『護国の赤蛇』 第四章
彼の受けた罰。
膨らんだ腹を抱えて、ヒュギエイアはサマエルを見送った。
「男ならユニアノス、女ならルクレティアと名付けてくれ」とサマエルは言う。
「はい。 どうぞご無事で」
「それはこちらの台詞だ」サマエルは笑った。「女にとって出産は命がけだと言う。 ……必ず、私が戻ってきた時に二人で出迎えると約束してくれ」
ヒュギエイアは微笑んで、しっかりと頷いた。
――この夫婦はとても仲が良かった。サマエルが他に一人も愛人を作らなかったほどだった。時々喧嘩をして、仲直りする事を繰り返した。お互いを理解しようとし、お互いに感謝しようとし、相手を裏切る事だけはするまいと努めていた。
この時のサマエルは、正に幸せの絶頂点にいた。愛する女と絶大な力を手に入れて、そして何にも不満が無く、何にも苦しみが無かった。辛い過去に押しつぶされそうになっても、彼を隣で支えてくれる伴侶がいた。これ以上の何の幸せを望めと言うのだろう?
だが、彼の幸せは瓦解する。彼の幸せの舞台の下で陰謀が進行していたのである。それは幸せに目がくらんでいた彼の愚かさゆえに発見が遅れ、事実をまともに見ようとしなかった彼の甘さゆえにはびこってしまったものであった。
クィントゥスは耐えられなかった。とても耐えられる現状では無かった。
彼の父ペルセウスが人間の尊厳を奪われた時は、彼はむしろ肉親を傷つけられた悲しみよりも、イスカンダルによるこれからの治世に対する希望と爽快感すら抱いていた。彼の理想がようやく実現されると、信じたのだ。
それが、これである。彼の理想は駆逐された。侮辱され汚されて潰されて割れて砕けて裂けて散った。それも、理想の担い手であったイスカンダル張本人によってだ!かつての義を失い、堕落し落ちぶれたイスカンダルそのものによってだ!
クィントゥスはペルシス帝国への遠征軍を見送って、同時に、かねてより練ってあった計画を、仲間と共に実行した。彼の仲間は大勢いた。何故ならイスカンダルが、彼らが臣下として仕えるに値しない、むしろ大損をする暴君だったからである。このままでは自分の命も危うい、そこまで彼らは追い詰められていた。
彼らは魔神アポロン――かつてペルセウスの味方であり、己こそがマケドニアの守護神になろうと言う大それた野心を持つ魔族――と手を組み、行動を起こした。じわりじわりと、まるで雑草が増えていくように、仲間を増やしていったのである。誰でも己の命が惜しかった。おまけに友人や親族を殺された者が大勢いた。誰もが今のイスカンダルを疎ましく、憎らしく思っていた。
彼らの利害は一致している上に、大義名分もあった――『暴君を打倒する』と言う。そしてクィントゥスは『勇敢な気性』ではないとイスカンダルに思われていたため、謀反などしない、と勝手に決め付けられていた。
――それにヒュギエイアが気付いた時には、彼女はもう自由に逃げる事すら出来ない臨月の妊婦であった。
周りは人間も魔族も、皆、クィントゥスに味方する者ばかりであった。
「ヒュギエイア」アポロンは彼女を脅迫した。「子供と自分の命が惜しければ、従順になれ」
彼女は血相を変えた。
「……あ、あの人に何をするつもりなの……!?」
「サマエルは非常に強力な力を持っている。 危険は殺さねばならない。 ヤツがイスカンダルの刃である限り、我々に安息の時は無い」
「あの人は知らないだけよ! 事情を話せばきっとあの人は貴方達の味方になってくれるはず!」
「残念ながらヒュギエイア」アポロンは嘲るように言った。「サマエルは強力すぎるんだよ。 まるで制御不能な『竜』のようだ。 そんな化け物を己の庭園で飼う数寄者は、生憎ここマケドニアには誰一人としていない」
計画が実行されたのは、ペルシス帝国をイスカンダルが屈服させた直後であった。
ズルワーンは一撃でサマエルの手により死んだ事すら知らずに死んだ。アフラ・マズダがその跡を継いで、必死に抗戦してきた。だが、彼は遥かに力では異父兄に敵わなかった。
マケドニア軍は、あっと言う間にペルシス帝国首都ペルセポリス間近まで攻め上る。攻囲されたペルセポリスはハチの巣をつついたかのような大騒ぎになった。
「久しぶりだなアフラ・マズダ」
サマエルは地面に倒れているアフラ・マズダに声をかけた。アフラ・マズダはペルセポリスの防衛と迎撃のために自ら出陣したのだ。それが、今やペルシスの軍勢には一人として無事なものは無く、己ですらもはや戦意を失っている。
「……う、ぐ」アフラ・マズダは血にまみれて地面に倒れたまま、震えている。
「お前に生きる機会を一つだけ与えてやろう。 無条件降伏して、ペルセポリスを明け渡せ。 猶予は三日与える。 さもなくば」サマエルはかつて己にされた事を思い出した。あの痛みと屈辱を思い出した。「何、全滅させるまでだ」
アフラ・マズダは答えない。答えられるはずが無かった。彼は仮にもペルシス帝国の守護神である。それが自らの国をマケドニアに降伏させるなど、耐えられなかった。おまけに彼は、彼がかつてあれほど侮り嫌った異父兄に、今や完全に負けたと実感しなければならなかった。それはアフラ・マズダの矜持を滅茶苦茶にして、地べたに叩きつけられたがごとき、無残なものにした。だから、彼は、答えられないと言うより、声すら出ない有様であった。
アフラ・マズダが全く返事をしないので、サマエルは問いかけた。
「ふむ。 そんなに全滅させられたいのか?」
「……た」
ようやくアフラ・マズダは言葉をひねり出した。屈辱と絶望のどん底で。
だがサマエルは、もう一度繰り返して言わせた。
「聞こえないな」
「分かり、ました……」
――ペルセポリス陥落。
マケドニア軍は凄まじいまでの略奪と虐殺を行った。サマエルが止めろと言ったのに、イスカンダルはやらせたのだ。その挙句の果てにこう言った。
「弱い者など生きている価値が無い、そうだろう?」
「……お前は変わったな」忌々しくサマエルは言った。彼はここに来て、この惨状を見て、ようやくイスカンダルの堕落を直視できた。「悪い方へと変わってしまった。 お前が捨てたものは義だけじゃない、仁愛もだ」
「そんなものに一体何の価値があるんだ、サマエル? 俺はそんなものを信じ込んでいた所為で大事なものを全部失ったじゃないか」
泣き叫ぶ女官を犯しながらイスカンダルは半笑いで答える。
「……」サマエルは血まみれの地獄のような宮殿の中で、一人険しい顔をしていた。「お前はその中でも最も大事なものを失った」
「ほう、何だ?」
「お前自身だ」サマエルはぎろりとイスカンダルを睨みつけた。「お前は己を失った。 己を失うのみに留まらず、落ちぶれた。 お前はもはや元には戻れないだろう。 お前はもう汚いんだ」
「当たり前だ、そんな事は」イスカンダルはどこを吹く風と言った様子で、女官の首をぎりぎりと絞めながら言った。「俺はもう、すっかりこの汚さの素晴らしさを知ってしまって、魅惑されてしまっているのだからな」
「……」
サマエルはもう付いていけないと思って、一人、母親の霊廟を探した。
マケドニアに戻ったら、イスカンダルと手を切ろうと彼は思っていた。ヒュギエイアと子供を連れて、どこか静かな場所に隠棲しよう。イスカンダルがもしもそれに反対するのであれば、彼はイスカンダルを脅すか、殺すつもりであった。無力な奴隷から取り立ててもらった恩はある。だが、今のイスカンダルは駄目だ。狂っている。このまま関与し続ければ己もそしられて憎まれていくようになるだろう。それを嫌がって、イスカンダルと対立する事も起こりうるやも知れない。
そうなった場合、彼が何よりも優先するのは間違いなく己の妻子であった。
……ようやく見つけた母親の霊廟の前で、じっと彼は無言でたたずんでいた。夕日が霊廟を赤々と照らしている。あの時にこの力があれば、とサマエルは手を握りしめて思った。この力があれば、あるいは……。否。そんな仮定の話は己を慰めるものでしかない。今はただ、ただ、感謝しよう。
ありがとう、お母様。
サマエルは声を殺して泣いた。
ゆっくりと世界は夕闇に包まれていった。
イスカンダルは、既に乾いてしまって錆びたような色に変わっている、血に染まったペルシスの玉座に腰かけて、昼夜問わずの戦勝祝いの酒池肉林に溺れていた。
そこに、マケドニア本国からの使者がやって来た。
「イスカンダル陛下、戦勝のお祝い申し上げます」
使者はそう言ってひざまずき、美しい織物を両手に乗せて差し出した。イスカンダルは嬉々として、それを自らの手に収めようと玉座を下りて使者に近づいた。
きらりと何かが光り、どすりと言う音がするまで、イスカンダルは何が起きたのか、分からなかった。音のした場所を見る。己の胴体に、白銀の刃が深々と突き刺さっていた。織物の中に隠されていたのだ。瞬く間に彼の体に刃に塗られていた毒が回る。彼はどさりと倒れた。
「!」それを目にした兵士達に動揺が走った。さっと立ち上がって、そこへ高らかに使者が叫んだ、
「クィントゥス様がマケドニア王へご即位あそばされます。 反逆の心を持つ者は、その家族をも粛清します。 家族の命が惜しければ従順になりなさい!」
その声で兵士達の動揺は根こそぎ消されてしまった。
「――が、あ、あ、そんな……!」
イスカンダルが血反吐を吐きながら言った。その頭を踏みにじり、使者は唾を吐きかけた。
この使者は、クィントゥスの仲間の一人であった。そして誰よりもイスカンダルに対して憎悪を抱いていた男であった。その憎悪は己が刺客になると言う事の、暗殺への恐怖や戸惑いを一掃するほど、凄まじいものであった。
だから彼が自らこの役目に志願したのだ。彼は言う、
「貴様なんぞに俺の姉も弄ばれた挙句に殺されたんだ!」
そして使者はイスカンダルへの攻撃をあえて止めなかったサマエルに向かって、こう告げた。
「サマエル様。 ご家族の命が大切ならば、後は分かっていらっしゃいますね?」
「……ああ」
サマエルはあまり驚かなかった。いずれは、遅かれ早かれこうなるだろうと薄々思っていたのだ。だから彼はイスカンダルへの一撃を止めなかった。
絶命したイスカンダルを蹴り、使者は言った。
「では、帰還いたしましょう、我らの母国、マケドニアへ!」
この事態においてサマエルにとって最悪に予想外だったのは、アポロンの存在であった。サマエルはまさかアポロンに己の妻子が人質に取られているとは全く想定していなかったのだ。サマエルは、だから、神殿に入ろうとして、阻まれた時、仰天した。
「何故だ!?」
「サマエル様」神殿の番人達が言った。「貴方の奥方様とお子様が大事ならば、ここを無理に通ろうとするのは愚行でございます」
「アポロン様が次なるマケドニアの守護神になられます。 サマエル様、イスカンダルの凶行を放置した貴方には、もはやこの国の守護神たる資格はございませぬ」
「アポロン!? ヤツか、ヤツなのか!?」サマエルは力を振るって暴れようかとも思ったが、そんな事をすればヒュギエイア達の命が無い事をすぐに悟る。
泣き叫ぶ赤子の声が近付いてきたかと思うと、神殿からアポロンの妹アルテミスが嬰児を抱いて姿を見せたのである。
「嫌味なくらい貴方に瓜二つの男の子でございますよ」アルテミスは冷たい声で言った。「本当、嫌味なくらいに」
「……ヒュギエイアは無事なのか」サマエルは背筋がゆっくりと冷えていくのをこらえる。彼にとっては何よりも恐ろしい、とある予感に襲われていた。
「死にましたよ。 死体は川に捨てました」アルテミスは実にどうでも良さそうに言った。「何せ難産でしてね。 まあ、誰も助けなかったと言う理由もありますが。 最後の最期にあの女は己の命を捨てて、代わりにこの子の命を選びました」
「……」サマエルは奥歯を砕けそうなくらいに噛みしめた。『必ず、私が戻って来た時に、二人で出迎えると約束してくれ』――あの約束は叶わなかった。もはや未来永劫に、叶えられなかったのだ。荒い呼吸を何度も何度も繰り返してから、やっと言葉が出た。「その子を返してくれ。 そうしてくれれば私はこの国を出て行く。 二度とお前達に関与しないと約束しよう」
「嫌ですわ。 あのイスカンダルに味方したやからの言う言葉なぞ、信じられるものですか」
「……それでも、頼む!」
その時だった。前方の空間がわずかに変動したのをサマエルは感じて、咄嗟にそれを避けた。空を切り裂く矢の音が後から聞こえた。
「これが兄様の返事でございます」アルテミスは小馬鹿にして言った。「さあ、さっさと失せなさい! それとも」
彼女は泣き叫ぶ赤ん坊を地面に叩きつけると、足で踏みつけた。赤ん坊は火が点いたように泣き叫ぶ。
「止めてくれ! その子に罪は無い!」サマエルが絶叫した。
「『存在そのものが罪』と言うものもあるのですよ」アルテミスは心底軽蔑した声で、「マケドニアの守護神だったのに、ご存じ無いのですか?」
「おやおやアルテミス」そうこうする間に、アポロンが姿を見せた。「何をもたもたしているのやら。 こう言うものはね」この美青年の魔神は、アルテミスを押しのけて手にしている矢の切っ先を地面の赤ん坊に向けた。「こうするのが一番なんだよ」
あまりの出来事にサマエルは一瞬、ほんの一瞬、固まった。
「――止めろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
はっと我に返ったサマエルが能力を発動するよりも早く、アポロンは矢を突き刺していた。
「あ」
サマエルはふらふらとその小さな死体に歩み寄る。絶叫も涙も出なかった。何もかもが衝撃に打ちのめされて、正常に機能しなかった。
「ああ……」
「それじゃアルテミス、行こうか」アポロンは爽やかに笑って言った。「ペルシス帝国まで手に入れたんだ、気合を入れて守らないと」
サマエルは小さな死体を抱きかかえて、もはや正気では無い目つきで、海の上をよろよろと歩いている。
『大事なものを、護れるように』
また護れなかった。
『誇りと希望なのだからね』
今や絶望しかない。
彼の心は殺されたのだ。
「……」
サマエルの放浪は続く。小さな死体が腐って骨だけになっても、彼は海の上を歩き続けた。朝も、夕も、日光が焼き尽くす昼も、冷たい月光が身を貫く夜も。
ふと海の色が変わって、彼はぼんやりと陸地が近い事を悟った。遠目でもはっきり分かる非常に巨大な灯台が見えた。彼は何となくその場所を目指した。
そこは大きく、見事な港だった。漁船から商船まで、大小様々な船が並んでいる。
彼は街の中へと入った。とても大きくて立派な街だった。
彼は人ごみの中を歩いたが、人々は彼のとても正気でない風体に驚いて自然と道を開けた。
歩いて歩いて――そしてとうとう限界が来て、彼は倒れた。
それは、あまりにも辛すぎるものだった。