Pocket Story
あれは、確かに恋だった。
私が中学2年の冬、マリ先輩が中学3年の冬。
カリカリとシャーペンを走らせる音やページをめくる音だけが響く。
試験期間中は21時から24時まで勉強していいことになっている、地元の、小さな塾の教室の中。
いつも私は最後まで残って勉強をする。
マリ先輩もいつも最後まで残って勉強をしている。
下心。
試験対策は充分できている。
私にあるのは二人きりになりたいという、単なる下心。
マリ先輩はきっと受験勉強。
私は学年の中でいつも1番だか2番だかの成績で、頭が良いとされていた。
マリ先輩も学年の中で1番だか2番だかの成績で、頭が良かった。
学年は違ったけど、一緒にいてわかったのは、マリ先輩の方がおそらく、いや確実に頭が良いだろうということ。
わからない問題を、話がしたいという本当の理由を隠して聞けるのも、マリ先輩のほうが賢いという事実があってこそだ。
その日も、一人、また一人と他の塾生が引き上げていき、いつものように教室の中は二人だけになる。
私は、耳をすませる。
冬の夜の音を聞くために。
二人だけの空間に流れていく音を聞くために。
この瞬間から聞こえてくる、自分の体内の音を聞くために。
「隣、座ってもいい?」
しばらくすると、いつものようにマリ先輩が言う。
「だめ。」
いつものように私は答える。
なぜだめと言うのか、理由はわからない。
ただ、そう言ったときに跳ねる、自分の内側の音を聞くために、私はだめと答えるのだ。
「どうして?」
「勉強のジャマだから。」
トクトクトク
「でもさ、ほら、寒いじゃん?」
「もう、勝手にして。」
トクトクトク
マリ先輩は、本当は私が隣に座りたいと望んでいることを知っていたのだろうか。
大人になった今でも、知りたいことはたくさんある。
隣に座って静かに勉強を続ける。
ほんの少しのたわいもない話を混ぜながら。
ギリギリのお互いの距離感を測りながら。
やがて24時がくる。
私たちが帰る時間だ。
「おぉい、遅くまでお疲れさん。送ってくぞー。車に乗れー。」
先生が教室に顔を出す。
はーい、と返事をして、私たちは帰り支度をする。
靴を履き、外に出て、冬の寒さに思わず身を縮める。
「さむっ」
すぐさま、ジャンパーのポケットに両手をつっこむ。
駐車場までの少しの距離。
私のすぐ左隣にぴったりと身を寄せて歩くマリ先輩が、おもむろに私の左のポケットに右手を入れてくる。
動揺を顔や態度に出さない癖が、幼い頃からついてしまっている私は、自分の左手をポケットから静かに出す。
マリ先輩は何も言わず、ただにこにこして、自分の右手を私のポケットから出す。
それを確認して、私は自分の左手をポケットに戻す。
マリ先輩はそれを確認して、私のポケットにまた手を差し入れてくる。
私はまた、ポケットから手を出す。
「いいじゃん、寒いのにー。」
仕方なく、マリ先輩はポケットから手を出す。
そうこうしながら、車の後部座席に乗り込むと、またポケットへ手が滑り込んできた。
私は、マリ先輩の手をつかんで、ポケットの外へ出す。
手の距離が、縮まった。
諦めることのないマリ先輩の手が、再び私のポケットへ舞い戻ってくる。
私の体内の音は、この手をつたって、この人の体内へ届いてしまったのではないだろうか。
私は諦めた。
私のポケットの中に、私と私の大好きな人の手が一緒に入っている事実を受け入れた。
そして、ポケットの中で私の手を握ってきたその手を、そっと握りかえした。
冬の夜を走る車の後部座席で、マリ先輩はいつものように、優しく微笑んでいて、私はいつものように無表情を装っていた。
まだ、恋愛という言葉が何をさしているのか、何をするものなのか知らなかったあの頃。
マリ先輩が私のポケットに入れてきたその手に意図はあったのだろうか。
繋がれた手の先では、どんな音がしていたのだろうか。
大人になった今こそ、知りたいことはたくさんある。