親父のちから
翌日の朝食終了後、保護房の扉が開き、医務課長 ( 医師 ) によって革手錠が外された。腕をゆっくりと動かして異常のない事を確かめると、処遇統括より、
『 ケンカ行為の取り調べ 』
を言い渡された。
《 現在の刑務所は明治41年以来続いた監獄法の改正 ( 平成19年施行 ) により、あらゆる制度が見直され是正された。保護房そのものは使用されているが、革手錠は一切廃止となり ( 一部で自殺防止で使用されることもある )、その名称も 『 保護室 』に変わった 》
取り調べが終わると幹部刑務官による、
『 懲罰審査会 』
なる刑務所の中の裁判が開かれる。
本人出席のもと規律違反行為の審理がなされ、終了後、即日処分の言い渡しがある。
私のケンカ行為に対しては、
『 軽閉禁15日 』
『 累進級2級から3級への降級 』
の懲罰処分が下された。
懲罰中の生活は、少年院の謹慎とほとんど同じであるが、
『 謹慎体育』
が無い分、楽であった。しかし、朝食終了後から夕食までの9時間余り、正座もしくは安座の姿勢でジッと正面を見つめたまま座っていなければならないのは、正直、苦痛であった。次第に尻が痛くなり、背中が痛くなってくる。また、入浴は週に1度で、その合間に1度だけ、
『 拭身 』
※ バケツ1杯のお湯で身体を拭くことが許される
があるのみ。風呂に入れない不快さにも耐えなければならなかった。
夜は、18時に布団を敷いて横になることが出来るが ( これを刑務所では仮就寝という )、懲罰執行中は、読書の他ラジオを聴くことも許されない。消灯になる21時まで、目を閉じて考え事をするしかなかった。
頭の痒みに耐え、12日で懲罰が終了した。
残りの3日間は、初めての規律違反という事で免罰 ( 懲罰が途中で許されること ) になった。
元の金属工場に戻ることが許された私は、通信制高校も退学にならずに済んだ。
懲罰終了後に処遇統括からそれらの言い渡しを受けたが、最後にこう付け加えた。
「今田、ケンカをしたら、まず元の工場へは戻れない。高校も退学になり、仮釈 ( 仮釈放 ) も延びる。しかし、お前はすべてを許してもらえた。そこのところを、どういう意味かよく考えろ」
それを聞いた時、親父の巨体が目に浮かんだ。
( 親父の力だ… )
( 親父の力で、高校もクビにならずに済んだ… )
そう思うと、自然に涙が溢れてきた。
刑務官の号令に合わせ、腕を肩まで上げて工場に向かう。
「いっちにっ!」
「いっちにっ!」
「いっちにっ!」
「全体っ!止まれっ!」
「いっちにっ!」
懐かしい金属工場の鉄扉
《 ガチャ 》
開錠する音が鼓膜に響く。
機敏な動作で工場内に足を踏み入れた。
同行してきた若い刑務官が気合いを込めて、
「異常っ!ありまっせんっ!」
と、親父に向かって敬礼した。
巨体は、敬礼を返しながら私に詰め寄ってくる。
「今田~、帰ってきたか~」
私は柔道技をかけられた。
私は叫んだ。
「おやっさん、有難うございました!」
工場の兄ぃ達は、みんな笑ってた。




