『護国の赤蛇』 第七章
受け継いで行く。
その日の夜の事だった。
サマエルは夢を見た。何の事は無い、幼い頃の記憶である。
彼を護るために彼の父が赤い竜として飛び立っていく、その姿を彼は見ていた。赤い竜の勇姿。
それはとても懐かしく恋しい記憶だった。
(ああ)
サマエルは思った。
(今の私なら、父さん、貴方をも助けられた!)
「サマエル」
懐かしい声がして、彼ははっと背後を振り返った。
彼の失ったもの全てが、そこにはいた。
彼はへなへなとその場に腰をついてしまった。
「父さん、母さん、ヒュギエイア、ユニアノス……!」
「こら、何を腰を抜かしているんだ、サマエル」
父親が彼を起こすと、ぴしゃりと尻を叩いた。
サマエルはいつの間にか幼児に戻っていた。家族三人で暮らした家の中にいた。いつも悪さをすると彼の父親も母親も彼の尻をぶった、その記憶もよみがえる。けれど彼は理不尽な理由でぶたれた事は一度も無かった。
裕福でも無かったし、小さな家だったけれども、幸せだった家庭がそこにはあった。
「おとうさま、おかあさま、ごめんなさい……」サマエルは懐かしくて、恋しくて、泣きながら謝った。「まもれなくてごめんなさい」
無力で護れなかったがために彼は愛した両親を失った。
がらりと景色が変わる。今度はマケドニアの神殿内だった。
サマエルは青年になっていた。
ヒュギエイアが泣いている。彼の胸の中で泣いている。
「私は汚い女なのに。 どうして、どうして! 私はろくでもないものなのに!」
「お前は良い女だよ」サマエルは一生懸命言葉を編み出す。慣れていないのだ、女を口説く方法に。「本当に良い女だ。 大体お前が僕をペルセウスから庇ってくれたから僕は今ここにいられるんだ。 ……あ、とするとお前が自分をろくでもなくて悪いと言う、一番の原因は僕になるのか……?」
「ばか」ヒュギエイアは泣き笑いの顔をして、サマエルの胸に爪を立てて引っ掻いた。「きらい、きらい、サマエルなんかきらい!」
「僕は大好きだ。 お前の子供が欲しい」
そして暗愚ゆえに愛した妻子をも彼は失った。
サマエルの目の前の闇がようやく啓けて――赤い竜が目の前に君臨していた。
『GOUROOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
それは、天地を揺るがすほどに吼えた。
……ああ。
これ、は。
私の夢見た姿。
大事なものを護るために、
己の命をも捨てた偉大な父の姿。
そうだ、私は、もはや、失ってなどいられないのだ!
赤い色と竜の姿が、彼の目に焼き付いた。
竜はもう一度吼えた――『GOUGAOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
……そこでサマエルは目を覚ました。
静かな朝の気配が神殿に満ち溢れていた。
「……」
サマエルはゆっくりと寝所から起きあがった。彼は、とある事を決めていた。
赤。それは居並ぶ誰もがはっと息を呑むほど、鮮烈な赤であった。目が覚めるような赤。その衣にサマエルは身を包んでいた。そして彼の背中には赤い竜――と言うには小さいので、蛇と言えば適切なのだろう――の刺青が彫られていた。
彼は変わった。自分に対して恐ろしいまでに厳格になった。ローマの為政者に対して、盛んに対外戦争を勧めるようになった。特に対マケドニアへの遠征を勧めた。
「強くならねばならない」彼は言う。「この国もそうだ。 だが強くなければ生きる価値が無く、義を持たねば生きる資格が無い。 義とは何か? 常に己を疑う事だ。 これが義かと疑い続けてようやくそれは義へと到達する。 過信するな。 増長するな。 いくら偽の義を振りかざした所で、死は誰の前にも平等に訪れるのだから、忘れるな」
先の戦争でマケドニア領にローマはいくつか領土を得ていた。そこから、布に出来ていくシミが拡大するように、ローマは領土を拡大した。瞬く間に全ギリシアがローマの下へ入った。ローマはマケドニアに使者を送り、無駄な抵抗は止めろと言ったが、マケドニアは首都を攻め落とされてもまだ抵抗した。ペルセポリスに遷都し、あくまでもローマには恭順しない構えを取ったのだ。
ならば武力で攻め落とすまでの事。
ローマ軍はペルセポリス目がけて東征を始めた。
ペルセポリスの神殿は天地が引っくり返ったような騒ぎになっていた。アフラ・マズダはサマエルが攻めてくると聞いた途端に死人のようになって寝込んでしまうし、魔神や女神ですら逃亡者が相次いだ。
「殺される」クィントゥスは震えている。「殺される!」
アルテミスは逃げ出したいと考えているが、あの惨めに許しを乞うていたサマエル相手に逃げ出すなど己の面目が丸つぶれだと思っている。
かくなる上は、と彼女は考えた。
「刺客を贈ろう」
サマエルはペルシスの降伏した街の一つの守護神、女神アメシスから、貢物として小さな木で出来た美しい箱を得た。とても高価なものが入れられた箱であるらしく、開ける事は誰にも許されていないのだと言う。
「そうか」とサマエルは頷いた。「ならば私も開けるのは止めておこう。 中に毒蛇でも忍ばせられてはたまらないからな」
「ッ!」アメシスがぎょっとした。サマエルはその彼女に言う、淡々と。
「なるほど、当たりか。 先ほど蛇と言ったが、この箱の大きさではどうやら毒蜘蛛だな。 良いものを貰った、礼を言う。 焚刑ではなく絞首刑に減刑してやろう」
「な、何故!?」アメシスは、強制的に兵士達に連れていかれながら叫んだ。「何故分かったの!?」
「呼吸だ」サマエルは言った。「この箱の中でかすかな呼吸がある、それを私は探知しただけだ」
ペルセポリスは陥落した。
サマエルは略奪も虐殺も厳禁していて、それでもその禁を破って女を犯した兵士が一名いたので、即座に見せしめに斬首にさせた。
その一方で、神殿では、彼は、まるで百鬼を率いる魔王のように進んだ。げっそりとやつれたアフラ・マズダが彼の足元にひれ伏した。ありとあらゆる人々が恐怖そのものを迎えて、真っ青になりつつ彼の裁断を待つ。
じろりとサマエルは一同を見渡した。
「アルテミスはいるか」
「……」
アルテミスはもはや意識を失いそうになりながら、サマエルの視線を受けた。
「お前に贈り物がある」サマエルはそう言って、例の小箱を取り出した。
「ひッ!」アルテミスは凍りついた。
その小箱をサマエルに渡せ、とアメシスへ送ったのは彼女であったからである。
「どうした。 何を怯えている。 私からの贈り物だ。 開けて、中身を確かめるが良い」
アルテミスは自分の体が急に動かせなくなった。まるで空間そのものに押さえつけられているかのように、勝手に動けなくなる。
サマエルは近づいて、アルテミスに小箱を手渡した。
アルテミスの手が勝手に動いて、小箱のふたを開けていく。空間に押さえつけられた彼女の体は、もはや彼女の命令を一切聞かなかった。目を閉じる事すら許さなかった。彼女はだから、箱から八本の足を持つ紫色の蜘蛛が這い出てきたのを、ただただ見るしかなかった。蜘蛛は彼女の白い腕に這い登る。ゆっくりとゆっくりと、毒蜘蛛が白い腕を這い上がって行く。
そして、アルテミスの首筋に食らいついた。
その瞬間彼女は自由になって、引き裂けるような絶叫を上げた。だが、もはや全ては遅かった。悲鳴はすぐに途切れ、蜘蛛は倒れた彼女の体に潰された。
アルテミスの死体を見て、サマエルは、
「食え」と神殿の者達へ言った。「生きたければアルテミスの死体を食え。 食わぬ者は殺す」
誰もがおぞましさにぞっとした。魔族は人を食べるが、魔族が魔族を、人が魔族を食べる事など絶対的禁忌だったのだ。それは食物連鎖の逆転であり、共食いでもあった。あってはならない事なのだった。生きるためにではなく、そして愛してもいないものを食べるなど、到底受け入れられる事では無かった。
だが、サマエルは言う。
「そうかそんなに死にたいのか、では――」
最初にサマエルと視線が合った哀れな魔神が、ひっと震えてアルテミスの死体に飛びついた。それからは獲物に群がる蟻のように人々が死体を食って行った。骨すらサマエルは食わせた。彼はそれからこう言った。
「命惜しさに禁忌を破るのか。 貴様らは生きる資格の無い連中だ」
「なッ!?」
人々の間に動揺が走る。
「や、約束を破るのか!?」
「否。 きちんと貴様らは生かそう。 ただし」サマエルは凄まじい目で一同を見渡して、「全員を去勢させ、四肢を切り落とし、目を潰し、耳鼻をそぎ落とし、口を引き裂いてから、だ。 身ごもった女を見捨てるなど、貴様らに人間らしく生きる権利は無い!」
ここに至って人々はようやく、今のサマエルの凄まじい怒りの原因が、ヒュギエイアとその子供の死にある事を悟る。彼女は一人で子供を産み、死んだ。だが彼らの内の誰か一人でも彼女を助けていれば話は違ったかも知れない。己に罪はあったが彼女らに罪は無かった。サマエルはそう思っているのだ、と。
「サマエル様」そこにローマの将軍カシウスがやって来た。「マケドニア王クィントゥスの処刑でございますが、いつに致しましょう?」
「いつでも良い。 都合の良い時にやれ」
「はッ」
「だが」とサマエルは言った。「群衆の眼前でやるのだ。 ペルシスの民に二度とローマへの反抗心を持たせぬようにやれ」
「承知いたしました」当然だ、もっともだと思い、将軍はかしこまった。
サマエルはぽつりと彼には聞かれぬように言う、
「次はガリア、ブリタニア、ゲルマニクス、ヒスパニアだな……。 だが……アエギュプトゥスだけは戦争を避けたい。 何としてでも……」
ローマの都は歓喜にどよめいていた。彼らの国が一気に拡大したのである。商人と言う商人が大急ぎで交易に出向き、ローマは活気にあふれた。
そこにローマの軍が帰還した。
「いらっしゃったぞ! 凱旋だ、凱旋だ!」
わあっと群衆が道の両脇に集まって、歓声を上げる。花びらが舞い、ありとあらゆる賛辞が飛んだ。
その行進の中にサマエルはいなかった。マルスが危篤だと言う、急ぎの使者が来たためであった。
「さま、え、る……」
マルスは病床の中で苦しみながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。彼の元にもローマの勝利の知らせは届いていたのだ。
「ここにおります」サマエルは枕元にひざまずいている。
「ろーまを、たの、む……」
「承知いたしました」
「……」
死んだ。安心したような、穏やかな顔をして。
サマエルはゆっくりと立ち上がると、マルスのための神殿を作る事、そしてそこに彼の遺体を埋葬するように、命じた。
そして、より高みへ。