『護国の赤蛇』 第一章
サマエルの幼少期。
女は逃げている。幼い子供の手を引いて、必死に逃げている。死体の山を越え、子供が疲れてぐずったのを抱きかかえて、必死に逃げている。それは周りの人々の誰もが似たような有様であった。もう少しなのだ。もう少しで国境を越える。そうすればイスラエル軍も彼女達に手を出す事は出来ない。だが、イスラエル軍の進撃は速かった。
矢の雨が降り注いだ。人々が絶叫し、あるいは断末魔を上げて、ばたばたと倒れていく。運悪く負傷しても生きていたものはとどめを刺された。
その地獄の中を、そしてその阿鼻叫喚の光景を背にして、女は走った。走って走って、辛うじて森の中へと入った。ここならば矢を恐れる心配は無い。だが、国境を越えねば安心は出来ない。彼女は走り続けた。足から血が流れているのにも構わずに。
「貴様は誰だ!」
不意に鋭い誰何の声が上がり、彼女ははっとして立ち止まる。前方の木々の影から武装した男達――恐らくは兵士だろう――が姿を見せた。
「ここはペルシス帝国領なるぞ!」
助かった。国境を越えた!
彼女は子供を抱えたままうずくまりかけて、何とかこらえる。
「わ、私は、イスラエル軍より逃げてまいりました。 命だけはお助け下さい!」
「何……?」指揮官らしき身なりの良い男が姿を見せて、彼女をじろじろと無遠慮に見た。「なるほど、亡命者か」
「え、ええ……」
男はにやりと笑って、
「命だけは助けてやらんでも無いが……条件がある」
「何でしょうか……?」彼女は怯えた、どんな悪条件であろうと今の彼女には否む力が無いからであった。
「何、命までは奪わぬ。 私は出世したいのだ。 お前のような綺麗な女を我らが守護神ズルワーン様に献上すれば、それも可能だろう」
「……」
女は唇をかみしめて黙り込んだが、すぐに首を縦に振った。従順に。
ここで否と言ってサマエルごと殺されるよりは、いくら耐えがたき恥辱であるにせよこの条件を呑みこむしか無い。
貞節や善悪など生きるのにもはや邪魔なだけだ。
――何があってもサマエルのために、サマエルを育てるために生きる事。
それが彼女とレッド・ヴァイパーが交わした最後の約束だった。
男は満足げに頷いて、
「賢い女だ。 きっとズルワーン様もお気に召されるだろう!」
ペルシス帝国首都ペルセポリスで、彼女は守護神ズルワーンに貢物として献上された。華やかに飾られた彼女が歩く姿は、誰もがはっと息を呑むほど美しかった。ズルワーンは彼女の事をすぐに気に入った。気品、色香、包容力、そして凛々しさを彼女は兼ね備えていたのだ。それが、彼女がかつてはレッド・ヴァイパー、今はサマエルのために獲得したものだとは、誰も知らなかったが。
「おかあさま」とサマエルは目の前に並べられたご馳走を見て、眼をパチパチとさせた。ズルワーンが彼女を寵愛したため、生活も何もかもが豊かそのものになったのだった。けれどこの幼い子供は空腹であったのに、それに手を付ける前に、「おとうさまはいつもどってくるの?」と訊ねた。「おとうさまもいっしょに、ごちそうさまをいわなきゃ」
彼女は顔の表情を崩すまいと歯を食いしばった。この子は、何と良い子なのだろう。臆病者ではあったが卑劣漢ではなかったレッド・ヴァイパーの、良い所を受け継いで。そして、言った。
「……お父様はね、遠い場所へ行かれたの。 お前が大人になったら戻ってきます。 お前が寂しがっているとご存じになられたらお父様まで悲しくなりますから、お父様の事は秘密にしましょう。 良いですね、サマエル?」
「はい!」
何も知らない少年は、元気よく返事をした。
サマエルに異父弟アフラ・マズダが出来るまで、時間はかからなかった。だが、神殿で暮らす女の生活は決して幸せでは無かった。ズルワーンの彼女へ対する過度な寵愛は、後宮に住む他の女達の嫉妬を招いたからだ。特にズルワーンの子を一人も持っていなかった正妻からの攻撃は苛烈だった。女は健気に耐えていたが、ズルワーンが彼女に対する寵愛のあまりにアフラ・マズダを跡継ぎ――次期守護神にすると言い出した所為で、正妻らの嫉妬が憎悪と殺意に変貌したため、嘆き悲しんで毎日を過ごした。サマエルは必死に母親を庇い、守ろうとしたが、子供の出来る事など焼け石に雀の涙であった。
「お母様」サマエルは泣きじゃくっている母親に抱きついた。「お母様、泣かないで、泣かないで!」
「サマエル」女は彼を抱きしめた。「守ってやれなくて、ごめんね、ごめんね……!」
ついさっき、サマエルは正妻の召使いにより、階段から突き落とされた。幸いにも打撲で済んだが、下手をすれば命が危うかった。
「大丈夫だよ、僕は! これくらい何て事無いもの!」
「……ああ!」女は小さな、己にしか聞こえない声で呟いた。「お前は本当に良い子に育ったわ、あの人もきっと喜んでいるわ」
「お母様、だから泣かないで!」
少年の励ましに、女は、こくりと頷いて、無理やりに笑った。
そこにズルワーンが威風堂々とやって来た。贅沢に天井から壁は金銀宝玉で飾られて、美しい絨毯が床には敷かれ、置かれた調度品は美と豪奢の極み、まるで夢の中の世界を具現化したような閨がある、後宮の中でも一番素晴らしいと言われる女のこの部屋に。だが女にとっては、美しく豪華なこの檻に、サマエルのために閉じ込められているようなものであった。
「……何だ、いたのか」ズルワーンはアフラ・マズダを大事に連れてやって来た。そして、サマエルをまるで罪人を見る目で見た。
「サマエル、なにをやっているの?」
アフラ・マズダも、見下した声で言った。彼は己が目に入れても痛くないほどズルワーンに愛されていて、一方、己の種違いの兄は害虫のように嫌われている事をもう知っていた。
なのに兄は自分よりも母親に愛されている!
この幼さで、既に彼は兄に対して、純然とした差別意識と、母親を奪われていると言う深い憎悪を抱いていた。
「……」サマエルは母親から離れた。彼は賢い少年であったから、こう言った。「何でもありません」
そして彼は、部屋から出て行った。背後で嬉しそうにはしゃぐアフラ・マズダの声、ズルワーンと丁寧な物腰でやり取りする母親の声がした。けれどサマエルは知っていた。彼の母親が、本当はズルワーンを愛してなどいない事を。
……彼は、本当はもう気付いていた。己の本当の父親が彼らのために死んだ事、父親の最後の赤き勇姿、交わした約束、そして天地を震わせるようなあの大咆哮の全てを覚えていた。いつも優しくて、優しすぎるくらいだった父親の記憶が、彼の支えになっていた。
「お父様」サマエルは廊下の端にある太い石柱にすがりつつ、誰にも聞こえぬように、けれど届くことを心底願って言った。「どうか僕に力を下さい。 大事なものを護れる力を、下さい!」
サマエルが一三才になった年だった。正妻がついに刺客を雇い、真夜中に彼の母親を彼ごと殺させようとした。だが母親は己よりもサマエルを庇った。母親は刺される寸前に絶叫し、何事だと人々が駆け付けてきたため、刺客はサマエルまで殺せずに、逃げようとした所を捕らわれた。
「お母様!」サマエルは段々と冷えていく母親の体に必死にしがみつく。「しっかりして、お母様!」
だが、既に急所を刺されていたため、母親は手遅れだった。
「さま、える……」彼女は大量の血を吐いたのに、微笑んだ。「生きる、のです、生きて、幸せに、死ぬべき、時に、死に、生きるべき、時に、生きて……ああ」そのしなやかな白腕が何もない空中に、伸ばされた。「そこに、いたのね、あなた……」
腕が落ちて、そして彼女はこと切れた。
死んだ。サマエルは目の前が真っ暗になった。彼は、母親すら護れなかったのだ。無力が罪だとしたら、彼は大罪人だった。
刺客は拷問にかけられて全てを自白した。激怒したズルワーンの命令で正妻は処刑され、彼の跡継ぎは正式にアフラ・マズダに決まった。だが、ズルワーンの怒りはそれだけでは治まらなかった。寵姫が殺された最悪の原因――サマエルを庇って女が死んだと刺客が言ったため――サマエルにもその牙を向けたのだ。
サマエルは背中に鞭打たれて、奴隷商人に売り渡される事が決まった。
「貴様の所為で!」容赦なく召使いに鞭を振り下ろさせながら、アフラ・マズダは怒鳴った。「貴様の所為でお母様が死んだ! 貴様が悪いんだ! 貴様は悪の根源だ! 死んでしまえ! 消えてしまえ! 二度と僕の目の前に現れるな!」
「――」サマエルはただ激痛に耐えるしか無かった。体がバラバラになりそうであった。痛みを通り越して、感覚が麻痺してしまいそうだった。
だが。
だがこれは罰なのだ。
母親を護れなかった彼の、当然受けるべき罰であった。
彼の目の前には、相変わらず闇が広がっていた。
彼は奴隷商人に髪の毛を掴まれ、引きずられて神殿を、そしてペルシス帝国を追い出された。
奴隷船の中、サマエルは悪臭漂う船底の部屋に閉じ込められて、他の奴隷と同じように全てに絶望していた。自問自答を繰り返し、だがそれは全く突破口の無い本当のただの『繰り返し』であった。
(お父様)
(どうして僕はお母様を護れなかったのか)
(弱いから、ですか?)
(……)
(弱いからだ)
(弱い事は悪い事なんだ)
(強くならねば)
(そうだ、誰にも負けぬくらいに強くならねば)
(強くならねば僕はまた失う)
(でも)
(どうすれば……?)
彼の思考は、いつもそこで停止してしまうのだった……。
奴隷船は不衛生で、船員や奴隷商人の気分次第で奴隷達は殺された。反抗しようものなら海へ突き落された。男は殺され、女は弄ばれた。病んだ者、死んだ者は海へと放り込まれた。だが今のサマエルは無力感に打ちひしがれていて、とても反抗する気力は無かった。ぼんやりと死にたいとすら思っていた。それなのに、サマエルは何故か生き延びてしまった。
船が港に着いた。奴隷達は鎖でつながれて船から降りるよう言われて、サマエルもそれに従った。今の彼には己の意志などと言う大したものは無かったのだ。
奴隷市場は大繁盛していた。特に男の奴隷が飛ぶように売れていた。それは、港のあるこの国、マケドニア王国が大規模な対外戦争を起こそうとしていたからだった。戦力を必要としていたのだ。だが、まだ成人してすらいないサマエルを買おうと言う酔狂な客は、いなかった。
ものの見事に、サマエルは売れ残った。
「おい、コイツをどうする?」
奴隷商人達が、困った顔をして話し合っている。
「どうするもこうするも……売れなきゃ食い扶持の損が取り戻せない。 そうだ、神殿に売りつけよう、供犠の糧として」
それでサマエルが、神殿へ連れていかれようとした時だった。
貴人と思しき青年がたまたま通りがかり、死んだ目をしているサマエルに気が付いた。
「おい小僧。 ……まるで死んだ魚のような目だな」と彼はもの珍しそうに言った。
「おお、これはイスカンダル様!」奴隷商人達がいっせいに笑みを浮かべて、我先にゴマをすり、おべっかを並べ立てる。余程の貴人なのだろう、とサマエルは何となく思った。「どうぞ、ごゆっくりご覧下さいませ!」
「……」青年はサマエルをじっと見つめた。「おい。 お前はどこの誰だ?」
「……僕は、ペルシス帝国から来ました。 名前はサマエルと言います」
「ふうむ」青年は考え込む。「神の悪意、か。 随分とお前の親は名付ける時に皮肉を込めたな」
「……いえ、神の悪意にも負けぬように、育ってほしいからだと母は言っていました」
「その結果がこの有様か? 神の悪意に負けて、底辺にいるようだな」
やや嘲るようにイスカンダルは言った。
「そうでしょうね」とサマエルは一切抵抗しない。「父も母ももう死にました。 僕も、もうすぐ死ぬのでしょう。 地獄に行ったとしても、そこに僕の両親がいるのならば、きっとそこは天国だと思います」
「……どうしてお前の両親は死んだ?」
「!」それを言われて、サマエルははっとした。
目の前の闇が啓けた。
彼の両親は、彼のために、彼を生かすために死んだ。
彼は父親とかつて交わした約束を思い出す。『強くなって、大事なものを護れるように』『お前は私の希望なのだから』彼の死んでいた眼が、急に生彩を放ち始めた。
そうだ。何故忘れていたのだろう。己はまだ死ねないのだ!
「……僕を生かすため、です」
「ふうむ。 じゃあお前は何のために生きている?」
「約束を果たすため、です。 僕の父は僕に生きろと言ってくれた。 だから僕はそう簡単には死ねないのです」
「なるほど、な。 お前も親がいないのか」ここでイスカンダルはにやりと笑って、「良いだろう、俺に付いて来い!」と言った。
無力は、罪だ。