『護国の赤蛇』 第十五章
最強の父親。
最高の父親。
最愛の父親。
バシレイオスは必死に記憶をたぐり寄せていた。アレクサンドリアで一生懸命、ただし嬉々として写した歴史書達の内容と、教授達の講義を思い出そうとしていた。
彼はもう何十巻にも及ぶアレクサンドリアの歴史書の復元書や逸文集を出していたが、しょっちゅうその改訂版も出していた。しかし今度の今度こそ、完成させてみせる、と彼は決めていた。今度のそれは、その一冊一冊が鈍器になるくらい分厚い本であった。世界歴史大典、と彼はそれらを名付ける事を決めていた。
そこに彼の弟子が駆けつけてきて、
「先生、サマエル様の行幸です! このアテナイにいらっしゃいました!」
「何だって!?」と彼は大急ぎで仕度をして、出かけた。
サマエルは群衆の歓喜の声の中、神殿に入った。バシレイオスは彼に謁見した。
「バシレイオス」とサマエルは聞いた。「研究は進んでいるか」
「おかげ様で、地道にですが進んでおります。 間もなく世界歴史大典が完成する所でございます」
「そうか」とサマエルは頷いた。それから、「……もう、何年になる? お前がラハブにあの図書館前で見つけられてから」
「……百年と五〇年、経ちました」
魔族は人より長生きする。長生きをして、だからその分、人との離別も多い。
「――」一世紀と半世紀。それほど長い時間が経ったのか、とサマエルは驚くと同時に、己の人生を噛みしめた。「――そうか。 百年と五〇年が過ぎたか。 私も老いたな」
思えば長い人生であったのに、あっと言う間に駆け抜けた気がする。
老いたとは思っていたが、そこまでとは。
「サマエル様……」バシレイオスも、万感の思いであった。
サマエルは人払いして、それから言った。
「バシレイオス、一つ頼みたい事がある」
「何でしょうか?」
「私はこれからもう一度イスラエルに向かう。 もしも生きて帰って来なかったならば、歴史書にこう書いてくれぬか、『戦って死んだ』と」
「!」バシレイオスは眼を見開いた。
「私はローマの守護神だ。 しかしそれ以前からいつも戦場を駆け抜けてきた。 いつも戦場で活躍した。 なのに、戦場でない場所で死ねるものか」
「……サマエル様」バシレイオスはぶるぶると震えていた。「サマエル様!」
「安心しろ、私はお前に偽の歴史を記させはせぬ。 頼んだぞ」
「……」バシレイオスはしっかりと頷いた。床に水滴がいくつか落ちた。
太陽は朝焼けの中を昇る。そして、夕暮れに必ず沈む。
彼らはその事を、知っていた。
イスラエルに彼らが到着したと同時に、イスラエルの大勢の民が決起して反乱を起こした。
軍隊にそれを鎮圧に行かせ、サマエルは単身そこへと向かった。そこから、強大な、とても強大なあの気配が立ち込めているのだ。
――そこでは、黒の幼女が、彼を待ち構えていた。
「きゃははははは!」と大天使サタナエルは歌っている。「悪いヤツらはみなごろしー、悪いヤツらはみなごろしー♪ お前もみんな、みなごろしー♪」
「音痴だな」サマエルはそう言ってのけた。「まるで調律し忘れた琴のようだ」
「……おまえ」とサタナエルは憎々しげに言った。「死んじゃえ!」
サタナエルの影から混沌があふれ出て、それは津波のようにサマエルを襲った。
「BIGBANG!」
だが、混沌の津波は空間ごと吹っ飛ばされる。そこをサマエルは空間跳躍して一気にサタナエルに近接した。サタナエルの顔が驚愕に歪んでいた。
「BIGBANG!」
サタナエルの全身がバラバラになって散った。だがサマエルはまだ警戒を解いていない。気配が、強大な気配がいまだに立ち込めているのである。
「おまえ」と、サタナエルの声がした。
「くうかん、か」
「くうかんを」
「あやつるのか」
「く、ちくしょう!」
「いくぞ!」
彼の周りを混沌の壁が囲んだ。
「くらえ!」
壁が崩れて、全方位から彼は混沌に襲われた。
だが、その時にはもう彼はそこにはいない。空間を歪ませて、脱出している。その後何度も混沌は彼を襲ったが、全てサマエルは撃破あるいは回避してしまった。
いたちごっこが何日も続いた。
「どうした大天使」サマエルは嘲笑った。高貴な者のみが嘲笑えるのだ。「本気を出せば私を即死させられるのでは無かったのか」
「ちくしょう」
「ちくしょう!」と混沌が叫ぶ。
「にん、しきを」
「認識を」
「空間の認識を……」
「…………………………」
「………………」
「…………」
「成功」
がらりと空気が変わった。サタナエルが幼女の姿を取ってサマエルの前に立った。
「凄いヤツだなー、さすがは大帝国ローマの守護神。 だが」幼女は無邪気に言う。「もうおれちゃまの勝ちだ」
「何故だ?」
「おれちゃまは認識したものを喰えるんだぞ。 おれちゃま、空間を、今、認識した。 きゃはははははは、今なら降伏すれば命だけは救ってやる、えっへん!」
「降伏? 馬鹿を言え」サマエルは呆れきった声で言った。「何のために私が時を稼いだと思っている」
「!?」サタナエルがはっとした。びくりと体を震わせて、「さんだるふぉん、それ、ほんとーか!? 解放軍、全部、鎮圧されたって……?」
『サマエル様』アスモデウスの声がサマエルの影からした。『イスラエルの反乱分子の鎮圧並びに首謀者の処刑が完了しました。 ローマは、勝ちました……!』
「アスモデウス、伝令の礼を言う」サマエルはにやりと笑った。「大天使サタナエル。 私はお前に勝った! ローマは勝った! ローマの未来に幸いあれ!」
「畜生!」混沌の海がサマエルを襲った。サマエルは空間を爆裂させたが、何と空間を食して、混沌は彼を襲った。だが彼はもう逃げなかった。逃げる必要など無かった。何故なら彼は勝ったのだ。彼の盲目にはもうはっきりと見えていた。
ローマへ華々しく凱旋を飾る軍の隊列が、何よりも鮮やかに。
そして彼亡き後も彼が未来を託した者達により、ローマは更なる繁栄へと導かれるのだ!
「は、はははははははははははは!」
心底嬉しそうな、大きな笑い声を上げて――目覚めるような鮮烈な赤は混沌の黒に瞬く間に飲み込まれた。
飲み込んだ後、沈黙の中でサタナエルが姿を現して、言った。
「分かった、さんだるふぉん。 神様がそうおっしゃるなら、おれちゃまも撤収する……」
混沌の海が消えた。
「しかしコイツ、何てヤツだ。 何て男だ。 このおれちゃまに勝つなんて。 コイツは、己の老いぼれて死ぬ運命にすら勝った……。 コイツは、史上最強の魔神だった……」
サタナエルは黒い翼を羽ばたかせて、天上へと飛んで行った……。
バシレイオスは、あと数日で発刊される世界歴史大典の文章に、誤記が無いか、偏った文章が無いか、確かめている。夜更けで、ランプがちりちりと燃えていた。
『夜分に失礼する』背後で声がいきなりして、バシレイオスは驚いた。
振り返れば、あのアスモデウスがいて――。
「ゆ、幽霊、幽霊が実在した!?」
『幽霊ではない、悪魔だ』アスモデウスは口をぱくぱくさせているバシレイオスに言った。『それよりも、どうしても告げたい事がある』
「何、でしょうか……?」
『サマエル様の死に際だ』
「!」バシレイオスはかっと目を見開いたが、やがて、ゆっくりと閉じた。「……どのような死に際であらせられた?」
『勝った。 勝って、ローマの未来を祝福し、そして――』
死んだ。
「……。 伝えて下さった事、御礼申し上げる」
『誰かに伝えずにはいられなかった』アスモデウスは思い出しつつ言った。『あの見事な死に際は……まさに最強に相応しい死に際であった』
「……」バシレイオスは、涙をこらえて頷いた。彼はサマエルから受け継いだものを、きちんと受け止めた。
バシレイオスは書いた。世界歴史大典の最後の一行を、書いた。
『そして彼は戦場で戦って死んだ。 ローマの未来を、残した者に託して』
世界歴史大典が発刊されたその日、バシレイオスは彼の高弟達に言った。
「私は、故郷へ帰ろうと思う」
「せ、先生!?」
驚く彼らに、バシレイオスは言う。
「ここで私のするべき事は終わった。 後はお前達が引き継ぎなさい。 私は」バシレイオスは穏やかに笑った。「一つの梯子だ。 より高みを目指すための一つの梯子だ。 お前達はそれを昇った。 次はお前達がそれになりなさい」
――バシレイオスは『帝国』に帰還した。帝国の誰もが驚いた。もう、とうの昔に出奔して野垂れ死んでしまっただろうと思っていた彼が、世界歴史大典を土産に帰ってきたのだから。彼は、帝国の支配者、女帝に謁見を許された。彼は見てきた事、やってきた事を話した。居並ぶ貴族がその真新しい情報に目を丸くする中、バシレイオスはとうとうと語った。
女帝は彼の過去の罪を許し、帝都の図書館の長に彼を任命した。世界歴史大典はそこに収められたが、多くの貴族が写本をこいねがい、広まっていった。
バシレイオスは仕事の合間に、帝国の外に出てからと言うもの、ずっと書き溜めていた日記を元にして何冊も本を書いた。その中の一冊に『ローマ記』がある。それは、この言葉で締めくくられている――。
『彼は、史上最強の、護国の赤き魔神であった』
それを歴史に記す者。




