちが飛び込んできた。
「逃げられんぞ、ノーマ」先頭のサリアナが切っ先を文人に向ける。窓の外ではファーリが二人、弓矢を構えている。
「貴様の命はここまでだ。八つ裂きにして、三ツ目オオカミのエサにしてやる」
おっかない言葉とは裏腹に飛びかかる様子はなかった。
この位置ならサリアナが文人の首をはねるより、文人の短剣がイリスルリヤの心臓を貫く方が早い。弓矢にしても即死させられなければ、やはり短剣が族長の命を奪い取る。それより持久戦に持ち込んだ方がサリアナたちにとって有利だ。首輪の魔力はこうしている間にも文人の首を絞め続けている。おかげで文人の片手は封じられている。いずれは体力も減り、隙も生まれる。
見た目より冷静な判断が出来るんだな、と文人は妙に感心してしまった。
とはいえ、誤解は早急に正すべきだろう。
「言っておくが、俺は族長を殺しに来たわけじゃない」
締め付けられているため、動かしにくいが、文人ははっきりと首を振る。
「用が済んだら引き取らせてもらう。その前に一つお聞きしたいんだが。えーと、カーロ……じゃなくて族長」
本当ならカーロに尋ねるのが一番早い。しかし、おびえたカーロではきちんとした受け答えができないだろうと思い、族長に目線だけ向ける。
「この集落からカーロの村まで距離はどのくらいでしょうか?」
「はあ?」この質問は予想外だったらしく、薄緑色の肌をした少女から間の抜けた声が上がる。その反応だけは妙に見た目相応だな、と文人は心の中で苦笑する。
「その質問に何の意味があるんじゃ?」
「大切なことです」
質問の意図がつかめないらしく、イリスルリヤが眉をひそめる。答えてよいものか迷っているようだ。
「答える必要はありません」サリアナが割って入ろうとするが、イリスルリヤが腕を伸ばして制した。
「ここからおちびの村なら北に歩いて二日ほどじゃろう。正確な距離はわしもわからんし、ノーマの数え方でどのくらいかもよくわからん。これでええんかいの」
「ええ、十分です」
文人は深々と頷くと、手にした短剣を手首をひねって持ち替え、投げつけた。
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