『護国の赤蛇』 第二章
サマエルの少年期。
イスカンダルはマケドニアの王子だった。本来ならば先王であった彼の父フィリッポスが亡くなった後、マケドニアの王位に就くはずであった。だが彼の母親が既に死んでいて有力な後ろ盾が無かった事、父が亡くなった時に彼が幼かった事などが災いして、王位は彼の叔父ペルセウスが継いだ。
ペルセウスはイスカンダルを非常に敵視していた。何故ならイスカンダルが若く、優秀な軍事指揮官であったからである。イスカンダルはこれまでペルセウスから一七回毒殺されかけていた。彼を可愛がっている王宮侍医にして魔神のアスクレピオスがいなければ、とうの昔に死んでいただろう。
しかし、イスカンダルは絶対に叔父に反撃しようとはしなかった。
「どうしてですか?」
サマエルが思わず訊ねてしまったほど、イスカンダルはただ、ただ耐えていた。
「どうして貴方には力があるのに、それを振るわないのですか?」
「義のためだ」イスカンダルは一八回目の毒殺未遂事件に遭い、寝込んでいたが、はっきりとそう言った。「俺は、義に背く生き方だけはしないと誓った」
「……義とは、何ですか?」
「見てくれを気にする男の生き様みたいなものだ。 俺は」そこでイスカンダルは一呼吸置いて、「きっとこの世界では異端児なんだろう。 きっと愚か者なんだろう。 だが俺は、俺のこの生き方だけは絶対に変えない」と言い切った。
「お兄様」
アスクレピオスの孫娘で、イスカンダルの幼少時から一緒に育っている女神のヒュギエイアが、すっかり呆れた声で言った。彼女は赤ん坊の頃から一緒だったためもあり、イスカンダルの事を本当の兄のように思っていた。
「お兄様は、本当に不器用にしか生きられないのですね」
「何とでも言え」イスカンダルは、ぷいと顔を背けた。
「では遠慮なく。 お兄様は賢いのに愚かな生き方をしていらっしゃる。 あの奸智に長けたペルセウスの甥だとは信じられませんわ。 ねえサマエル、そうでしょう?」
サマエルはこのヒュギエイアが好きだった。彼女はいつもはきはきとしていて、気品を持っていて、まるで亡き母に似ていたから。
彼は頷いて、「……何がどう変異してイスカンダル様はこうなったのですか?」
「……俺はな」イスカンダルは天井を見つめて、ゆっくりと言った。「丁度サマエルくらいの年に、砂漠の国アエギュプトゥスの都アレクサンドリアから来たと言う哲学者に出会ったんだ」
海の向こうの砂漠の国アエギュプトゥスの都アレクサンドリアについては、サマエルも噂程度に知っていた。だが、『哲学者』とは?と思った。
「哲学者……? 哲学、とは何ですか?」サマエルは不思議そうな顔をする。
「思想の学問だ。 人は思考し、悩む生き物だ。 その悩みをどうにかしようと言う非常に論理的な学問だ」
「私に言わせれば思想犯の学問ですよ」ヒュギエイアがぼそりと言う。「そんな危険なものに浸ってしまって、お兄様はおかしくなられてしまった」
「うるさい。 とにかく俺はそれで変わった。 義のために生きなければ、俺は俺でいられなくなった」
「全くお兄様は」そう言いつつもヒュギエイアが白銀の器を手にして、「まあ、でも良いですよ、私はそんなお兄様が好きなのですから。 さ、薬湯をどうぞ」
イスカンダルは苦々しい顔をしてそれを飲みほし、
「……ああ、クソ、どうしてアスクレピオスの薬はいつも苦いんだ!」
「毒が甘いからですよ」ぴしゃりと彼女は断言し、イスカンダルはまた顔を背けた。それから彼女は、「ああ、サマエル、おじい様にお兄様がきちんと薬を飲んだと伝えなさい」とサマエルの方を向いて命じた。
「はい」とサマエルは頷いて、言伝のために歩き出した。
――部屋から出ていくその後ろ姿を見て、ヒュギエイアはぽつりと、
「サマエルはいずれ、大物になりますね」とつぶやいた。
「だろう?」とイスカンダルは自慢げである。「ヤツも見てくれを気にする男だ。 そう言う男こそ大物になる。 ヤツは、父親との約束を思い出した途端に目の色を変えた。 あのような燃える目をして、な」
「……あの眼は常人の眼ではありませんね。 少なくとも私はそう思います」
「ヤツはまだ能力に目覚めていない」イスカンダルは面白そうに、「どんな力に目覚めるのやら。 下手をすれば、神の悪意すら超越する能力に目覚めるのかも知れん。 ところで」
イスカンダルは絹の寝具の中から、にやりとした顔を彼女に向けた。
「?」ヒュギエイアは何だろうと不思議に思った。
イスカンダルはにやにやと、
「ヤツはお前の事が好きなようだぞ?」
「!」彼女は目を真ん丸に見開いた。「な、何故!?」
「何故も何も、お前は美女だ」
「……」ヒュギエイアは言葉が出てこない。
「その顔を見るに、お前も満更では無さそうだな」イスカンダルはついに笑った。「まあ良い。 恋には身分も出自もへったくれも無いからな」
「断ってまいります!」ヒュギエイアが顔を真っ赤にして叫ぶように言った。「お兄様、何を楽しそうにしていらっしゃるのやら!」
「妹のような女に恋人が出来たのが嬉しくもあり、さみしくもあり……これが楽しくなくて何なのだ?」
「全く! 全くもう!」ヒュギエイアは足音も荒く部屋を飛び出して行った。
それと入れ替わりに、クィントゥスが血相を変えて部屋に入ってきた。
彼はペルセウスの息子であったが、イスカンダルに味方していた。彼は青年特有の理想家であった。だからイスカンダルの潔い生き様に感銘を受けていた。理想を追い求めるあまりに現実を直視できない所があったし、あまり勇敢な気性でも無かったが、ともかく彼は現在のイスカンダルの敵では無かった。
「た、大変だイスカンダル!」クィントゥスは混乱のあまりに言葉がつっかえている。
「ん? これ以上何が大変になるんだ?」
「父はアスクレピオスを殺すつもりだ!」
「!」
「陪臣に武装させて、父がアスクレピオスの神殿に向かうのを見た!」
「何だと!?」イスカンダルは起き上がろうとして、それが出来なかった。毒にやられた体では、とても無理だった。
「おまけに父は君にギリシア遠征に行かせるつもりだ! 勿論勝って帰ってくる事を望むのではなく、間接的に殺すために!」
「……俺は良い、俺は良いんだ! だが、アスクレピオスまで……!」
イスカンダルはもがき、呻き、そして、畜生、と血を吐くように呟いた。
アスクレピオスは机の前の椅子に座り、真剣な顔でうつむいて薬草の調合をしていたが、そこへサマエルがやって来たため、顔を上げた。アスクレピオスの神殿の最奥の薬草部屋には、貯蔵され整理された薬草が織り交ざった、ややつんとした匂いと、それを焙じた少し香ばしい匂いで満ちていた。
「イスカンダル様はきちんと薬を召されました」とサマエルは言った。
「そうか。 ……それは良かった」
「では、失礼します」とサマエルが下がろうとしたのを、この老いた魔族は引き留めた。
「待て、サマエルよ。 年寄りの愚痴に付き合っておくれ」
「はい」
サマエルが了解したのを見て、アスクレピオスはぽつりぽつりと話し始めた。
「ワシはもう、年老いておる。 寿命ももうすぐ途切れるだろう。 ヒュギエイアにワシの知る限りの薬学と医学は教え込んだものの、ヒュギエイアの力はワシの力には遥かに及ばぬ。 今度イスカンダル様に何かあったならば、その時ワシは……どれほどお助けできるか、もう分からぬ」
「……」
「もしも亡きフィリッポス様が後三年ご存命であったら……とワシは思ってしまうのじゃ。 さすればあのペルセウスが王座に座る事も無かったであろうに。 ……それにしても、恨めしきはあのアレクサンドリアの哲学者よ。 イスカンダル様は彼奴に薫陶されてしまわれた。 あのお方は己の命に対してすら潔くなってしまわれた。 もう少し、もう少し、卑怯にならねばこのマケドニアでは生きられぬと言うのに……」
「理想は現実に破壊される、と言う事ですか」
「破壊ならばまだ良い。 だが実際は破壊ですら無いのじゃ。 ――『駆逐』」そこで言葉を区切って、老人は続ける。「『駆逐』されてしまうのじゃ……サマエルよ」
「はい」
「おぬしは、イスカンダル様をどう思っている?」
「高潔すぎて付いていけないと思っています」
「……これまた率直すぎる意見じゃな。 どうしてそう思った?」
「かつて、僕の母は、僕を育てるために貞節を捨てましたから。 それと比べると、イスカンダル様はそう言う事が一切出来ないように思います」
「そうか……」老人は目を閉じて、開けた。「サマエルよ、ワシはあの人に善と徳と義を司って、おぬしにはそれと真逆のものを司って欲しいのじゃ」
「それは、どう言う意味でしょうか?」
「車は二輪でなければ安定して動けぬ。 イスカンダル様には美しい理想を、おぬしには醜い現実を背負ってほしい。 そうすれば、イスカンダル様はきっと……」
「善? 徳? 義?」
不意に男の声がそこに割って入った。ばっとサマエルが振り返ると、ペルセウスが陪臣達を引き連れて部屋に入って来ていた。ペルセウスは言った。
「アスクレピオスよ、やはり貴様は老いたな。 そんなものなどこの世には無い! 偽善と悪徳と不義のみがこの世にある。 絶大な権力を手に入れれば、間違いなく誰であろうと腐るのだ。 イスカンダルも例外ではない」
「……」サマエルは脂汗をだらだらと流していた。陪臣達が全員武装していたからである。アスクレピオスが静かに立ち上がり、言った。その姿は老いてもなお、一国の名だたる魔神として堂々としていた。
「ワシに、何の用でございますかな、ペルセウス陛下」
「イスカンダルがまだ生きている原因を、いい加減に潰さねばと思ってな。 こちらの我慢も、限界に達したのだ」
「……では、ご自由になさいませ。 ああ」アスクレピオスはサマエルを見て言った。「あちらの奴隷まで殺す必要はございませぬ」
「そんな奴隷のガキなんぞ、端から相手にはするつもりは無い。 それにしても」とペルセウスは舌なめずりして言った。「ヒュギエイアは良い女に育ったな?」
かっとアスクレピオスが目を見開いた。
「……陛下。 そのお言葉は、どのような意味でしょうか?」
「そのままの意味だ。 今死ぬ貴様が気にする必要は無い」
「――!」
その瞬間、サマエルが脱兎のごとく走り出した。
だがすぐに陪臣により捕まって押さえつけられる。
「おやおや小僧、もしかして貴様はヒュギエイアに懸想でもしているのか?」ペルセウスが呆れたように言った。「おい面倒だ、殺してしまえ」
「お待ちを」アスクレピオスがそれを遮った。「所詮は奴隷、身の程知らずの小僧の思慕でございます、殺す必要はありませぬ」
「……ほう」とペルセウスは愉悦を顔に浮かべて、「殺す価値すら無い、と言うのか?」
「……はい」アスクレピオスは頷き、ゆっくりと言った。「さ、どうぞワシを殺しなされ。 ワシは老いぼれではございますが、殺す価値はありますぞ」
「ふむ。 では、やれ」
剣が一閃されて、アスクレピオスの首が宙を舞い、血が飛び散った。
「!!!」
サマエルはまたしても、己の無力を痛いほど思い知らされた。
また己は誰かに庇われるだけだった!
……首と別れた胴体が、どさりと倒れる。赤い血が流れていく。
「さてと……」ペルセウスはほくそ笑んで、「それではイスカンダルにギリシアへの遠征勅令を下そう! いくら、ヤツが優れた指揮官であっても、寡兵にて行かせれば迎撃により全滅するであろう」
ペルセウス達はサマエルを解放したが、彼は動けなかった。
まただ。
彼の中で母親が死んだ瞬間が鮮明によみがえる。
また、護れなかった!
「い」
その時女の絶叫が辺りを引き裂いた。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああ!」
ヒュギエイアが真っ青な顔で立っていた。
「おじい様! おじい様!」
亡骸に駆け寄った彼女は、汚れるのも構わずに血だまりの中の首を抱きしめて、半狂乱で叫ぶ。
「どうしておじい様が!? 嫌よ、嫌よ! 何でおじい様が!」
だが賢い彼女は次の瞬間に誰が祖父を殺すように命じたかを悟り、ペルセウスを睨みつけた。
「おやおやヒュギエイア」ペルセウスは平然と、「どうして私を睨むのだね?」
「貴様、貴様は!」彼女はぎりぎりと歯を食いしばった。
「その顔も美しいのだから美女とは罪な存在だ」ペルセウスは彼女に近づくと、無礼にもその腕を握った。「おいで、ヒュギエイア。 そこの奴隷と、イスカンダルまで同じような目に遭う姿を見たいのか?」
「――ッ!」
ヒュギエイアは形相を歪めたが、やがて、ペルセウスに腕を引かれるがままに従った。もう失いたくない。それが彼女の本音であった。これ以上失うくらいなら、この身を投げ出してでも、それを防ぎたい!
「……ヒュギエイア、様」
サマエルは小さな声で彼女を呼んだ。彼女は振り返って、
「ごめんね、サマエル」と言った。
涙が一粒だけこぼれた。
イスカンダルは療養中の身であるにも関わらず、遠征に行かされた。サマエルも付いて行った。もはやマケドニアに彼らの居場所は無かったのだ。
「サマエルよ」夜の野営地で、ぱちぱちと燃えるたき火を囲んで座りつつ、イスカンダルはぽつりと言った。無理をしているため、今にも倒れそうな有様であった。「何も、兵卒を無駄に死なせる必要は無いと思わないか?」
サマエルは無言で頷いた。
「それに……」イスカンダルは笑った。「お前も無駄に死ぬ必要は無いのだ」
イスカンダルは剣を抜いて、その白刃を己の首に当てた。
「止めろ」サマエルは、何故か彼を止めた。
「今更何故止める?」イスカンダルは怪訝そうな顔をした。
もはや何もかもが全て終わってしまったも同然であった。彼らには帰る場所も護るべきものも今や存在していなかった。義に生きようとしたイスカンダルの生き方は、真正面から現実世界に否定され拒絶された。そしてイスカンダルが理想的なこの義のために殉じて犠牲になれば、サマエルだけはまだ助かるかも知れないのに。
サマエルがばっと背後を振り返った。
「――夜襲だ!」
次の瞬間、一本の矢がイスカンダル目がけて夜の闇を切り裂いた。
その時、であった。サマエルは覚醒した。急速に世界の流れる時間が遅くなった。サマエルの頭が恐ろしいくらいに冷静になり、同時に燃えるように熱くなった。
隣であり、すぐそこの、目の前へ、可笑しいくらいの速さで矢がその鋭い切っ先をイスカンダルに向けて、一撃にして仕留めようと迫っている。その、移動経路も、矢のある空間の何もかもが、サマエルの認識下に置かれた。彼は空間を理解した。三次元の世界空間を彼は認識した。そして、今の彼にはそれを操作する事が可能だった。操作と言っても特定のものしか今は出来なかったが、現時点ではそれで十分だった。彼を無慈悲に殺そうと言う神の悪意をも超越して、彼は覚醒したのだ。
そうだ、己も魔神になったのだ!父と同じように!
彼は右手を前に突き出した。
「――『遠距離空間爆裂爆散能力』――BIGBANG!」
矢が粉々に砕け散った。
サマエルは立ち上がった。そして、魔神としての力を振るい始めた。夜襲をかけてきた軍勢の先鋒がことごとく粉みじんになって吹っ飛ばされる。
後続部隊にもサマエルは空間を爆発・歪曲させて一瞬で迫った。
「BANGBANGBANG!」
ものの数秒で、夜襲部隊を全滅させた。
それを確認してから、サマエルは歩いて戻った。
「……サマエル、お前は……」
唖然としているイスカンダルに、彼は興奮を抑えて、あえて冷静に言う、
「勝ったぞ、勝てるぞ、イスカンダル」
それは実の所、戦争ですら無かった。彼我の戦力差が酷過ぎて、負けないと言う結末しかマケドニア軍は得られなかったのだ。都市を覆う堅固な城壁がただの一撃で吹っ飛ばされた。敵軍の兵士が全滅した。ギリシアの神々が必死に立ち向かってきたが、サマエルの相手にすらならなかった。サマエルは死なない程度に守護神を痛めつけて、それから降伏するように命令した。逆らえば皆殺しにするぞと言い、実際、それでも逆らった愚かな守護神の都市をただの荒れ地に変えた。
――ギリシア全域を征服するまで、たったの数か月。
ついにギリシアの全てを征服した日の二日後、イスカンダルはギリシアの主要都市アテナイを馬に乗って行軍していた。そのすぐ側で、サマエルも同じように騎乗して行進していた。アテナイの誰も彼もが畏怖の眼で彼らを見ていた。史上初めてだったのだ、これほど強い魔神と、これほど強い軍隊の存在は。
「サマエル」イスカンダルは訊ねた。「これからお前はどうしたい?」
サマエルはこの数か月間で、驚くほど大人びた態度を取るようになっていた。当然なのかも知れない。マケドニアを追い出されてからと言うもの、サマエルは、基本的に非力とされる、『子供』と言う己の有様を憎んでいたから。
サマエルは聞かれたのに、逆に聞き返した。
「……イスカンダル。 貴方はこれから大人しくマケドニアに、ペルセウスに従うおつもりか」
「……いや」意外な事にイスカンダルはこう言った。「このまま、帰還したとして、奪われるのは『俺の』ではなくサマエル、『お前の』得た土地だ。 それは、お前にとっては耐えられない事だろう?」
「……ああ」サマエルは頷いた。彼は己の力で領土をもぎ取った。だから、己の力でこの領土の守護神となり、君臨したいと思っていた。
「だが、俺は戻る」イスカンダルはサマエルを見て、いつものように快活に笑った。「待ち受けるのは犬死だろうが、戻らなければ俺は俺でなくなってしまう。 ……おいサマエル」
彼はサマエルの名を心底嬉しそうに呼んでから、悪戯っぽく言った。
「お前はこのままギリシアの守護神になれ。 そして精々ペルセウスの肝を冷やしてやれ。 その方が楽しいだろう?」
その笑みを見たサマエルは、ついに言葉にしてはならない事を口にした。
「……イスカンダル、お前がギリシアの王になれ! そしてペルセウスを打倒し、マケドニアも――!」サマエルが立場も何も捨てて、そこまで言った時だった。
イスカンダルが、穏やかな、だが揺るぎない目で彼を見据えて言ったのだ。
「俺は、義に背く事だけは出来ない。 良いかサマエル、俺はな、俺は――大事なものを護りたいがために義を抱いている」そこで彼は首を振った。ためらいも未練も執着も何かも、振り払うように。「……何、毒殺される前にヒュギエイアはお前の所に返そう。 案じるな、必ずヒュギエイアは生きている。 俺は、ヒュギエイアが生きている限り、この義を抱き続けたまま死ねるだろう。 それが俺の生き様だ。 お前の所に返せば、お前は全力でヒュギエイアを幸せにするだろう? これから、お前達はマケドニアなんか捨てて自由に生きろ。 生きて、幸せになれ。 お前の力は凄まじい。 きっと強力な守護神になる。 お前達はお前の力で幸せになるんだ――いや、幸せになれ。 命令だぞ?」
サマエルはヒュギエイアへの恋情と、イスカンダルのあまりの潔さに泣きたくなったが、涙を殺して、言った。
「……じゃあ僕はこの地から出て行く。 新天地で、僕は僕らの居場所を見つける!」
「そうか。 それも良いだろう」イスカンダルは目を細めた。
神の悪意をも超克して、覚醒した。