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IONシリーズ外伝一   作者: EVI
『護国の赤蛇』
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『護国の赤蛇』 第三章

堕落。

 行軍が終わって、彼らがアテナイの神殿で休憩していた時だった。

「ペルセウス陛下よりの勅書でございます」

マケドニア本国より使者がやって来た。

勅書の内容は、このままペルシス帝国をも攻め落とせ、と言うものだった。

「……」イスカンダルは使者を前にして、勅書を手にしたまま沈黙している。勅書からにじむペルセウスの欲深さと、己への絶え間ない殺意でさえ、己の運命、宿命として――ただ義のために甘受しようとして、黙っているのだ。

使者は高圧的に言った。「おやイスカンダル様、ペルセウス陛下の勅命を受け入れぬ、と言う事ですかな?」

「……」イスカンダルはぽつりと言った。今や彼は己の悲劇的な運命を義のために受け入れようとしていた。だが、そのためには唯一欠かせない、いや、最も大事な事柄があったのだ。「ヒュギエイアは、無事なのか?」

「ああ」と使者はどうでも良さそうに、「首を吊って死にましたが、それが何か?」

サマエルが真っ青になった。真っ青になって、がたがたと震え始めた。彼が今まで最前線で危険をいとわずに戦ってきた理由が、ヒュギエイアがまだ生存している事であった。それが否定された。最も残酷な形でサマエルのかすかな希望が潰された。だが今のイスカンダルの形相たるや、サマエルのこの絶望を叩き壊すほど恐ろしいものになっていた。

「そうか」小さな、だがはっきりとした声でイスカンダルは言った。

使者がはっと怯むほど、今のイスカンダルの顔は恐ろしかった。

「そうか。 そうなのか。 ペルセウスは俺だけを殺すには飽き足らず、ヒュギエイアをもついに殺したのか。 俺の義は、俺の信念は、俺の生き方は、そこまで侮辱されねばならぬほど甘いものだったのか」

「ひ、い――!」

使者はその恐ろしい殺気と気迫に気圧されて後ずさったが、イスカンダルは前へと進んだ。ぎらりと獰猛に輝く剣を抜く。

「……俺が義などにこだわった所為で、俺の大事なものは全て殺された! アスクレピオスも、ヒュギエイアも! 俺は、俺の大事なものを護るために義に固執したのに! 何も護れぬならば、俺はもう義など捨ててやる!」

使者の首が飛んだ。血がどくどくと流れていく。イスカンダルはそれを冷酷な眼差しで見つめていたが、サマエルに言った。

「これよりマケドニアを破国する。 戦えるな、サマエル?」

「ああ」サマエルは憎悪に燃える目をして、頷いた。


 ――イスカンダルの軍勢は一気にマケドニアへ攻め上った。かつては寡兵だったが、ギリシアの軍勢も含み、今やイスカンダルが指揮を執っているのは一大軍勢であった。

最前線で戦場を駆け抜けて、サマエルはマケドニア王国軍を木端微塵にした。

彼は憎しみと怒りのあまりに狂いそうだった。ヒュギエイアを奪ったペルセウスと、無力であったあの時の自分が恨んでも恨み足りないほど憎かった。彼は暴れた。暴れられるだけ暴れた。荒れ狂う嵐のように彼は破壊した。破壊しなければ彼はとても正気ではいられなかった。噴火するような衝動に突き動かされるがままに、彼は壊して行った。マケドニア王国守護神アストライアは何が何だか分からぬ内にサマエルにより殺された。サマエルの力は非常な遠距離からの攻撃も可能としたのだ。

視認しうる範囲の外から、恐ろしい攻撃がやって来る。それは敵軍の士気を瞬く間に地に叩き落とし、数多の逃亡兵を生み出した。

数日かからず、ペルセウスとその陪臣達は虜囚の身となり、荒縄に縛られてイスカンダルの前に引きずり出された。

「……」イスカンダルは生き物ではなく汚物を見る目でペルセウス達を見下ろした。「さて。 叔父上殿、今は何が望みかな? 命か、権力か、名声か、それとも……」

「ヒュギエイアは生きている!」ペルセウスは叫んだ。「確かにあの娘は首を吊った、だが蘇生したのだ! あ、あの娘は今神殿の奥深くにいる、だから――」

それを聞いたサマエルは、イスカンダルを見て頷くと、駆け出して行った。イスカンダルは淡々と、

「『だから』――それが何なのですかな、叔父上殿?」

「ひっ!」ペルセウスはびくりと震えた。イスカンダルの激怒と言う火に、逆に油を注いだのを感じたのだ。だが、イスカンダルは変わらずに淡々と言った、

「良いでしょう叔父上殿、命だけは助けましょう」

「――」助かった、とペルセウスが思った時だった。

イスカンダルが自分の部下に対して言葉を続けた。

「この連中の手足を斬れ。 目を潰せ。 耳と鼻はそぎ落とし、口は引き裂け。 そして豚小屋の中にて豚と同様に生かせ。 だが、くれぐれも、絶対にだ、殺すなよ? 万が一にでも殺したならばお前を同等の刑に処す」

 死刑よりも惨い刑罰が、下された。


 「ヒュギエイア!」サマエルはマケドニアの神殿の中を走った。神殿内はイスカンダルの軍勢とそれと戦ったり降伏したりする神々でごった返していた。「ヒュギエイア、どこだ!」

――いた。いやしくも女神であるにも関わらず、まるで奴隷のような格好をさせられて、神殿の奥深く、鎖につながれて地べたに転がっていた。気を失っていた。体には拷問の痕があった。

「ヒュギエイア……!」

サマエルは彼女を救出すると、軍医の所に駆け込んだ。医者は栄養失調だと判断して、奴隷を一人殺し、彼女にその血を与えた。

「……う、うう」ヒュギエイアは目を開けた。「さま、える……?」

「そうだ、僕だ。 もう大丈夫だ、イスカンダルがこの国の王になる。 だから、もう、何の心配も要らない」

「……お兄様は、まさか、義を捨てたの……?」

「そうだ。 全てを護りたかったから義に生きていたのに、何も護れなかった義を、捨てた」

「……そう」

「……生きていてくれて本当に良かった、ヒュギエイア」

サマエルは本心から安心して言った。だが彼女は泣き出しそうな顔をして、

「汚い女になんか、生きる価値があると思うの?」

サマエルはきっぱりと言った。

「ある。 僕は貴方が好きだ」

彼の人生初めての愛の告白だった。


 イスカンダルはマケドニアの玉座に腰かけると、側にいるサマエルに言った。

「……さてと。 これからどうしたものかな?」

「まずは、治世の安定を」サマエルは言った。「落ち着いたら、その後は……」

ああ、とイスカンダルは頷き、

「国を、国土を、拡大する。 ――そうだな、まずはペルシス帝国を打倒しよう」

それを聞いたサマエルの顔が変わったので、イスカンダルは怪訝に思ったが、すぐに納得した。

「ああ、お前はペルシス帝国から来たのだったな。 故郷に帰りたいのだろう?」

「……いえ」サマエルの眼が、憎悪に近いものを浮かびあがらせる。「あそこは、僕から母を奪った所です」


 サマエルはマケドニアの守護神となった。彼は奴隷から、そこまで成り上がったのだ。彼は、非常に強力な魔神として各地に知れ渡った。軍神だ、武神だ、と噂された。

イスカンダルが内政を安定させている数年間、彼は神殿でヒュギエイアと共に暮らした。彼はまだ幼さの残る少年から、たくましい青年へと変わっていった。

「……」

寝所にて、彼の隣ではヒュギエイアが穏やかに眠っている。どんな夢を見ているのか、とても安らかな寝顔で、すう、すう、と寝息が聞こえる。しかし彼は目が冴えて眠れなかった。じっと考え込んでいた。


 『貴様の所為でお母様が死んだ! 貴様が悪いんだ! 貴様は悪の根源(アンリ・マンユ)だ! 死んでしまえ! 消えてしまえ! 二度と僕の目の前に現れるな!』


アフラ・マズダの声がよみがえる。

そうだ、そうだとも、己の所為で母は死んだ。全て己が無力ゆえの罪だ。

だがアフラ・マズダ、お前の前に己はもう一度姿を見せよう。

……そう思うと同時に、彼は母親が恋しくなった。母親は彼を愛してくれた。命を捨ててまで己を護ってくれた。二度とは会えぬが、せめて、墓前でありがとうと言いたい。

「……何を思っていらっしゃるの?」

いつ起きたのか。ヒュギエイアが薄く眼を開けて、優しい腕で彼に触れた。

「……お前の事だ。 お前と」とサマエルは彼女の腹に触れた。まだ膨れてもいない腹を。「この子について考えていた」

彼女は微笑んで、「……名前はどうします?」

「それを考えていたのだが、名案が浮かばない」

「もう」彼女は少し呆れたような顔をして、けれど嬉しそうに言う。「遠征に行かれる前には、どうぞ決めておいて下さい」

「ああ、勿論だ」

彼はヒュギエイアを抱きしめると、目を閉じた。眠れるものだろうかと思っていたが、いつの間にか意識は眠りの中へと沈み込むように落ちて行った。


 その数年間で、イスカンダルは、変わってしまった。

かつての高潔さと引き換えにずる賢さを手に入れた。あれほど大事にしていた義を捨てて不義を手に入れた。立派であった徳を捨てて、悪徳を身に着けた。

彼の振る舞いは以前の彼の全てを駆逐するような有様であった。後宮に何百人もの女を囲い、美食と美酒に溺れ、ろくでもない因縁を付けては奴隷を平気で殺した。家臣で叛意ありと疑われた者、いさめようとした者を片端から処刑した。

暴君と言うにも余りある、酷い有様であった。

だが、イスカンダルの背後に屈強な武神サマエルがいると人々は思っていたため、サマエルを恐れて人々はイスカンダルが増長するのを止められなかった。

それでも、あまりにもイスカンダルが人を殺し過ぎたために、神殿で何も知ろうとせずに呑気に暮らしていたサマエルの耳にも噂が伝わった。

「おいイスカンダル」何かの冗談だろうと思いつつ、サマエルはイスカンダルに会いに行った。そして、ぎょっとした。かつては毅然としていたイスカンダルの眼が腐りきっていたように見えたからである。気の所為だ、と彼は思った。無理やりそう思うようにした。彼の知るイスカンダルは、高潔な人間であった。それがここまで落ちぶれるはずが無い。彼は現実をまともに見て分析せずに、まだそのような甘ったれた思い込みをしていた。

「どうしたサマエル?」イスカンダルは美女を幾人も周りにはべらせている。誰もが眉をひそめる行為だった。ここが後宮ならまだしも、ここは政治まつりごとを行うべき場所であったから。サマエルはたしなめるように言った。

「お前は殺し過ぎだ。 あまりにも殺すと恨みを買うぞ、気を付けろ。 それと君主としての振る舞いを――」

「分かった分かった、気を付ける」だがイスカンダルもサマエルの忠告に対してまともに相手をしようとしなかった。「それより、ペルシスへの遠征計画だが、半年後だ。 半年後に必ず往くぞ」

「分かった。 だが、くれぐれも人の命は粗末に――」

イスカンダルはうっとうしそうに、

「分かった分かった!」とサマエルを追い払った。

追い払われてもサマエルはろくに抵抗しようともせず、『全くアイツも変な趣味に染まったな』くらいにしか思わなかった。

現実よりも、だって、この幸せの方が楽しいから。

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