『護国の赤蛇』 第六章
彼の歩く道は、
ラハブに暇乞いをして、彼は船でローマを目指した。
「えー、行っちゃうのか?」
ラハブはつまらなさそうである。彼とサマエルは、既に友情めいた関係を作っていた。だが、サマエルはアエギュプトゥスの神殿には入ろうとしなかった。入れば、この程よい関係が壊れてしまいそうな気がしていたのだ。それにサマエルは、もうラハブと美少年の営みを見せつけられるのに本当に懲りていた。
「ああ、行く。 私は――どこにも居場所が無いのなら、自分の手で作り出したい」サマエルは言った。
ちぇ、とラハブは舌打ちした。それをバシレイオスがなだめて、
「きっとまたアレクサンドリアにいらっしゃいますよ」と言った。
「……サマエルは恩を仇で返すヤツじゃあ無いからなあ、だからこそつまらないんだ」ラハブは言った。
「それはどう言う意味だ?」サマエルはラハブの発言の真意が分からず、訊ねた。
「お前がウチ(アエギュプトゥス)の敵になっても良いって事さ。 だがお前は絶対にそんな事出来ないだろう? 敵だったらとっ捕まえて幽閉してその前で、な」とラハブはバシレイオスの尻を撫でて、「酔いながら楽しめるってのに」
サマエルは引いた。盛大に引いた。心底ラハブの変態性に恐怖して呟く、
「……真性の変態を見た気がする……そんな拷問にかけられたら、私は自害するぞ」
もっとも、自害してもラハブの変態性からは絶対に逃れられない気がする。天地の果てはおろか、この世を超えてあの世へ逃げても、絶対に。
「てやんでいべらぼうめ、俺は美少年がいないと生きていけないんだ!」ラハブは逆上して、「何が悪いか!」
「実を言うと気持ちが悪い」サマエルはぽつりと、おびえたままで言った。「人それぞれの好みの問題ではあるのだが」
「……」無言でラハブに睨みつけられた。
長い海の旅を経て、彼はローマへ着いた。
現在のローマは守護神の跡目相続争いで、大騒ぎになっていた。現在の守護神はマルスと言う魔神である。だが、彼は老いている上に病に侵されていた。
サマエルはマルスの大神殿を訪ねたが、彼が名乗った途端に門番は青ざめた。
「ほ、本物のサマエル様ですか!?」
「それを証明したいのだが、どう証明すれば良い?」
「しょ、少々お待ちを!」
門番が神殿の中に駆け込んだ。それからは蜂の巣をつついたかのように、召使いや奴隷達が慌ただしく神殿を出入りする。その時であった。
「何だこの騒ぎは?」
大勢の付き人を従えて、若い魔神が姿を見せる。
「ポセイドン様!」戻ってきた門番が非常に気まずそうな顔をした。「こ、これは……!」
門番が説明しようとした時、今度はやはり大勢の付き人を従えた美しい女神がやって来た。
「あら騒がしい事。 一体何の騒ぎですの?」
「ミネルヴァ様……!」門番の顔色はどんどんと悪くなっていく。
この門番はきっとあまり口の達者な男では無いのだろうと可哀想になって、サマエル自身が言う事にした。
「私の名は、サマエルと言う」
「「!」」
二人の神々の顔色が瞬時に豹変した。
サマエル。それはあっという間にギリシア・ペルシス帝国を撃破し、だがマケドニアから追放されて行方不明になった魔神として有名だったのだ。
「私は居場所を作るためにここローマへやって来た。 だがいさかいはなるべく避けたい。 どうか」とサマエルは丁寧に言った。「話し合いで解決したいのだが、お願いできないだろうか?」
「……それは」魔神が敵意も露わに言った。「力では俺が遥かに下だと言う事か?」
「……私は居場所が欲しいだけだ。 力で争うような事はしたくない」
端からけんか腰の魔神に対して、女神は賢かった。
「では守護神ではなく、軍神としてローマにいれば良いではありません事? 私を支持して下さるならば、それを許しましょう」
「ミネルヴァ!」魔神が怒鳴った。「この女狐め!」
「あらあらポセイドン、先にサマエル殿に喧嘩を吹っかけたのは貴方ですよ?」
「……ッ!」魔神は憤怒の形相で女神とサマエルを睨む。
その時だった。召使いが現れて、丁寧な口調で、
「どうぞサマエル様、マルス様が謁見なさるとの事でございます」
――その男は、寝台の上で鋭い目をしていた。病んでいる体ではあるものの、心までは弱っていない、そう言う眼であった。
「貴方がサマエルか」守護神マルスは、じっと彼を見据えて言った。「どうして我らがローマに来た? 私が開闢より見守るローマに」
「居場所が欲しいのです」サマエルは正直にローマに来た理由を言った。「どこにも居場所が無かったので、己の力で作り出そうと思いました」
「そうか。 だが貴方の評判は、強いと言う点では確かだが、品性には欠けていると聞いている。 特にマケドニア国王イスカンダルの悪逆非道な振る舞いを見過ごしたと言う……」
「私は義を持っていた時のイスカンダルを知っていました。 それを心のどこかで信じていました。 噂を聞いても、目で見ても、忠告をしても、その段階に至っても、義を持っていたイスカンダルの姿が思い起こされて、どうしても彼と真っ向から敵対できませんでした。 現実を甘く見ていたのです」
「……そうか」
「私はローマの守護神になるために来たのではありません。 神殿の片隅に置いていただければそれで充分でした」彼はあの女神と魔神の顔を思い浮かべて、「ですが――どうやらそれは今の状況では不可能のようですね」
「そうだ。 ミネルヴァとポセイドンの争いは、貴方を嫌でも巻き込むだろう」
「マルス様はどちらに守護神の座をお渡ししたいのですか?」
「……一長一短、二人のどちらにも致命的な欠点があり、長所もある。 たやすく決められる事では無いのだ」
「……なるほど」
「ミネルヴァは賢い。 大変に賢い。 だが力が弱い。 ポセイドンは逆に愚か者だ。 だが力がある。 どちらを選んでもローマは困るのだ」
「……」
「だが」マルスは一呼吸して、言った、「サマエル。 貴方はどうやらその両方を兼ね備えているようだ。 もしも貴方がローマの民に誰よりも支持されれば、私は自然と貴方を選ぶしか無くなるだろう」
「……ローマの、民に……」
守護神は民から崇められ、愛され、そして供犠の引き換えに繁栄をもたらす。
「幸か不幸か、近々マケドニアへの遠征計画が実行される。 私はこれの結果によって守護神を決めたいと思う」
そこまで言うと、マルスは力が尽きたのだろう、目を閉じた。
ローマのマケドニア遠征にサマエルもやって来る。その噂を聞いたマケドニアの神殿も王宮も上から下まで恐慌状態に陥った。サマエルがどれほど強いのか、それを知らない者はいなかった。アポロンは絶句してから、
「ヤツの心を殺してやったのに、どうして!?」と叫んだ。
ともかく攻めて来られた以上、無抵抗でいる訳にも行かず、マケドニア軍は迎撃に向かう。海戦が始まる。だが、始まるその前から既にマケドニア海軍の士気は底辺に落ちていた。
「――BIGBANG!」
ローマの艦隊が海の果てに見えた途端に、攻撃が、来た。空間が爆破されて巻き添えを食らった兵士達が木端みじんになる。船が撃沈される。うわあ、と誰かが叫んだ。逃げろ、と叫んだ。アポロンが必死に踏みとどまらせようとして何かを 叫んだが、その彼の眼前にサマエルが出てきた。
空間を、跳躍して、突然に。
あ、と思う事しかアポロンには出来なかった。
次の瞬間アポロンは首根っこを掴まれて、気付けば敵軍ローマの兵士達に彼は囲まれていた。
「う、わ」声が出ない。まともな声が出ない。アポロンは頭が真っ白になった。「あ、あ」
「ひい!」と叫ぶ声が聞こえて、アポロンがはっとそちらを見れば、マケドニアの指揮官が恐らく彼と同じようにサマエルに拉致されてきていた。
「今の内にローマの全軍で、マケドニアを叩き潰せ」
それから、サマエルはローマの指揮官にそう言った。
指揮官と守護神を奪われたマケドニア軍は、もはや牙爪を抜かれて筋肉をも奪われた獣であった。
当然ながらローマが勝った。清々しいくらいの大勝利だった。
アポロンは捕虜の中の一人として、ローマの街中を引きずり回された。アポロン達捕虜には民衆の罵声と石つぶてが、凱旋を飾ったローマ軍には花と金貨と賛辞が浴びせられた。
サマエルの名声はローマの市民の間で一気に跳ね上がった。神殿を建てようと申し出る富裕な貴族も現れたくらいだった。だがサマエルは断った。
「まだ、この程度で崇められては、傲慢と言うものだ」
その代わりに彼は神殿の片隅、日の光が良く当たる場所に一本の木を植える事を認めさせた。その若木の下に彼は、己の子を埋葬した。
彼は時間がある時には、その若木がそよ風に揺られているのを見て過ごした。
……ポセイドンは無言でサマエルをねめつけている。それにサマエルは気付いていないのか、背中を向けて、若木を見ている。
ポセイドンは今だと思った。彼は毒を塗った短剣を振りかざし、一気にサマエルの背中にそれで切り付けた――はずだった。だが、急に彼は体の自由が利かなくなった。まるで空間が彼を固定し、微動だにさせないでいるかのような――彼の全身から脂汗が噴き出た。
何と言う、恐ろしい力だ!
「私はいつ死んでも良い」
サマエルは青ざめた顔をしているポセイドンには背を向けたまま、言う。
「私の妻と私の初子は殺された。 殺したアポロンへの復讐も考えた。 だが、虚しいのだ。 虚しくて虚しくて、だから私はまだヤツに何の制裁も下していない」
「……?」サマエルの言葉に、ポセイドンは戸惑った。何を言いたいのだ?
「復讐すれば良いのか? 同じ事を繰り返せば良いのか? それで私は満足できるのか? いや、復讐はしなければならない。 因果は絶対応報、運命の女神にすら変えられはしないのだから。 だがその後、私は何をすれば良いのだ? 何を目標に生きていくのか? 死ぬためだけに生き続けるのか? それで本当に良いのか? ……分からない。 本当に分からないのだ。 私の目の前には相変わらず闇が広がっている」
「……」ポセイドンは声が出なかった。
サマエルは、ふと思いついたように訊ねる、
「ポセイドン、貴方だったらどうするか?」
「……」
答えられない。ポセイドンは黙り込んだ。サマエルはしばらくして言った。
「……済まないな、とても楽に答えが出るような問いでは無いとは分かっているのに。 アエギュプトゥスのラハブだったら、こんな時は、酒に溺れて美少年と戯れ続ける、と断言しただろうに、な」
ポセイドンは考えてから、ゆっくりと言った。「……奪われ殺され傷つけられ、愛別離苦を舐めさせられ、それでも営んでいく。 それが人の生き様だ」
「……」
サマエルは相も変わらずポセイドンに背中を向けて黙っていた。
ふっとポセイドンは体が楽になったのを感じる。どうするべきか迷ったが、彼はその場からそっと立ち去る事にした。
「あらサマエル殿」
ミネルヴァは表向きは優しい、美しい微笑みを浮かべた顔で言う。内心でははらわたが煮えくり返っていたが。
「ご活躍、この目で確かに見ましたわ。 サマエル殿こそローマの守護神に確かに相応しいですわね」
「……か?」サマエルは小さな声で言った。
「?」ミネルヴァはよく聞き取れなかった。
サマエルはほんの少しだけ声量を上げて言った。
「招かれざる客が五人も神殿に紛れ込んでいるのは、貴方の指図か?」
「!」ミネルヴァは必死に平然とした顔を取り繕う。「何の事でしょうか?」
「……別に私は貴方から次期守護神の座を奪うつもりは無い。 だが」サマエルは淡々と続ける。「強くなければ誰も護れない。 強くあろうと賢明でなければやはり大事なものを失う。 それでも、強くなければ背負ったものの重圧に潰される。 弱い事は悪なのだ、この残酷な世界ではな」
「私が悪いとおっしゃるの?」ミネルヴァの声は刺々しいものに、つい、変わってしまっていた。
「……いずれ貴方も思い知らされるだろう、己が弱かったがために奪われ殺され辱められ、何の尊厳をも与えられない、そんな目に遭って。 力が無いと言う事はそう言う事だと私は思う。 無力は罪であり、喪失への恐怖の元なのだ」
「……」
「全てはマルス様がお決めになる。 私はただその決定に従うつもりだ。 ところで」ここでサマエルはじっとミネルヴァを見て、言った。「この世で最も残酷な処刑方法とは何だと思う?」
「え」彼女は戸惑った。「いきなり、何を……?」
「アポロンだ。 ヤツに私は妻子を殺された。 復讐をしなければならない。 ただで殺すだけでは許せない。 どうしてやれば良いだろうか?」
「それは……」彼女は考えたが、名案は浮かばなかった。
「……やはり答えられないか。 貴方は善い人なのだな」サマエルはしみじみと言った。「貴方は自分で思っているよりも、遥かに善い人なのだ。 刺客の件は、忘れる事にしよう」
「……」ミネルヴァは声が出なかった。ただ、『己は負けた』と知った。それも酷く単純な理由で思い知らされた。
サマエルは彼女から目をそらし、悠然と去っていく。
その背中を見つめて、彼女は深いため息をついた。
アポロンは脱走しようと番兵の隙をうかがい続けていた。彼は己がサマエルにかつて何をしたのかちゃんと知っていたし、今の状況も理解していた。このままでは己は殺される。いや、良くて『殺される』だろう。
アポロンはだからサマエルが牢獄にやって来た時、ざあっと全身から血の気が引くような思いだった。
「……」
サマエルは牢獄の鍵を開けた。そしてアポロンに、
「出ろ」と言った。
「私をどうするつもりだ……?」
「出ろ」サマエルは誰もが震え上がるような目でアポロンを見た。
アポロンは怯えながら牢獄から出た。
「どこにでも行け」サマエルは意外な事を言った。
「は……?」アポロンは耳を疑った。
「どこにでも行け。 好きにするが良い。 だが」サマエルはぞっとする声で断言した、「お前が幸福になった時、お前が満たされた時、お前の大事なものを、お前の幸福を、満足を、私は全部殺してやろう」
「ッ!」
「どこに逃げようと、どこに隠れようと、私は必ずお前を見つけ出し、お前の大事なものを全て、全てお前の前で殺してやる。 何度でも殺してやる。 魔族の人生は人間より長い。 その人生の残りを常に孤独で過ごせ。 かすかな幸せも得られぬように生きて、惨めに死ね」
「……」アポロンは真っ青になっている。魔族は人よりも長生きする。だが、その残りの人生を彼はサマエルにより、今、潰されたのだ。
「どうした、何を震えている?」
「……止めて、くれ!」アポロンは悲鳴を上げた。「それだけは止めてくれ!」
「私が止めてくれと言った時にお前は何をした?」どす黒い憎悪と激烈な復讐心。サマエルの声はそれだけで構成されていた。「さあ、どこにでも行け!」
「……」アポロンは、うなだれるだけだった。
「ふむ」と老境のマルスはまだまだ衰えぬ鋭い目で、三人の多神教の神々を見渡す。「その様子では、ミネルヴァとポセイドンの二人とも、サマエルが私の跡を継ぐ事に納得しているようだな。 では正式に決定しよう。 ローマ守護神マルス、後継ぎをサマエルに任ず」
うやうやしくサマエルはそれを承った。
「――」安心したのか、マルスは目を閉じて寝台の上に横たわった。
どれほど辛くても、彼の足で歩く。