迷探偵の恋人は、いかがですか?
感想批評など、お待ちしています。よろしくお願いします。
2/12 一部修正しました。
「――以上で、私からの挨拶とさせていただきます」
まばらな拍手が体育館に響く中、私――生徒会長こと榎本夏希は、壇上から一歩下がり、頭を下げた。忘れずに教員の方々にも頭を下げ、舞台袖のような階段から降りていく。
生徒会長という役職は、嫌いではない。もともと誰かの指示に従うということに抵抗のある私だ。ならば私が指示する側に回ろうという試みは、少なくとも成功しているといえるだろう。
その、仕事量に忙殺されることに目を瞑れば。
私の手の中にある原稿はおよそ一五〇〇文字。四〇〇字詰原稿用紙でほぼ四枚分。これが、だいたい二ヶ月に一度はある。これを考えるのに二日ほど掛かった。というか、この程度そのくらいでこなせないと厳しい。
生徒会の仕事は、これだけじゃないのだから。
部活動関連の成績や資料をまとめるのは、うちの学校の場合は生徒会の仕事だ。各委員会の活動計画も、報告書の提出先は生徒会。それらを全てパソコンに入力しなければならない。他にも今日みたいな集会の挨拶、行事における全体の進行状況や各クラスから出される希望・申請の類の処理や許可に、目安箱に出された匿名の嘆願書の受理とまとめ、可能なら具体案を作成して教員に再度申請する。
これに加えて、自身の学業も手を抜くことはできない。
はっきり言おう。死ぬ。生徒会メンバーはみんな揃って瀕死だ。
普通の生徒はそんなこと関係なく高校生を卒業するだろう。そう考えれば、むしろ私はいろいろと失敗しているんじゃないだろうかと思うこともある。
とはいえ、そうして遅くまで学校に残っていても帰るのは先生方よりも早いのだから、教師という職の厳しさは凄まじい。
生徒会の仕事が彼らの負担を少しでも減らせるなら仕方ないかと、最近は妙な親近感すら覚える始末。
「お疲れ様。さすが榎本さん、かっこよかったよ」
「そうですか。ありがとうございます、瀬野くん」
生徒の列に戻った私に、小声でささやきかけてくる同じクラスの男子がいた。
瀬野豊。私の数少ない男友達だ。
身長は私よりちょっと高いだけ、男子でも特に小柄で、けどその分可愛らしいと実は女子の間で地味に人気がある。綺麗な顔してるのも、人気の理由だ。
だけどちょっと距離感が下手な瀬野くんは、話しかける時、たまにびっくりするくらい近いことがある。それが少し心臓に悪いのが、玉に瑕だ。
ちなみに今日の瀬野くんは体調が悪いらしくて、ちょっと顔が赤い。
彼は一年の頃に「えの(もと)」「せの」と苗字の語呂が似ている、という割としょうもない理由で話しかけてきてくれた。それから、いつでも笑顔の子犬っぽい雰囲気で、いつの間にか仲良くなっていた。
だが勘違いしないようにしなくてはならない。彼は誰とでも簡単に打ち解けてしまう奇跡のようなコミュニケーションスキルの持ち主だ。こんなに接近して話しかけてくるのもどうせ私だけじゃないはず。
ちなみに、私の話し言葉がやたらと固いのは癖だ。誰に対してもこんな喋り方になってしまっている。スピーチと日常会話で切り変えるのが面倒で、いつの間にか丁寧語で話すのが癖になったのだ。
ただ……私も女子なのだから、かっこいいという褒め方は内心で複雑である。
この子犬はたぶん裏なんて難しいことは考えていないだろう。素直……というより、隠し事が下手。
つまりは、本心からかっこいい、と思われているのだ。
複雑である。
とはいえ全校集会の最中だ。おしゃべりをするわけにもいかず、私たちはすぐに壇上の校長に視線を移した。
その手紙が届いたのは、そんな何でもない日の放課後のことだった。
『榎本夏希さんが好きです。お付き合いするためにはどうしたら良いですか?』
――なんて、目安箱に入れる人、いる?!
これは冗談ではない。
こんな手紙が大真面目に目安箱の中に入っていたのだ。放課後の生徒会の活動中に、回収した生徒会役員がそれを見つけて、ニヤニヤしながら私に手渡したのだ。
思わず十回くらい読み直して、私は机に突っ伏した。
恥ずかしくて死ぬかと思った。
ここまで大胆なことを書いておいて差出人は不明だ。いや当たり前か。むしろ書かれていたらどうしたら良いのかわからない。靴箱に差出人不明のラブレター、なんて古典的な方法でも対応に困る自信はあるが、目安箱は……ない。理解不能だ。どんな結論で目安箱に投函したのだろうか。その先に私が居ると知りながら。わからない。恥ずかしい。
ただ、噂は千里を走る。人の口に戸は立てられないという喩えの通り。
こんな(他人にとって)面白い話題が生徒会室だけで終わるはずもなく。
翌日か、その次の日には、学校中に広まっていた。
恥ずかしさで死ねる……。
「ねえ、なっちゃん、目安箱で告白されたって本当?」
「……はい、そのようです」
「やばーーーっ!」
クラスメイトの女子がキャアキャアと騒ぐ。
晒し者だ。集団での吊し上げだ。すわ新手のいじめかと思うくらいには、いろんな人から訊かれた。その度に、私は穴があったら入りたいという気持ちを痛感することになった。実際、顔が熱い。赤面症ということはないから顔色は変わらないだろうけど、恥ずかしさで火照るのはもはやどうしようもない。
ちなみになっちゃんというのは私のあだ名だ。クラスメイトの女の子たちはそう呼んでくれる。男子や他のクラスの子からは、かいちょ、と呼ばれる。何故か伸ばさない。ちょっとマヌケな感じ。
「ねぇねぇ、それさ、誰か分かるの?」
「いえ、わかりません。回収された目安箱は図書室にあったものなので……」
目安箱には各学年の廊下に一つと、保健室、図書室、購買に一つづつ。
図書室から投函されることは滅多にないが、その気になれば誰でも投函できる。しかも、他の場所と違って常に人がいるわけではないから、誰にも気付かれずに行うことは容易だろう。無駄に計画的な犯行だった。いや、犯罪じゃないけど。
「えー、誰だろ、気になるぅ。なっちゃんも気になるよね?」
「ええまぁ、はい……」
わかったら首を締めてやりたいくらいには、気になってます。
そんなこんなで、私はとても居た堪れない気持ちで毎日を過ごしていた。
差出人不明の手紙事件から、四日目。
噂で茶化されることは減ったが、いまだに尾を引いているのは否めない。いまは犯人探しから、予想合戦に発展している。
「5組の望田とか? ほら、勉強できるし、気が合いそうじゃん!」
「あはは……」
「あとは、そうね……三国! メガネ掛けてるやつ!」
「あのオタク? んーあー、でも、分かるかも」
「あはは……」
「やっぱ、なっちゃんは生徒会長だし勉強できるし、それ繋がりだって! ねぇ、なっちゃんもそう思うでしょ?」
「あはは……?」
「笑ってばっかりないで、なっちゃんも情報ちょうだいよぅ」
あはは、まだホームルーム前ですよ。朝一ですよ。
元気すぎるでしょ……やめてくれ。むしろ私が情報欲しい。
私の噂話よりも他に話すことがあるはずだと思うのだが、この空気はどうやらまだしばらく続くようだ。
そして、今日は瀬野くんが登校した。
実はあの具合の悪そうだった全校集会の翌日から欠席していたのだ。保健室にも行っていたし、本当に具合が悪かったのだろう。
まだ少し体調が悪いそうで、少し顔が赤い。マスクをしての登校だ。朝のホームルームが始まる寸前に登校した彼は、まっすぐ私の席にやってきた。
小さく咳をしている。どうやら、完全には治ってはいないようだ。
「ねぇ榎本さん。聞いたよ、大変なんだってね。はは、図書室からの手紙」
「はい。少し……困っています」
さらっと、なんでもないことのように切り出された。びっくりした。
噂をもう知っていることに驚いたのだ。
とはいえ、休んでる間にも連絡は取れる。誰かに教えられたのだろう。そう考えれば別に不思議な事は何もない。
そこまで話題になってしまったこの噂を呪うだけだ。
ちなみに、困っているのは本当だ。生徒会の仕事が、少しまずい。
実は三ヶ月後に我が校の文化祭がある。
他の学校と時期をずらして、多くの人に来てもらおうという狙いなのだが、そのせいで行事の合間が短い時があるのだ。
今回は合唱コンクールのすぐ後になってしまい、間が三ヶ月しか無い。生徒会に苦情が来るくらいには厳しいスケジュールだった。とはいえ、もはや直前と言っていい今から変更も難しい。一応、かなり前から各クラスへ合唱の練習と合わせて文化祭の準備を進めておくように、とは通達してある。
申し訳ないとは思うが、こっちも激務だ、諦めてほしい。
話は戻るが、そんなわけで生徒会メンバーは必死になって書類をさばいているのだ。しかし私のほとんどお笑いのような事件のせいで緊張の糸がぷっつり切れてしまった。そして戻らない。まずい。
会長の私は、内心で結構焦っているのである。
という話を、瀬野くんにざっくり説明した。
ほとんど愚痴になった。あはは……。
瀬野くんはなんだか複雑な表情で眉根を寄せている。
それもそうだろう。生徒会が機能しなければ、結局大変なのは各クラスだ。例えば文化祭でガスコンロを利用したいクラスなんかは、申請遅れで開催できなくなる場合もある。
地味だけど切迫した問題だ。
「そんなことになってるんだね」
「ええ。とはいえ、相手が誰かわからなければ区切りのつけようもありませんし……今月中には、どうにか持ち直さなければいけないのですが」
ふんふん、と頷いていた瀬野くんは、すこし悪戯な笑みを浮かべた。マスク越しでもなんとなく分かる。
子犬がおもちゃを見つけたみたいだ。
「よし、じゃあ僕らで誰が目安箱にいれたか、探してみようよ」
「はい……? いや、それは……」
「だって、はっきりしないと困るんでしょ? 事が大きくならないうちにさ、他の人にバレないように二人でやればいいじゃん。実は僕、推理とか得意だからね」
「そうなんですか」
なんでこんなに乗り気なのだろうか。好奇心が疼いてしまったのか。それより体調は大丈夫なんだろうか。
まぁ、本人がやりたいというのだから、かまわないのだろう。
もしかして子犬のここ掘れワンワン的な勘が冴えて、何か分かったのかもしれないし。ふふふ。
私に断る理由もない。それに、実を言うと興味がなかったわけでもない。
一年の頃から副会長、二年になって生徒会長としてずっと仕事に追われた身だ、少しくらい遊びたい、なんて思っているのも事実。……私だって女の子なのだ。
勉強が恋人ではない。
小・中・高校一年とこれまで灰色の青春になってしまったが、少しくらいは……恋に憧れたりしても、いいはずだ。そう、少しくらい。
来年は受験だ、そうなればチャンスはいまだけ。
本音ではもうちょっと普通が良いとは思うのだが、もはや言っても仕方ない。
「わかりました。では、よろしくお願いします。探偵さん」
「うん、任せてよ。名推理しちゃうから」
気前よく笑った瀬野くんに、なんだか私も楽しくなって、微笑み返した。
◇
その日の放課後。生徒会のメンバーに、今日は用があって顔を出せない、と伝言してから瀬野くんと合流した。ちなみに忙しいというのに、二つ返事でオッケーがでた。告白と思われているかもしれない。っていうか、絶対そうだ。
伝言を受けた書紀の女の子の目がらんらんと輝いていた。
お相手は瀬野くんですってか。誤解です。
それはさておき、瀬野名探偵、もとい捜査犬が最初にここ掘れワンワンしたのは順当というか当然というべきか、図書室だった。
まあそう来るよね、とそこに驚きはない。
「よし、放課後は図書委員の子が居るはずだから、まずその子に聞いてみよう。見た人がいるかもしれないし」
「はい、そうですね」
むしろ驚いたのは、子犬が自慢げに尻尾を振っているからだ。どうだと言わんばかりのドヤ顔を披露してくれた瀬野くん。私にはその頭の上で犬耳がぱたぱたと動き、しっぽがぶんぶん振られているのが見える。
誰でも思いつくような調査の一歩目から、なぜそんなにドヤ顔できるのだろうか。でも子犬だから仕方ない。飼い主にいいところを見せたいのが子犬の可愛いところだ。バカな子ほど可愛いと言うし。
愛嬌があっていいじゃないか。
飼い主は寛容なのだ。
今日の図書委員は篠田さんという女の子だ。一年生の子で、最近図書委員会になった子だ。自主的に図書室の当番を引き受けるらしくて、今回のことを訊くには適任と言える。
「あの、ちょっといいかな?」
「あ、はい。図書の貸出ですか? ……あ、かいちょさん」
瀬野くんが声をかけたのに、篠田さんが目を向けたのは私の方だった。哀れ子犬は序盤から話が私に流れて、ちょっと悲しそうな顔をしている。
いいね、子犬はしょぼんとしてても可愛いね。くすくす。
とはいえ、せっかくなのでそのまま私が話を引き受ける。
「こんにちは。図書委員会には上手く馴染めていますか?」
「はい。かいちょさんの言うとおり、全然平気でした」
「それは良かった」
篠田さんがにっこり笑顔になる。
実はこの子が図書委員になる前に、委員会に入ることに悩んでいると相談を受けたのだ。人見知りがある子で、知らない人達と上手くやれるかどうか、不安だったという。新入生に対して生徒会長という看板が役に立った……というわけではなく、篠田さんが最初に相談した教師が、私に相談してはと丸投げしたのだ。
仕事しろ。
まぁそんな縁があって、顔を合わせれば少し話をするくらいの関係だ。
「実は、全校集会の日に目安箱に何か入れた人がいないか探してるのですが……何か知りませんか?」
「ああ、あの話ですね」
「その様子だと、どうやら知ってるみたいですね……」
「あはは、有名ですから。でも、その日の放課後も私が図書室にいましたが、あの日は誰もきませんでしたね」
篠田さんが、クラスの子にも訊かれました、と苦笑する。どうやら既に調査の手は及んでいたようだ。
横で聞いていた子犬は、出遅れたことに少しがっかりしているようだ。しょぼくれている。雨に濡れた子犬……くすくす。
「そう、聞きたいことはそれだけ……いえ、何かおすすめの図書はある?」
「あ、かいちょさんにおすすめしようと思っていた本があります!」
篠田さんはいそいそとカウンター下を探ると、一冊の文庫本を取り出した。
私はそれを受けとり、表紙を眺める。タイトルは――
「『キミを好きになる』……恋愛小説?」
「はい。とってもドキドキして、おすすめです!」
「あ、それ知ってる」
意外なことに、隣から声が上がった。
本人も驚いたような顔をしているから、まったくの偶然だったようだ。しかし、恋愛小説なんか読むんだ、瀬野くんって。ちょっと意外だ。
「妹がオススメしててね、それ僕も読んだよ。恋愛小説なんてめったに読まないけど、確かに面白かった」
「そうなんですよ! 特に主人公がすっごい鈍感で――」
篠田さんが、きらきらした表情で食いついた。私はそこにマグロの一本釣りを幻視する。見事な食いつきだ。
そのまま、作品の感想について楽しそうに語り合う二人。あっという間に私は置いてけぼりだ。……面白くない。
ところで瀬野くんに妹がいたことは知らなかった。妹も子犬属性なのだろうか。
わんちゃん二匹。かわいい。似ているのか気になる。
二人が話している間、手持ち無沙汰になった私は小説の背表紙にあるあらすじを読んでみた。女の子の好意に鈍感な少年が繰り広げる、ドタバタラブコメディのようだ。なるほど。ちょっと興味がある。
鈍感な男子というのは、結構それなりにいるらしいと、周りでも何人かの女の子は話していたし。
私がそんなことを考えている間にも二人の話題は盛り上がっていた。
放って置かれるこっちとしては、やっぱり面白くない。篠田さんが輝かんばかりの笑顔で、瀬野くんもあんまり見たこと無い笑顔だ。意気投合か、お似合いか。
子犬の癖に主人を放って遊ぶんじゃないよ。ちぇ。
それにしても篠田さん、けっこう人見知りだと思ってたけど好きな話題になると気にならなくなるみたいだ。この調子なら図書委員もほんとうに上手く行っているのだろう。良かった。
ウチの子犬は相手の勢いに若干押されつつも、純粋に物語に共感できたのか要所要所で篠田さんのトークに食らいついている。
……ただ、時間が少々惜しい。瀬野名探偵にはもっと頑張ってもらわねばならないのだ。解決はできれば二日くらいで。
とはいえどこで話しかけたら良いのだろうかと悩む。すると、ようやく篠田さんが気付いてくれたようだ。しまった、という顔をした後、ちょっと慌てた様子で申し訳無さそうな愛想笑いを浮かべる。
私は気にしていないよと、小さく笑いかけた。
「で、では、そんなカンジでとってもおすすめなので、ぜひ読んでみてください」
「ええ、ありがとうございます」
目で礼をし、小説を受け取って図書室を後にする。
廊下に出ると、瀬野くんは目を丸くして驚いたような顔をしていた。
興奮したみたいに勢いこんで顔を近づけ――って、近いよ、ちーかーいー。
「びっくりした。あの子ってあんなに話すんだね。前に見た時はすっごい静かだったから、意外だったよ」
「ええ……私も驚きました。……それで」
ちら、と瀬野くんを見上げる。角度的に睨んでいるような眼つきになってしまっただろうか、瀬野くんがぴくりと肩を揺らす。とはいえ、私も置き去りにされてちょっと思うところがなかったわけでもない。
誤解は解かず、そのままにした。
くすくす、ちょっとは反省なさい。
子犬枠なのに私よりも少しだけ身長高いのがいけないのです。悔しい。
私も一六〇センチ欲しい。並ぶといつもそれを考えてしまう。
「名探偵さん、次はどうします?」
「あ、うん。……えっと、ね」
どもる瀬野くん。
必死にあたりを見渡しているが、当然代わり映えのない校舎だ。
やがて諦めたような顔で、苦笑を浮かべる。
「もしかしてプランはお終いですか? だとしたら、大した迷探偵ぶりですが」
「あ、あはは……」
からかってやれば、瀬野くんは面白いようにうろたえる。それが、少し楽しい。我ながら意地が悪いとは思うが、これはさきほど私を除け者にした罰だ。
あれ? さっきもそんなこと考えたような。
それにしても、朝のホームルームの自信満々な様子は一体何だったのか。
まぁ、仕方ないか。子犬だし。愛玩動物枠だし。
ここ掘れワンワンを見事に外したのだ、くすくす。
ちなみに、私は笑っているのをあまり顔に出さないタイプなので、笑っているのには気付かれていないだろう。
「んー、まって、ちょっと考えるから……」
瀬野くんはそうして、腕を組んで考えている。
もっとも、ここまで予想の範囲内だ。そもそも、そんな簡単に判明するなら苦労はない。
私も篠田さんにから聞いた話をまとめる。
目安箱は毎日放課後に回収される。つまり例の手紙が投函されたのは、生徒会の子が回収した前日の放課後から、翌日の放課後までの間になる。篠田さんによれば放課後は誰も来なかったという話だから、当日図書室に来た人は休憩時間か昼休み、もしくは授業中という三つに絞られる。
とはいえ、授業中だろうがその気になればトイレに行くと言えば疑われること無く出ていくことは可能だろう。休憩時間でも、図書室のある校舎は少々離れているとはいえ行けないわけでもない。昼休みは言うに及ばず。
うん、真っ暗闇だね。
情報が足りなすぎる。
「仕方ないですね……森下先生に話を聞いてみましょう」
「……え? 森下先生? なんで?」
「仮に二年生が図書室に向かう時に一番近い通路を通るなら、校舎の構造上、一年の教室の前を通ります。もし授業中に抜け出したなら、誰かが通ったことくらいは覚えているかもしれません。森下先生に決めたのは、一年生の授業はだいたい森下先生がなにかしら受け持つからです」
「な、なるほど……さすがだね、榎本さん。僕は思いつかなかったよ。やっぱ勉強できる人は違うなぁ」
ええ、そうでしょうとも。
もっと褒めてくれても良いのですよ。
「三年生か一年生が投函したのなら無意味ですけど……、一年生は考えにくいでしょう。これは目安箱の利用率が一番低いためです。加えて、図書室の利用状況も一年生はかなり少ない傾向にあります。このことから、図書室に目安箱がある、ということそのものを知らない可能性も考えられます」
だからなんだって話なんだけどね。
狭い仮定だ。二年生、一番近い通路、授業中、森下先生が気付く。これらの条件が全て揃った場合なんて、バスケットコートの端から投げたボールが運良くゴールリングに入るくらい、狭い範囲の可能性を探っている自覚はある。
ただ、個人的に三年生とは接点があまりないため無いと考えている。一年生も、さっきの篠田さんを除き、直接関わった生徒は少ない。私が光り輝くような美少女ならばともかく、どこにでも居る普通の女子だと思っている。願っている。一目惚れなんて、それこそ少女漫画のような展開はないはずだ。
もし私を好きになってくれる人がいるとしたら、同学年の二年生である確率が一番高いと考えるのは、別に大した推理なんて必要ない。
別に、そうだといいな、なんて期待しているわけではないのだ。
具体的な人なんていない。
いないったらいないのだ。
「ふ、ふーん、なるほどねぇ」
「ええ、森下先生ならこの時間は宿直室に居ることが多いですから、伺ってみましょう」
お株を奪われた事に動揺したのか、子犬がうろたえている。探偵という自分の役目を取られたと思ったのだろうが、それは違う。瀬野くんは何度も言うけど子犬枠だから。私にとってはマスコットキャラだから。
居るのが存在理由みたいなものだし。
とある配管工がいつも守ってるお姫様みたいな……すると私がひげ?
それは……ちょっと……嫌だな。
「では、いきましょうか」
「うん」
そのとき、ふと一瞬浮かんだ考えを振り払った。
……まさか、ね。
◇
森下先生は宿直室でタバコを吸っていた。五〇歳近い男性の教師だ。
もちろん私たちが声をかけて部屋に入る前に慌てて消しているが、場に残った匂いと先生の口から漂う匂いはどうしようもない。
父親がタバコを吸うので私自身はあまり気にしないが、教師が学校で吸うのはいかがなものか。もっとも、慌てて消したことから良くないことだとは分かっているようだし、ここは可愛くない愛想笑いに免じて、気づかなかったことにする。
「おう、ふくかいちょ……と、瀬野か。珍しい組み合わせ……でも、ないか?」
森下先生のふくかいちょ、という呼び方は、先生が私達の一学年の担任だった頃からだ。そのときは副会長だったかららしい。いまはもう会長なのだが、なぜか森下先生はその呼び方にこだわっている。
ちなみに、かいちょ呼びはなぜか他の教員にまで浸透している。
……本当になぜだ。
「いえ、大したことではないのですが……授業中に出歩いていた生徒を見かけたことはありますか? 一年の教室から見えたりしたもので」
「ん、また変な質問だな。生徒会の調査か何かか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……覚えはありませんか?」
「……ああ、いるぞ。毎日一人か二人は、トイレかなんか知らないが、授業中でものんびり歩いてるからなぁ」
森下先生は腕を組んで、最近の若いやつらは、と先生お得意の枕詞を使って文句をブツブツ呟く。放任主義の先生が増える中、森下先生は生徒のことを真剣に考えてくれる、いい先生だ。小言が多いけど、その指摘は正しい事が多い。
ただ、一部の生徒からはタバコ臭い、と文字通り煙たがられている。
それは直した方がいいと思います。
「四日前の全校集会の日にもいましたか? 二年生とか」
「ああ? どうだったかな。生徒はいたとは思うんだが……二年だったかな?」
うーん、と考え込む森下先生。
うちの高校は学年でネクタイ、リボンの色が違うため、ぱっと見で判断がつく。ただ、それでも廊下に居る生徒の色まで、確認できるかは怪しい。
森下先生はふと遠くを見るような仕草をすると、私の方を見る。いや、私ではない、少しズレている。
考えるときの癖だろうか。
しばらくして、先生はすまねぇ、と苦笑した。
「悪いが、何年生かは覚えてないんだわ。男子がいた事は覚えてるんだがなぁ」
「そうですか。ありがとうございます。話はこれだけです――が、教員の健康診断は来月ですよ、先生」
森下先生の指が癖のように懐の膨らみに伸びるのを見て、つい私はお節介をしてしまった。どう見てもタバコのケースだ。ここは学校だし、生徒の前で吸われると流石に森下先生自身の悪評につながる。
「はは、流石。ふくかいちょには敵わねぇな」
「ご自愛ください。では、失礼します」
「失礼しました」
瀬野くんが深々とお辞儀をしているのを横目に、私も軽く頭を下げる。
宿直室を出た。
◇
お手上げだ。
他の先生に聞くこともできるが、わざわざ四日前の一年生の授業を調べて、その担当の先生のところまで聞きに行くのは……無理じゃないけど、流石に手間だ。
それに、森下先生同様、覚えているかどうかも怪しい。
「名探偵の瀬野くん、そろそろ解決しましたか?」
「んー全然わかんない」
瀬野くんがとうとう調査を放り投げた。これで名実ともに迷探偵だ。
いっそ清々しさすら感じるその微笑みに、つられて笑ってしまう。
私はびっと人差し指を突きつけて、ちょっと偉そうに宣言した。
「瀬野くん、戦力外通告です」
「……すいません」
「くすくす、冗談ですよ……教室に戻りましょう」
たった一日調べただけで、高校にいる三〇〇人近い生徒の一人を特定するなんて到底無理な話だ。現実的じゃない。
それは始める前からなんとなく分かっていた。
なんとなく……。
そう、なんとなく分かったことなら、ひとつあるのだ。
「瀬野くん、聞いてもいいですか?」
「ん、なに?」
「休んだのは体調不良でしたよね?」
「うん、そうだよ。それがどうかしたの?」
へぇ、と私は頷く。
「休んでる間、お友達とよく話したのですか?」
「いや……普通に寝てたよ」
「それは、ずっと退屈だったでしょう」
「まあね。テレビつけっぱにして、ずっとニュース見てたよ」
……ふーん。
あ、そう。
へー、ほー。
「瀬野くん」
「なに?」
「差出人って、瀬野くんだったりします?」
そう言って、私は瀬野くんの目を見つめた。
私の視界いっぱいに、目を丸くした瀬野くんが映っていた。
◇
「違和感を感じたのは、篠田さんと話した後です。こう言ってましたね。前に見た時はすっごい静かだった、って」
返事をしない瀬野くんの反応をあえて見ない……いや、見れないのだけど。
私たちは廊下をトコトコ歩く。
歩く度に、心臓が爆発しそうになっていた。けれどできる限り、普段通りに歩くように意識する。
それにしても、瀬野くんはなんでさっさと私を止めないんだろう。
でないと、冗談ですよって、言うタイミングが見つからない。
正確には、冗談にできるタイミングだ。
喉が妙な緊張で乾いていくのを感じながら、仕方なく続きを話す。
「篠田さんが図書委員になったのは、つい最近です。実は私が相談を受けたので、よく知ってるのですよ。だから、瀬野くんは最近――少なくとも二週間以内に、篠田さんが図書委員をしているときに図書室に行ったことがある、ということです」
少しずつ、頭を整理しながら。
私は考えていることを言葉に変換した。
「もちろん、二週間あれば図書室に向かうこともあるかもしれません。けど、瀬野くんに関しては、おそらくそれはありませんよね? 昼休みも放課後も、よく教室で友達と話をしているところを見ます。私、瀬野くんのこと、よく見てるので」
あ、やばい。いまの一言余計だったかも。
心臓が妙な跳ね方をした。……発作起こして死にそう。
「あの日に図書館に来た人はいない、と篠田さんは言っていました。なので瀬野くんが篠田さんを知ったのは、その日の放課後より前になりますね。下見だったんでしょうか。それとも単純に日を変えたのか。……そうなると、ではあの日、どのタイミングで図書館に行ったのか」
無人、というわけではない廊下。でも多くの生徒は部活や習い事、もしくは遊びに行っているため、ほとんどいない。まばらにいる何人かが私の話を聞いているとは思うけど、何の話かさっぱりだろう。
実際、喋ってる私がふわふわした気分なのだから。
「ヒントは森下先生と話しているときです。去り際、深いお辞儀でしたね。まるで……そう、まるで何か感謝するみたいでした」
後ろの足音は、怖いくらいに平然としている。……不安だ。
振り向きたい。振り向きたいけど、怖くてできない。
どんな顔をしているの?
どんな気持ちで、黙ってるの?
「もし、森下先生が、廊下を歩いていた生徒を見ていたら。それどころか覚えていたとしたら? ねぇ、どう思います? 二年生の男子で、一番小柄な瀬野くん。他の生徒なら忘れてしまうかもしれませんが、瀬野くんは覚えやすいでしょう。更には翌日欠席したことも朝の職員会議で話は出ているでしょう。あ、昨日の生徒休んだんだな。森下先生がそう思って、記憶に残っていた可能性は、私はそう低くないと思います。なにせ、去年の私達の担任の先生なんですから。それを、あえて黙っていたとしたら、それは本人がその場にいたから……そう思いませんか?」
背後の呼吸が若干怪しくなっている。息遣いが、荒い。
大丈夫なのかな。風邪じゃないよね?
「それで、もしかしたら授業中に図書室に行ったのかな、と思いました。そういえば、瀬野くんはあの日体調不良だと言って、保健室にも行っていましたね、授業中に、です。保健室にも目安箱はあります。でも保健室だと保健の先生もいますし、記録を見れば誰が来たのかすぐに分かってしまう。それでは匿名で出す意味が無いですからね」
あ、まずい。足が震えてきた。
理由は……緊張? なんだか怖いよ。
初めて生徒会長として全校生徒の前でスピーチしたときと同じくらい……いや、もっと緊張してる。
うう……死にそう。
「そして、最後のピースは……瀬野くん、今日の朝、まっすぐに私のところに来ましたね。その時はもう誰かに話を聞いてるのかと思ったのですが、今思えば不自然この上ありません。だって、朝のホームルームぎりぎりに教室に来た瀬野くんが、誰から噂を聞くというのでしょう? しかも目安箱の位置が図書室だという詳しい話まで知っていましたね。そこまで詳細に話す時間が、どこに? あの時間です、一緒に登校してきた生徒は、誰もいなかったでしょうし、現に瀬野くんは一人で教室に入ってきました」
だから、さっき確認したんだけどね。
休みの間に、友達と話しましたか? って。
話し続けている間に、私たちは教室についていた。
自分の席に向い、テキパキと机の中に入っていたテキストの類を鞄に詰め……詰め、詰められない。手が震えて、上手く持てない。なんだ、これ、はは。なんだ、自分の手じゃないみたい。
立ち止まると、足元で工事でもしているのかというくらいに、足が、震える。
わ、恥ずかし、ちょ、ホント、ホント止まって……!
「誰にも説明されなくても全部知ってる人なんて、一人しかいませんよね……? あと、有名なこんな言葉もあります」
一枚だけのプリントが何枚かぐっしゃぐしゃになってしまったのを、頭の隅の冷静な私ががっかりしながら眺めている。でも、仕方ない。私の身体の制御は、いま謎の振動が支配しているのだ。
ごくり、といつの間にかカラカラに乾いた口で、つばを飲み込み。
「犯人は現場に戻ってくる。あれは一説によると、自分の起こしたことに不安を感じた人が、その様子を直に確認しようとする心理から来ているそうなのですが……どうでしょう。差出人探しを始めたのは、そんな心理が関係したとしたら、説明がつくと思うのです」
ねぇ、いいんですか?
このままだと、ぜんぶ、暴いちゃいますよ?
もう、鞄に詰めるものはない。
瀬野くんを直視できずに足元を見るのも、限界だ。
反応が怖い。それっぽい事を言ったけど、全部勘違いだったら? すっごいびっくりするような偶然だったら? 何もかもがたまたまだったら?
苦笑されるだけなら、いい。
変な子と思われても、いい。
もし。もしも、だ。
軽蔑したような目で、見られていたら?
そんなやつとは友達ではいられないって言われたら?
せっかく仲良くしてくれた大切な人が、離れてしまったら?
それが、怖い。どうしようもなく、怖いのだ。
瀬野くん。どうして何も言ってくれないんですか?
私はもう、これ以上、何も言え――
「すごいね、夏希は」
「な――ッ?!」
声は、予想外なほど近くから聞こえた。その衝撃で、夏希と言われた驚きなんて一瞬で吹き飛んでしまった。
想像していたよりも、ずっと落ち着いた声だ。慌てる様子なんてこれっぽちもないみたいな、どこか楽しむような声が、耳元から響いてくる。
慌てて顔をあげると、本当にキスでもするのかってくらいの距離に、瀬野くんの顔があった。視界いっぱいに、顔が……あ、っち、近い!!
ほとんど強制的に、目が合う。
ぞわり、と得体の知れない感覚が背筋を撫でた。
それは不思議と、嫌な感じではない。
瀬野くんは、見たこと無いような表情で私の目をじっと見ていた。すっごい近い距離で、まるで悪戯をした猫をどうやって叱ってやろうかとほくそ笑むような、そんな嗜虐的な目だ。ずっと視線を合わせていたら、私の中の何かが変わってしまいそうで、とっさに目を逸らす。心臓がうるさい。壊れてしまいそうだ。
逸らした視線の先には、いたずらに吊り上がった唇が見える。
つやつやしてて、あかい。とってもやわらかそうだ。
首をちょっと傾けてしまえば、そのまま触れられそ――
って、わたしは、いま、何を考え――っ?!
「わ、っ、あ!」
驚きすぎて、声も上手く出ないまま、ただ、距離をとろうと後ろに下がろうとする。けれど私はあっさり転びそうになって、とっさに目をつぶった。
運動神経が悪いわけじゃない。
足が変にガクガクして、まったく力が入らなかったのだ。
でも、ぐいっと固いものが私の腰に回ったかと思ったら、そのまますごい力で引き上げられた。びっくりして閉じていた目をもう一度開くと、そこには、
「ち、ちちち、近い、さっきより、近い」
「近づけてるからね」
瀬野くんは、満面の笑みだ。なぜそこで?
これは……どういうことなの? 何が起きてるの?
あれ? 私の子犬はどこに行ったの? なんで目の前にいるのが狼なの? きぐるみだったの? どっちが? きまぐれ? もしかして猫のきぐるみもあるの?
あまりのことに頭の中はお祭り騒ぎだ。
小柄だけど、想像よりもずっと力強い腕は、揺らぐこと無く私の腰を抱き寄せている。
「せ、瀬野くん! こんな、こっここここ、恋人みたい、抱いちゃ、だめっ!」
「どうして?」
どうにか絞り出した言葉に、絡みつくような声と、視線。
背筋が、震える。得体の知れない感覚はまるで、毒を飲まされているよう。
っていうか、違う! どうして? どうしてですって!?
そりゃ、私たちは付き合ってないし! 恋人じゃないのに!
そういうことをしちゃいけませんって、常識的にというか、道徳的、モラル的な――まさかっ。瀬野くんって肉食系? 女は抱いてから考えるとかいうタイプ?
うそ、そんな、私の子犬ちゃんなのに? あ、もう違う……の?
「だ、だめ。それは、だめ」
「ねぇ、もしかしなくても……」
「っひ」
息が、頬に当たる。
「夏希さ、僕のこと、好きだよね……?」
――あ。
ばれた。
◆
「違和感を感じたのは、篠田さんと話した後です。こう言ってましたね。前に見た時はすっごい静かだった、って」
そこから始まった推測に、僕は舌を巻いた。
名推理だ。なるほどこれが名探偵か。状況も忘れて思わず拍手しそうになった。
廊下を優雅に歩く、ちっちゃくてかわいい生徒会長――榎本夏希の背中を見ながら、僕は心の底から驚いていた。
さすがは学年主席。生徒会長の肩書は伊達じゃない。それとも、これが女の勘ってやつなのだろうか。それにしては理路整然としている。
普通、気付くだろうか。僕が分かりやすかったのか? それも直接証拠があったわけじゃない。彼女は全ての情報を、頭のなかで組み合わせたのだ。
というかよくそんな細かい所まで見ていたな、なんて別種の感心がこの状況を忘れさせる。
「――昼休みも放課後も、よく教室で友達と話をしているところを見ます。私、瀬野くんのこと、よく見てるので」
その一言で、カチリ、と僕の中の何かがハマった気がした。
まるで映写機のスイッチが押されたように、僕の中から様々な情報が脳裏に映し出される。
いままでの学校生活で、僕が彼女を見ている時に彼女と目が合うことが多かった。今まで単に、露骨に見すぎたのかと思っていた。
もしかして、榎本……夏希も、僕のことを見ていたとしたら?
それを証明するかのように、彼女は僕を、よく見ている。僕の何気ない言葉をしっかりと覚え、僕の仕草に注意を払っている。
僕に、関心を寄せてくれている。きっと、気のせいじゃない。
それが分かったときの歓喜を、どんな言葉で表せば良いんだろう。叫び出したいような、ひどく乱暴な欲望が、僕の中に溢れ出してくるのを感じる。
ちょっとした悪戯のつもりだった。目安箱に入れた手紙なんて、誰が入れたかわからない。ちょっとした日常のスパイス、その程度のお遊びだ。
それで夏希の生徒会に迷惑をかけたのはとんだ誤算だったけど。
実のところ、夏希を陰で慕う男子は多い。
可能ならこのまま彼女を連れ去ってしまいたくなる。腹の底から生まれてくるのは、そんな危険な思想だ。それはじりじりと身を焦がすような熱を持って、全身の血管を毒のように巡っている。
最初は、ただ、気になっていただけの女の子。
一年の頃、話しかけようと思った理由なんかわからなかった。名前が似ているなんて、そんな適当な理由をつけて話しかけてみた。打てば響くような、そんな応答が楽しかったことを覚えている。ちょうど今みたいに、彼女はさり気なく賢者であることを香らせた。
今にして思えば。それが僕を狂わせたんだろう。
息をするのも苦しいほどの、不思議な衝動。
自分が一匹の獣になったような、そんな感覚。彼女が僕に望むのは、優しい僕だ。でもその殻は、偽りの姿は、いま酷く……ジャマだった。
気づけば、いつの間にか教室に居て、榎本は鞄の中に荷物をしまっていた。
でも、逃げない。
見たことがないほど耳を真っ赤にして、少し涙目で震えている。その姿は、可愛いらしくて、素敵で――
僕のものに、したくなる。
彼女は帰っても良いはずだ。この場から立ち去っても、良いはずだ。
それでも逃げないの、なら。
「すごいね。夏希は」
捕まえても、良いはずだ。
ゆっくり近づいて、いつものように囁く。
僕の声をしっかり聞いてもらえるように、仲が良くなった頃から初めたちょっとしたお遊び。彼女は僕が誰にでもこんな話し方をすると、思っているのだろうか。
突然バランスを崩した夏希を、さっと捉える。
ちょうど良かった。これでもっと近付ける。
「ち、ちちち、近い、さっきより、近い」
「近づけてるからね」
慌てている夏希を苛めたくなるのは何故だろう。これまではうまく押さえ込めていたはずの感情が、いまはどんどん溢れ出してくる。
「せ、瀬野くん! こんな、こっここここ、恋人みたい、抱いちゃ、だめっ!」
「どうして?」
疑問だ。ここまではっきりと態度で分かって――ああ、なるほど。僕の中のひどく冷静な部分がふと思い出す。
まだ、僕の気持ちを伝えていなかった。
あまりにも夏希が可愛いから、つい暴走してしまったことを、正直に認めよう。
……離す気は、ないのだけれど。
すると何を勘違いしたのか――いや、もしかしたらそれは勘違いではないのかもしれないのだが――夏希は泣きそうな目で首をちいさく横に振った。
「だ、だめ。それは、だめ」
「ねぇ、もしかしなくても……」
「っひ」
どうして、こうも彼女は僕の理性を溶かそうとするのか。
もっと、全身で触れたくなる。気持ちが溢れてくる。
そのために、少しずつ変えなくちゃ。
この腕の中の名探偵さんに。愛しい女の子に。
「夏希さ、僕のこと、好きだよね……?」
何もかも壊していく言葉で、作り変えるんだ。
◆
あなたが好きです。
なんて、言う前にバレてしまった恥ずかしさを、知っているだろうか。
心臓が止まりかけた。
逃げ出したい。逃げたくない。
私の頭のなかで、二つの感情がくるくると入れ替わっていく。
これは望んでいた。心の何処かで。一年生のいつごろからか望んでいたことだ。友達の枠を超えて、次の関係を想像したことは、何度もあった。
けれど叶わない願いだと思っていた。
手を伸ばしたら消えてしまうかもしれない。それよりは、ずっとこのままで。
私の小狡い思考は、安寧を支持したのだ。
……きっと今、この優しくて荒々しい抱擁を抜け出せば、昨日までの二人に戻れる気がする。きっと。なんの根拠もなく、私はそう確信した。
けれど。
もしかしたら、両想いかもしれない。
そうだ。遠回しに、認めた。すごいねって言ってくれた。心臓が耳のすぐ後ろで暴れているようだ。どくん、どくん、という音しか聞こえない。
あれが遠回しな皮肉やからかいでない限り、私たちは両思いだ。
でも、ずるい。
私の気持ちだけ、一方的にバレてるなんて、そんなのずるい。泣きそうだ。
そんなの。そんなの――
「僕は、夏希が好きだよ」
不意打ちのように告げられた言葉。
今度こそ心臓が止まってしまったのだろう。
「ねぇ、――迷探偵の恋人は、いかがですか?」
いや、止まったのは時間だろうか。
それでも胸のうちから溢れるこの喜びを、なんと表現したら良いのだろう。
どんなに言葉を紡いでも届き得ないその思いを、私は、少しでも伝えたくて。
自分の、言葉で。
「私も、好きです」
その次の瞬間、そっと唇に押し当てられた熱が、どこまでも私の中をめちゃめちゃにしてしまった。
……もう、死んでもいい。
――こうして、私に恋人ができた。
迷探偵だというけれど、あのときの彼は紛れもなく名探偵で、私のココロの中を読み解いてしまった。これ以上無いほどに。
あの日感じた毒は、私たちを少しずつ狂わせる。
けど……私は生徒会長だから。
いまはまだ、ここまで。
お読みいただきありがとうございました。
本作はたちまちクライマックス! 創刊記念の応募作として書きました。ハラハラ謎解きではなく、胸キュン賞なのですが……作者の胸は不安にぎゅんぎゅんしています。
ちなみに、小学校高学年から中学校向けの児童書だそうです。
……ええ。
規定文字数は1万6000文字だそうです。
本作は……改行、空白なしなら16000台デス。限りなく17000に近いけど。
含めたら18000……ぎゅんぎゅんしています。