砂 漠
砂 漠
ファインダーの向こうには砂色の荒野が広がっている。中央には乾いた大地と溶け込むような一団がまるで霧の向こう側にでもいるかのように曖昧な影を落としている。
中村文人は手袋に付いた砂埃を一度払い落としてからレンズを絞り、ピントを調整する。霧は晴れ、五百メートル先にいる銃器を持った男たちを鮮明に写しだした。
頭に薄汚れたターバンを巻き、顔を白い布で覆っている。迷彩服を着ている者もいればカンドゥーラの上に弾帯を掛けている者もいる。いずれも衣装はまちまちで、正規の兵士ではないのは明らかだった。
やっとお出ましか、と独りごちる。
文人がいるのは、荒野のど真ん中にある岩陰である。瘤のように歪な岩に潜みながら半日待った甲斐があろうというものだ。荒野に降り注ぐ日差しは焼けた棘のように鋭い。レンズの向こう側の連中同様、顔からすっぽりと布を被ってはいるが、陽光の下に出れば、むき出しになった目と目の間に容赦なく突き刺してくる。
逃げるようにカメラを構え直し、レンズの向きを変えると、男たちの傍らには黒いヴァンが駐まっているのが見えた。運転席と助手席には、弾帯を巻いた男たちが乗っている。日本製のワゴン車を改造したらしく、ボディには電気修理店らしきロゴが入っている。おそらくは盗難車だろう。日本で盗まれた車が密輸業者を経て海外へ流出する例は少なくない。
一体どこの電柱を直しに行くのやら。
ここら一帯からインフラが、崩壊して久しい。ガスはなく、電線は寸断され、水道はない。残った井戸には毒を撒かれた。
文人がいるのは中東のとある小国である。情勢はきわめて緊迫していた。貧困を端に発する紛争は都市部から全土に広がり、宗教問題や民族間の問題も絡んで混迷の一途を辿っていた。
政府は既に統治能力を失い、国連軍も幾度となく介入するものの根本的な問題解決の見通しは全く立っていなかった。
外務省の危険情報はレベル4。既に十年以上前から退去命令が出ている。文人が入国できたのも非合法なツテを頼ってのことだ。
ファインダーの向こう側にいる集団もその混迷から生まれた。
極左ゲリラから分派した一団は本来の思想とはかけ離れ、利益目的に犯罪行為を繰り返すようになった。傭兵の真似事だけでなく誘拐と略奪、麻薬製造と密売、金銭目的に犯罪を繰り返すテロリスト集団と成り果てていた。
彼らのような連中を撮影するのが文人の仕事でもあった。
若い頃からカメラマンを志し、花や風景を気ままに撮っていたが、やがて社会の不正や矛盾に心を占めるようになり、気がつけば世界各地の戦場や紛争地域、テロの現場を渡り歩くようになっていた。ヨーロッパや南米、アジア、アフリカ等々。被写体は傷ついた人々や破壊された建物に変わった。
周囲の者からは何度も危険だからと再三止めるようにと言われてきたが、そのつもりはなかった。世界には理不尽に苦しめられたり傷ついている人が大勢いる。安全で平和な日本ではなかなか見えない。文人がカメラで写したものは間違いなく、世界の現実である。現実を知らずして、どうして未来が作れようか。
当然、常に危険にさらされる。死ぬ思いをしたことも何度もあるが、文人はとうに覚悟は決めていた。悲しむような親族はいない。
世界各地の紛争地域や戦場を渡り歩く傍ら、写真を撮り続けた。撮った写真は日本の知人に送り、雑誌や新聞に掲載された。小さくもあるが、個展を開いたこともある。賞や名誉には無縁だったが元より有名になるつもりはなかった。
そして気がつけば半世紀が過ぎていた。
カメラマンとして活動し始めたのは、大学在学中だからもう七十を超えている。
「もういい年なんだから、あとは俺たちに任せて休んではどうですか?」
数少ない知人であり、後輩でもある岡元からは苦笑交じりに引退をすすめられたこともある。
「年寄り扱いするなよ」
文人は決まってそう反論する。
「お前の方が先なんじゃないのか」
岡元とて若い奴からすれば、三十年近い大ベテランである。文人とて右も左もわからない若造の成長を少しばかり手助けしたという自負はある。説教はごめんだ。
「畳の上では死ねませんよ」
「お互いにな」
実際大往生するつもりもなかった。平穏な生き方を望むならば別の人生もあっただろうが、後悔はしていない。
文人の周りには常に危険がつきまとっていた。骨折程度ならかわいいもので、拉致されて牢屋に閉じ込められたこともある。爆風で死にかけたこともある。それでも身を引こうと考えなかったのは、理不尽なものに対する怒りが常に胸の奥にくすぶっていたからだ。何の罪もない人たちがある日突然、命を奪われる。同じ地球に住みながら平和な国で平穏無事な生涯を過ごす者もいれば、ろくに乳も与えられず餓死する子供もいる。全ての理不尽をすくい上げられると思うほど傲慢ではないつもりだが、彼らの無念を、怒りを、ただ目を閉じ、見ないふりをして過ごすことはできなかった。文人の中にある魂の芯の部分が許さなかった。テロリストや武装集団の最大の支援者は武器商人や大国ではなく、世間の無関心だと文人は思っている。
自分に出来ることは彼らの無念を少しでも拾い上げることだ。そのために文人はカメラを手に、世界中の戦いの中に自らの身を投じた。両親の乗っていた飛行機が墜落した原因がテロリストの仕掛けた爆弾のため、というのも大きかった。
傷つき、人生をかけてもなお世界から争いはなくならなかった。賽の河原の石積みのような徒労感に襲われたことも一再ではない。あきらめかけたこともある。それでも、気がつけば戦いのある場所に赴いていた。
いつか自分は命を落とすだろう。もしかしたら十年後かも知れないし、今日かも知れない。
やれるところまでやるだけだ、と文人はふてぶてしく開き直る。
少々物思いに浸りすぎていたようだ。気がつけば武装集団は準備を終えて、次々と改造ヴァンやトラックの荷台に乗り込んでいる。
連中にも興味はあるが、今は後回しだ。
文人はシャッターを切りながらカメラを動かし、目的の人物を探す。
いた。
集団の最後尾、カーキ色の軍服を着た男に肩を抱かれるようにして車の後部からやはりターバンにカンドゥーラを着た小柄な男が乗り込むところだった。やはり顔の下半分を布で隠しているが、目の周りの張りのある肌艶は若さを通り越して幼さを感じさせた。正確な年齢は知らないが、おそらく十三~四歳といったところだろう。日本なら中学校に通っている年頃だ。
彼は三ヶ月前、親戚の結婚式に出席した帰りに銃器を持った男たちに車に連れ込まれたという。一緒にいた父親は殺され、彼はそのまま誘拐された。
国連軍や対立勢力との相次ぐ戦闘により、かの集団は多数の構成員を失っていた。そのため、近隣の村々から子供を誘拐しては戦闘員として「教育」しているのだという。今から彼らが襲撃に行くのはティルダラ村という、誘拐された少年の故郷である。
そう考えるだけで腹の奥から溶岩のような怒りがこみ上げる。憎悪と言ってもいい。
目のくらみそうな感情が沸き立つのを感じ、首を振って慌てて打ち消す。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
誘拐され、兵士として再教育された子供はほかにもいる。文人が知る限り、十人を超えている。その居場所を突き止める前にうかつな手は取れない。最悪、彼の身にも危険が及ぶ。
迷っていると、レンズの向こう側で動きが起きた。少年が背を押されるようにしてヴァンに乗り込む。背を向けてしまったため、表情をうかがい知ることは出来ないが、足取りは滑稽なほど震えていた。
それを見て側にいた軍服のが喚き立てる。口ひげを生やし、くぼんだ頬に突き出た目玉、かつて映画で見た生ける骸骨を文人は思い出した。声こそ聞こえないが、感情的になって責め立てている。偉大な……聖戦の……楽園……死後……救済……慈悲……。口の動きから途切れ途切れに読み取ることができた。宗教家のような美辞麗句とは裏腹に、男の態度はますます感情的になっていくようだ。
少年がやがて首を振ると、手にした自動小銃を投げ捨てた。誰の目にも明らかな拒絶の意思だ。
軍服の男は一瞬顔をしかめると、手にした自動小銃の銃床で少年を殴りつけた。
砂埃とともに少年の体が地面に倒れる。
地に伏せたままの少年に向かい、男は銃口を向ける。
まずい。
文人がとっさに身を乗り出した時、頭上できらめくものが見えた。反射的に顔を上げると、太陽と反対側、晴れ渡る空から血のように赤い光が瞬いている。赤い光は明滅を繰り返しながら少しずつ大きくなっていく。文人らの頭上に近づいてきているのは明らかだった。隕石、人工衛星、未確認飛行物体、宇宙船、あらゆる可能性が脳裏を駆け巡った。
文人は顔を上げた体勢のまま呆然と迫り来る光を眺めていた。心臓の鼓動が謎の光の明滅と同調していくのを感じた。遠くから現地の言葉でわめき立てる声が聞こえたが、不思議と気にならなかった。やがてまばゆい光が降り注いだ。
浮遊感を感じながら文人は意識を失った。
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