転 移
転 移
けたたましい鳥の鳴き声に文人は目を覚ました。真っ先に飛び込んできたのは鬱蒼と生い茂る木々と枝葉だった。背中に触れる柔らかい土と草の感触にようやく自分が仰向けに倒れているのだと気づいた。
あわてて身を起こし辺りを見回す。どうやら文人がいるのは森の中であり、倒れていたのは巨木の根元のようだ。見上げても枝葉に遮られててっぺんが見えない。相当高い木のようだ。幹も太く、大人が四、五人がかりで腕を伸ばしてようやく一周できるかどうか、といったところだ。樹齢にすれば数百年、もしかしたら数千年は経っているかも知れない。
それより文人が気になったのは葉の形である。六角形をした葉の中心の周りに三角罫や台形など不規則な模様を描いている。しかも葉の形は一定ではなく、一枚ごとに幾何学的な形やトランプのカードを広げたような形をしていた。それを見て文人は雪の結晶を思い起こした。少なくとも文人の知識や記憶にこんな植物はなかった。
「どこだここは?」
先程までいたはずの荒野から森林まで数百キロはあるだろう。先程の光が何者かの攻撃だったとしても、気絶した文人を担いで森林まで運ぶなんて非効率的にも程がある。体を調べてみてもケガをしたり何かをされた様子はない。全て正常だ。連れてきたのが強盗かテロリストかは知らないが、カメラも時計も財布もスマホも持たせたまま放り出すなんて聞いたことも体験したこともない。
時計は午後一時十二分。さきほどの荒野から五分と経っていない。そうなるとますます移動手段がわからなくなる。
待っていれば、誘拐犯? が現れて方法なり目的なり意図なり説明してくれるかと思ったが、誰も現れる気配はなかった。
文人は立ち上がり、背中や尻に付いた土や草を払い落とした。待っていてもらちがあかない以上、動き出すしかない。
行動あるのみだ。『当たって砕けろ』が文人の信条である。
十分ほど歩いたが景色に変化はなかった。足下には太い根っこがはみ出し、時折つまづきそうになった。森には違いないのだが、生えているのは見たこともない植物ばかりだった。斧のような形をした極彩色の草、蛇のようにとぐろを巻いた黒い果実、根と葉がさかさまになった大樹、およそ文人の常識からかけ離れた光景に否応なく不安をかき立てられる。見上げても枝葉に遮られて地形もよくわからないし、建物どころか人の気配すらない。
一際幹の太い木があった。見上げると、分厚い枝葉を突き抜けて、上まで続いているようだ。触ると丈夫そうだし木の皮もざらついている。木登りするには格好の枝振りだった。文人は手近な枝に腕を伸ばし、足を掛けると一気に登る。実際、木登りなんて何十年ぶりだが、思いの外体は動いてくれる。確か南米で秘密結社から逃げているとき以来だったか。
こうして体を動かしていると、まるで自分が小さな子供に戻った気がする。子供の頃、近所の柿の木に登って柿を盗もうとしたことを思い出した。
深緑色をした葉の雲を抜けて木の上に出ると、眼下に果てしない大森林が広がっていた。地平線の向こうまで緑色の大海原のように広がり、地平線の彼方まで伸びていた。時折、風に吹かれて葉すれがさざ波のように広がっていく。
悪い夢でも見ているようだった。
夢の中、というのが一番合理的な解釈のように思えたが、踏みしめる土の感触や甘い草いきれの匂い、葉擦れの音が紛れもない現実だと告げていた。
いや、待てよ、と文人は思い出す。
最近ではコンピューターも発達してゲームの中でもまるでその場にいるかのように体験できるようなおもちゃも多数出ているという。『仮想現実』とかいうやつだ。本当はもっと長ったらしい横文字やアルファベットが並んでいるのだが、文人はその手合いにはまったく詳しくなかった。何十年か前に知り合いの孫とファミコンで遊んだくらいだ。子供はゲームより外で遊ぶべきだと固く信じている。
昔見た映画でもそんなのがあったような気がする。実は世界はロボットに支配されていて、今自分が現実だと感じているのは夢の方だとかいう、そんな話だ。
夢ならさっさと醒めて欲しいもんだがな、と苦笑した時文人は目を細めた。
振り返ると、緑色の大海原の一角にわずかではあるがぽっかりと穴の開いた一角を見つけた。ラグビーボールのような楕円形をかたどっている。角度のためか穴の奥はよく見えないが、一瞬、きらりと何かが日光を反射してまばゆい光を放っていた。さほど離れてはいない。文人の足なら十五分も歩けば着くように思えた。
もしかして、集落か?
文人は素早く木を降りると、見つけた方角へと駆けだした。
もちろん、普通の人間ではない可能性もある。頭からアンテナを生やした、緑色の肌をした宇宙人ということも考えられたが、現状確かめない理由はなかった。
十分ほど歩いた。目算が正しければ楕円形のサークルはもう近くだ。文人はペースを落とし、歩幅を縮めた。警戒心は必要であろう。のこのこ出て行ったら攻撃されることも考えられる。視界を遮る木々を抜けると、冷たい風が文人の頬を撫でた。
眼前には湖が広がっていた。直系で百メートルはあるだろう。覗き込むと水は息を呑むほど透き通っていた。湖底では緑色の小魚が群れをなして忙しなく泳いでいる。
どうやら光の正体は水面に反射した陽光だったようだ。とにかく水は有り難い。喉はからからだった。
飲めるかどうか確かめようと湖に近寄ろうとした時、水音が聞こえた。魚か何かがはねたのかと顔を上げた瞬間、文人はその光景に目を奪われた。
湖の中央で人魚が跳ねていた。ぬめった水色の肌に、一本一本がロープのように長く太い髪、鱗とヒレのついた魚そのものの下半身、黒々とした巨大な瞳首筋に見え隠れする、左右対称のエラ、どれを取っても人間ではあり得ない姿だった。人魚は一瞬、こちらを見たように思ったが、すぐに湖面へと潜っていった。文人は腰を落とし、その場に座り込んだ。
どうやら自分が迷い込んだのはファンタジー映画の世界のようだ。
しばし呆然としたが、粘つくような喉の渇きに現実に引き戻される。
砂漠のような荒野から飛ばされてから歩きづめだ。砂漠にいる時にはあった水筒も今手元にない。見たところ透明度も高いし、湖なら真水だろう。とはいえ、別の惑星か異次元かはともかく、この土地の生物にとっては無害でも自分にとっては有害ということもある。顔を近づける。やはり透明度が高い。ガラスのように透き通っている。縁なので深さは文人の肘程度だ。泥のたまった底すれすれを二股の尾を持った小魚が灰色の体を器用にくねらせながら優雅に泳いでいく。
魚が湖の奥の方へ泳いでいくのを見送り、指先を水面に浸す。二三滴すくって匂いを嗅いだ後、舌でなめ取る。一瞬淡い甘みが広がる。うまい。喉の奥に押し込む。
毒はないと安堵して何度も両手ですくって喉を潤した。
鏡のような湖面は波立たせながら、必死に水をすくい取ろうとする二十歳くらいの若者の姿を映し出していた。
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